心理カウンセリング? あぁ、受けたこともあるけどねぇ・・・

私は、心理カウンセリング業界に精通しているわけではありませんが、20歳の頃より自らのために関心を持ち続けることになった分野でした。

その頃、心理に関する学びにもハマりましたが、だからといって、全然、プロ・カウンセラーのそれではないと思います。

特定の派に属しているわけでもなければ、信者の方のように崇拝しているというわけでもありません。

 

1999年に起業してからも、ずっと目を付けていたメンタルケア分野ではありましたが、私は駆け出しのマーケッターとしての起業スタートでしたし、集客支援力の向上のほうに強く意識が行っていました。

しかし、何らかの形で、メンタルケアの分野に仕事として関わりたいという想いは消えずにありました。

それは、おそらく、自分自身が仮にカウンセラーになったとしても、一人の人間に出来ることには限りがあるため、当時は何となくでしたが、一人の力、独力ではカバーしきれないポータル的な広い範囲をイメージしていました。

ようやく最近になって、その皮切りとなるサービス(ほんわか倶楽部)がマッチングモデルとして始められたばかりです。

1999年より年数をかけて見ていくうちに分かったのが、自らの集客は苦手というカウンセラーさんが多いことでも、駆け出しのマーケッターとしても目を付けることになった分野でもありました。

つまり、マーケッターとしては見込みクライアント様が多くおられる業界ということです。

そして、そのことに目を付けている他社コンサルタントの方でも、再現性・実現性の視点で見た場合、全体としては思うような効果に至っていないと見受けられました。

このことは、ほんわか倶楽部・傾聴メンバーへの多数のご応募の内訳と、それぞれの具体的なご応募内容、さらにその後のコミュニケーションの積み重ねから、より実感・確信が持てたことでもあります。

つまり、カウンセリングはそれなりに出来るカウンセラーさんであっても、集客は苦手、ということですね。

実際、そのようなご相談も複数、受けてきています。

リサーチの結果でも、このことは根拠を持って見えていますが、起業当初より「心理カウンセリングを、真っ当に浸透させたい」という想いは消えることはありませんでした。

同時に世間一般では、心理カウンセリングの重要性や必要性に対しては、まだまだ隔たりもあると言えて、その垣根に対して思うところもあります。

知れば知るほど、ここには、なかなかの課題があります。

これが、駆け出しのマーケッターとしては、スグに手を出せずに、今に至るまで長い年数を要した理由でもあったと思います。

ここで「アメリカでは、心理カウンセリングがカフェに行くかのような感覚で浸透していて・・・」と話したら、どうだ、と言う心理カウンセラーさんもおられます。

確かにそうだったとしましても、ここは日本でありアメリカではありませんので、それだけで、心に強く響いて、胸にストンと落ちるかと言えば、なかなか、そうは行かないでしでしょう。

※「心に強く響いて」とは「行動が伴うレベル」という視点で記しています。

いくら現在の日本と繋がりが強い国で、日本への影響も多いとは言いましても、人種も違えば、歴史の成り立ちも風習も文化も違います。

それにアメリカの文化や風習を取り入れることが、必ずしも、日本人にとって良いとは限らず、そぐわない場合もあるわけです。

心理カウンセリングにおいては、アメリカにおけるものだけではありませんので、上記の点については、この記事ではなく、別の機会で記すことがあるかもしれません。

 

生活レベルで実感してきた必要性と壁

 

ー 30代後半の頃の話

私の30代後半からのプライベートでは、メンタルの症状を強く持つ方々(診断を受けたものであり、自称ではありません)との、日常的な友好を楽しく濃く持っていた時期がありました。

濃く、というのは暮らしを共にする時期もあったからですが、がっつりプライベートに関わっていた時期の、これらのことは、カンタンには書けないほどの様々なリアルがありました。

ある経緯で大阪だけに留まらず、他府県のメンタルの症状を強く持つ方々数人とも繋がりを持ち始めて、日常的にスカイプでグループ通話をしたり、たまに会ったりするようにもなりました。

その会話の中でよく出てくる、薬物治療への依存度への高さをリアルに聴いていく中で、私としては精神系の薬だけではなく、心理カウンセリングの必要性に目を向けないのだろうか、という違和感は強く感じました。

ですが、ご本人たちの「どうせ・・・(笑)」という言葉を聴くほどに、プロ・カウンセラーでもない私としては、あまり強くは言えず、内心でモンモンとする感覚を飲み込むばかりです。

