「急激な斜め上にも・・・振り回されない心を持ちたい」

今回の記事は、起業家の方に向けて書いてみましたが、発展途上の内容です。

 

現実、生きていたり仕事をしていると、様々なことがありますよね。

もう、早々、言えないぐらい不思議なこともあるかも?しれません。

極端なものになると、日本語で会話しているように見えて、日本語が通じないような「急激な斜め上」のケースに遭遇することもあるかも?しれません。

いずれにしろ、ここでは、それらを「現象」と記します。

「現象」について、心理学的な視点や、社会学、宗教学などの視点から専門の方が観ていけば、様々な考察ができるのでしょう。

私は、それらの専門ではありませんので、そのように述べることは出来ません。

ただ、生産性はできる限り下げたくないという望みがあり、仕事柄、精神衛生も保っていきたいと望みます。

この記事を観ていただける方々にも、ご自身にとっての、この2点は維持していただきたいと願っております。

ここでは「急激な斜め上にも・・・振り回されない心を持ちたい」という方に向けて、もし、1つのご参考になればという想いで記します。

 

現象に振り回されて良いわけがない

 

このことは、目先の売り上げのためだけの話ではありません。

目先の売り上げも大事ですが、ここでは、もっと根幹のところに触れていきます。

 

「なぜ(Why)」、その事業を始めたのか?という根幹は、現象に振り回されて埋もれて良いものではありません。

事業における本来の「なぜ(Why)」とは、自分の全存在をかけてでもやり通したいことです。

その内容によっては、一生かけても辿り着けないぐらいの「理想」かもしれません。

ただ、その「なぜ(Why)」は、=自分です。

大げさに聴こえるかも知れませんが、自らの存在理由と言えるものこそ、「なぜ(Why)」と言えるものです。

その「なぜ(Why)」にこだわっていくことで、予想以上に人を惹き寄せたりもする、とても有り難い現実にも繋がることは、私自身もリアルタイムに体感しています。

もちろん、マーケティングリサーチを始めとした、外観からの客観的な考察も充分にあってのことですが、主題から逸れますしノウハウになりますので、ここでは割愛します。

 

「マネジメントは難しい」という声

 

反響が得られるということは、一見して、光り輝いてきているように見えますが、その反面も想定されると思います。

有名税というほどではないにしろ、少し、その言葉を実感する時も増えてきたな、と感じることは、私レベルでもたまにあります。

起業家として素晴らしい実績のある方でしたら、私レベルとは違い、それらの度合いは想像を絶するのかも知れません。

それでも、「マネジメントは難しい」ということは、よく耳にします。

マネジメント・スキルが、今まで実績を上げてきたスキルとは別のスキルだと出やすいようで、このことは私自身にとっても大きな課題となっています。

創設者やオーナーの想いまで汲み取って、主体的に考えて動けるエンパワーメントさんばかりでしたら、これほど楽なことはありません。

ですが、現実はそう都合は良くないようで、様々なギャップや問題・課題が日常茶飯事に発生するのは共通して多いように見受けられます。

起業家が当然と思って話ししていることは、起業家でない方には当然でなかったりしますが、それぐらいなら、まだ予想の範囲内でしょう。

もし、予想の範囲内でなかったとしたら、起業家になる、ずっと前のご自身の感覚が、はるか昔で忘れてしまっているからかもしれません。

また、起業家同士であっても経験値の違いから、ギャップは生じます。

その場合、つい、説得や教育と思ってしまいがちかもしれませんが、通常、誰もそのようなことをしてほしいとは望んでないのではないでしょうか?

肯定的なヒアリングの必要性だけでなく、マネジメント・スキルの導入は急務と考えられます。

だからといって、私がマネジメント・スキルを販売する廻し者というわけではありません^^

 

まったく不可解なレアケースへの遭遇

 

おそらく確率は低いと思われますが、時には日本語がまるで通じない、「これは、まさしく、認知のズレ?!」という言葉が脳裏を駆け