「(精神系の)薬のことが詳しいのはいいけれど、薬の話ばっかり・・・」と、しばしば感じつつも、そうそう言えない空気感です。

症状の種類や度合いにもよりますが、精神系の薬は風邪薬のように単発で止めるわけには行かないことが多いものです。

多くは飲み始めると服用し続けないとならなくなり、薬ですので服用し続けることで、さらに強いものに変えていかなければならない、延々と続くスパイラルになっていきます。

新薬が出てきて依存度も下がってきているとは言いましても、よく言われますように「”クスリ”は、逆から読めば、”リスク”」と言いますね。

そんなことは精神系の薬を服用している人だって、副作用が出るかもしれないことも、人に教えられるレベルぐらいまで詳しく分かっている人は多くおられます。

 

ー 20代の頃の話

話を少し遡らせて、20代の頃のマイ経緯に触れます。

私自身は、精神薬を服用し続けないとならないという症状ではありませんでしたが、20代の頃に、カウンセリング系のセッションを長期に渡って受け続けてきた時期があります。

同時に、心理に関する独学も好きで続けていました。

このことにより、開けた体感が忘れられないものとしてあります。

それは私だけでなく、当時の私からの薦め(紹介)を受け入れてくれて、個人セッションを受けた友人たちにも言えたことでした。

マッチすれば、とても重要なものであることは分かっていたのですが、まだまだ、その必要性を広く、他者の心に伝えきるのは容易ではないと感じたのが当時です。

 

ー 再び、30代後半の頃の話

心理カウンセリングで少しでも進めるところがあれば、いずれ、減薬にも繋がっていくのではないか?

薬の話ばかりに傾注しがちな前述の彼ら・彼女らを、傍で見ていた30代後半の頃の私は、度々、そう思い願うことがありました。

クスリに依存し続けるより、ずっと健全であり、何より根本的ですが、症状によって安易な減薬はリスキーです。

同居人のその反動の発作にも、何度もこっぴどく見舞われてきました。

私にはどうして良いか分からなくて、119(救急車)に電話したこともあります。

発作ですので故意にではありません。接し続けてきた人間には、見れば分かります。

発作で暴れられて事故になるのを防ぐために痛い目にも遭いましたが、そもそも良好な人間関係ではあったと思います。

そうとは言え、自らを見直すことなど、なかなか思えず、どこか捨ててかかっている空気感が根強いことには、その経緯や要因について、つくづく知っていたとしても、知っているからこそ、個人的には、ずっと引っかかっるようなものがありました。

安易に自暴自棄になっている、ということでもなく、心のなかではあがいているが、どうしようもない諦め感のようなものです。

素晴らしい感性があるからこそ、辛く悩みやすいことを肌感覚で感じるからです。

 

ー 隔たりから

たしかに心理カウンセラーが在籍している精神科は、数も限られて、それほど多くはありません。

病院に在籍しているカウンセラーの心理カウンセリングでしたら、認定を受けている人であれば無料で受けられます。

民間では料金の問題で、仕事ができない状態にある方が継続的に受けることは、経済面からも抵抗が強く、難しい話でもあります。

仕事をしている方においても「受けたって、どうなるんだろう?! どうせ・・・」という声も多く聴いてきました。

「受けたこともあるけどねぇ・・・」という声もありました。

極端な例ですと、「私が受けるぐらいなら死んだほうがマシ」と言う看護師さんもおられました。

これらの声々を否定したり説得しようとしたりするのではなく、耳を傾け続けることで、様々なヒントが見い出せます。

 

「心理カウンセリング? あぁ、受けたこともあるけどねぇ・・・」

 

例えば、「受けたこともあるけどねぇ・・・」については、担当したカウンセラーさんの視点・捉え方、クオリティ、さらには人としての相性などが、多分に作用しているのではないでしょうか。

ただ「相性による」については、一見、ごもっともな前提のように言われがちですが、「あり方(Being)」をどのようにしていくか、で、相性だけに振り回されない度合いを上げることも出来ると、私は感じています。

それでも人間である以上、相性によって左右する、というのはあると思います。

 

「受けたこともあるけどねぇ・・・」に含まれるものの一つに、それぞれの得意分野のカウンセリングのみに偏った応対に固執しているケース、このことが挙げられます。

カウンセラーになるために自らが学んできたジャンルの枠にはめ込んでしか捉えようとしない、それ以外は先生としては「分からない」とは言えないマインド、でしょうか?

はまらない解釈は否定してしまえとでも言うような、切り捨てる強引さが見え隠れする空気感・圧迫感・・・。

「分からない」・「私には対応できない」と述べることはプロとしては、どうか、と思えるのも分かりますが、分からないからと言って、特定の枠にはめ込もうとする弊害のほうが問題となるのではないでしょうか。

 

ー 「傾聴」をめてはいけない

「傾聴をなめてはいけない」とは、書籍『ほんものの傾聴を学ぶ』(諸富祥彦・著/誠信書房・発行)にも書かれている一文でした。

私が好む、大切な書籍の1つです。

同書では、『カウンセリングの三つのアプローチ』として、代表的な三種類のアプローチについて俯瞰的に踏まえられた上で、カウセリングの主な理論の大枠が分かりやすく述べられております。

その次に、『ほんものの傾聴を学ぶ』内容について書かれております。

その始まりとしては『カウンセリングの最強の技法は「ほんものの傾聴である」』と述べられております。

 

以下は、私自身、複数の他社(他者)のクライアントだった時代も思い出しながら、私の感じるところで徒然に記します。

まずは入り口として「傾聴」からと言いつつ、実際は、それっぽく見えるだけの表面だけの「なんちゃって傾聴」のようなものしか行なっていないケースが、非常に残念ながら、複数の他社サービスを受けた際に感じられることが多くありました。

(全てというわけではありません)。

そこで、受け止められているとは感じられないクライアント側はモンモンとしつつ、話が進んだとして、どうなるでしょうか?

辛かった状態の私としては、より辛くなってしまうということにもなり兼ねなく・・・。

(このことが後々、ほんわか倶楽部の立ち上げを決意することに繋がっていくのですが・・・)

しまいには、その説教とも取れる、もはや傾聴ですらなければ、「これがカウンセリング?」と耳を疑うかのような言動を振りかざされることに耐えて受け続ける・・・。

そして、何も心には響かないばかりか、言葉にしきれない嫌悪感、得体の知れない違和感や、植え付けられたかのような自責の念が残ることにもなり兼ねませんでした。

 

・・・ これって、何なのでしょう?

わざわざ、辛い心理状態を振り絞ってまで受けないとならないものでしょうか?

少し極端な例を書きましたが、現実のことで、珍しい稀有な例というわけでもありません。

その料金を支払っているのは、誰でしょうか?

 

こうなると、たまたまマッチする人には良かったとしても、フィットしない人には逆効果となってしまい、当たりハズレが激しいこととなってしまっているのではないでしょうか?

この現状が、隔たりの元の1つだと言えるのではないでしょうか?

そうして、カウンセラーさんから見て「当たり」でなかったクライアント様に対しては、「あなたが良くないのよ!」と言い切る・・・責めてくるカウンセラー?さんもいると、実際に複数の声を耳にしましたorz

何を、そんなにムキになりたいのか分かりかねますが、随分と近視眼的に感じられることです。

 

ところが、そのような、なぜか、怒られて責められてきた方でも、ほんわか倶楽部では、実に優良なクライアント様なのです。

前述の「あなたが良くないのよ」と怒られたというお話を聴いたとき、私もあり得ることとは知っていたのに、つい、ビックリしたのを覚えています。

そして、よくよくお話を聴いていますと、全然、そんな「あなたが良くないのよ!」なんてことはないわけです。

何らかの特定の型にはめられないからと言って、それだけで怒られていたらたまったものではないと、私は思います。

 

「私の得意な話を、好きなカウンセリング派閥の話を、これは” 絶対に正しいのに “、それを飲み込めないなら、あなたが良くないのよ!」と言って傷つけられるのですか?

おそれいりますが、そのようなカウンセリング?なら、私もしてほし・・・くないですm(_ _)m

強いマイナスの状態にある時に、強引にプラスを植え付けようとすると、かえって悪化することもあることをご存じないのでしょうか?

例えるなら、風邪を引いて高熱を出して寝込んでいる人に、健康に良いから寒風摩擦しましょう、って言えますか?

なぜ、アプローチの仕方がズレていることを見極めようとしないのか、近視眼的に言えてしまうのかが、私にははなはだ不思議にすら見えます。

自らが持っているアプローチ方法では範囲外であれば、素直に「出来ない」と言えないのが「先生」なのでしょうか。

クライアント様に「素直」さを押し付けようとする前に、自らはいかがなのでしょうか?

ご本人は唯一無二の存在で尊重される、という尊厳への敬意が、言葉で覚えているだけではなくて、腑に落ちているのかどうかも、前提として強く疑問を感じるところです。

まず、声にならない声、言葉や笑顔の裏にあるものに、耳を傾けられるかどうか、その主訴が大事だと私は思っていますし、なんとも微力ながら、その実践に取り組み続けております。

 

この違いには、何があるでしょうか?

 

ほんわか倶楽部がスゴイとかスゴくないとか、そのような小さい世界の下世話なレベルの話をしたいわけではありません。

ちゃんと寄り添おうとしているか・していないか、だけの、とても基礎的な(だが、かなり重要な)違いなのではないでしょうか?

クライアント様は、カウンセラーさんの自己承認欲求からの~自己満足を満たすために来られるわけではありません。

当然過ぎるぐらい当然のはずですが、そんなご都合の良い人が、どこにいるでしょうか。

ですが、「当たり前のことを、当たり前にする」というのが、実際は難しかったりするという表れでしょうか。

当然をどこかに置き忘れているようなケースも散見されることが、世間での心理カウンセリングを受けることへの抵抗感を強めてしまっているという状態を後押ししてしまっている、一つの要因にも思えます。

この要因は、様々な声から鑑みまして、おそらく多いのだろうと推測されるところです。

ましてや、自己満足を押し付けて料金をいただくという視点だとしたら、マンツーマンでは辛いものがあるのではないでしょうか。

巻き込まれた当事者は、たまったものではないと、私は思うのです。

講演会やセミナーなど、それだけに特化したほうが、ハズレとなった不満を利己的に押し潰そうとして、生産性のないエネルギーを浪費しなくて済むかもしれないですね。

一対多の分、合わない人も逃げ道が残されているでしょう。

私は、ほんわか倶楽部に限らず、多少と思われるかもしれませんが、20代の頃から関わったり学んだりしながら見てきていますし、プライベートでもカウンセリングが必要な人たちとの交流を、楽しく濃く続けてきました。

ネットリサーチやアンケートなどでは分からないような、表に出にくい評判から見えてきたリアルな声ともいえるでしょう。

逆に、業界にいるプロの方々も、あまり耳にすることのないような声に触れてきたと言えるかもしれません。

これは私がプロ・カウンセラーになっていたら、気を使われてしまって、あまり得られなかった声かも?しれません。

 

もちろん、柔らかく、じっくりと受容し続けるカウンセラーさんが、沢山おられるのも見てきています。

ですが、よほど注意して探し回らないと、自分にとって良いカウンセラーには巡り会えないというのが、実態のようです。

そこまで注意して探すということはパワーも使うことであり、辛い状態にあるときに現実的にどこまで出来ることかと言えば、なかなか無理があると考えられます。

それ以前に期待感がなければ、なかなか、頑張って探したいとすら思わないでしょう。

 

ー ” 目立っているから安心 ” とは限らない実情

ご存知のようにインターネットが普及し始めてから、しばらくして、誰もがホームページが持ちやすくなりました。

検索エンジンの性能や使い勝手も、日々、進化を辿っているようで、使いやすくなっていくスピードは凄まじいものがあります。

それから、耳や目ににすることが多かったのは、残念ながら、押し付け感が伴うもののほうが検索上位になっていたりして目立っていたりします。

もちろん、目立つところの全てが上から目線のようなというわけではないでしょうが、勢いで進める傾向があるから目立てる、声が大きい方が勝つということなのでしょうか。

本来は、集客プロモーションで目立つ(自分軸)のと、実際にクライアント様に応対する時のベクトル(クライアント様軸)は、書いたそのまま別(逆)と認識して行なうものです。

つまり、自らをアピールする集客と、クライアント様に接する時は別という意識的な使い分けを要します。

書いてて、至極、当然のように思えてきて、なぜ、わざわざ書いているんだろう、とまで思えます。

集客とは「かけがえのない、大切なご縁を創るため」であり、提供側だけの都合の良いように他者に接するためではないと、私は考えたいところです。

 

クライアント様に接する際にも、自分軸だけで当たろうものなら、きしみが生じるのも当然ではないでしょうか?

カウンセラーさんの自己承認欲求のために、その光の影で、他者の心の声を、ましてや、カウンセラーさんが押しつぶして良いという道理はないのではないでしょうか?

心理カウンセリング・サービスではありませんが、メンタルケア事業の皮切りとして、昨年から始めた「傾聴サービスのほんわか倶楽部」でも、巡り巡って来ていただけた複数のクライアント様から、たまたま、そのようなところからの他社クレームを聴いてしまうことも、リアルタイムに度々あります。

私は、それらの声を忘れられません。

全ては「論より証拠」で、「事実と意見は違う」というところか、とも感じます。

 

ほんわか倶楽部を始める、ずっと以前からでも、自分事としての感覚があります。

私がプライベートである激しい痛みを心に負うことがあった際、思い悩んで心理カウンセリングを受けることを考え、どこを受けるかを、かなり慎重に見て回ったことがあります。

その時でも感じたのが、「矯正」的な視点がないところ(人)にしようということですが、私はこのキーワードや類するものにある、何らかの優性感覚には、とても怖さを感じます。

ようやく、2つだけその先は見つけて、一時期、受けていて良かったという感覚がありますが、このような目で検討していくと、安心して申し込める所が、いかに少ないか、と残念に思うのです。

 

かけがえのない、ご縁をつなぐということ

 

隔たりの解消が上手くなされていない傾向を観て、何が考えられるでしょうか?

心理カウンセラーさんのクライアント様側への「受容のあり方」から嫌悪感などを発生させた、その不評クチコミは、なぜ発生するのか?と思ってしまいます。

これらがバックグラウンドで広がってきているという実情は、カウンセラーさんご自身の「在り方」の見直しが求められるところだと考えられます。

さらにもう一点は、カウンセラーさんご自身に、集客(ご縁を創るということ)への認識が、ぼやっとしていることにも要因があります。

どのように表現すれば伝わるのか、「探している方は申し込み前に、何を見たいのか」が、ぼやっとしていて明確になっていないと伝わりません。

それゆえに、機会(ご縁)を逃しているということであり、ここは、きちんとマーケティング・ステップに則って、心をくだいて考え続け実践することで解消できる可能性があります。

本当に必要とされる方(クライアント側)と、それに” 本当に ” 応えられる方(上から目線で押し付けるということをしない心理カウンセラーさん)であれば、そのご縁が繋がれば、どんなに良いか、見える世界が違ってくるか、と、つくづく思います。

ただし、書いてきたように、ここには様々な隔たりがあり、課題があります。

 

そのようなマッチング・サービスの構築も考えてはおります。

それには、まず、” 本当に ” 応えられる方(心理カウンセラー)の「あり方」と、本当に必要とされる方(クライアント側)との壁を、どのように払拭するか、という点が重要と考えております。

かみ合わない押し付け・自己承認欲求を満たすための説教、ましてや犯罪者や不良ですらない人間に対して「矯正」?!などではない、そのような偏ったカウンセラーさん(多いようですが)ばかりでもないわけです。

誤解のないように付記すれば、仮に犯罪者や不良に対してでも「矯正」という感覚で思ったり使うことには、激しい違和感を感じるのは、私だけでしょうか?

あるカウンセラーさんから、「私は、○○の人を何人も矯正してきたんですぅ」と、くどくどと聞かされた時は、言葉に言い切れない違和感を感じて、パートナーシップなど私にはあり得ませんし、少しでも早くフェードアウトして会話を切り上げたくなったものです。

そう感じるのは、私だけでしょうか?

以下の記事では、犯罪者や不良に関して書いたものではありませんでしたが、『「おかしい」・「異常」の言葉の裏にあるもの』としては、通じるものがあるように思います。

 

 

ほんわか倶楽部では、基本サービスとして傾聴サービスをご提供しておりますが、価格面でも、心理カウンセリングと比べると、敷居が低い、良心価格という評価を受けています。

これは心理カウンセリングに限らず、「話し相手サービス」としても(最安値ではありませんが)、敷居が低い、良心価格という評価を受けています。

心理カウンセラーさんからすると割に合わないと思う方もおられるかもしれませんが、ほんわか倶楽部メンバーさんで心理カウンセラーの方は、「この価格(報酬)でも良いから、少しでもクライアント様のお手伝いをさせていただきたい」という方のみです。

「敷居が低い価格設定に好感が持てて、メンバー応募しました」という、プロ・カウンセラーさんもおられます。

そのような方々が、スキルが低い初心者ばかりかと言えば、決してそうではなく、実績豊富な上級者レベルであったりもします。

応対ご報告を受けていましても、とても良い応対をしていただけていることが実感として感じられて、とても有り難い限りです^^

・・・ 記事の締めくくりが、自社サービスの手前味噌となり、おそれいりますm(_ _)m

 


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Topix

  1. 近づいて欲しくないような人まで寄ってくる

  2. バタフライ~

  3. 「おかしい」・「異常」の言葉の裏にあるもの

「言葉の糸」

誰かの 少しずつ紡ぐような
哀しみ 痛みの言葉の糸に触れて

近ければ近いほど

自分だけ特殊ではないんだ

異常なんかじゃないんだ

辛いと感じているのは

間違っていなかったんだ

ズレていなかったんだ

そう 一人でも感じてもらえたら

未熟な私が 未熟なまま 紡ぐ言葉

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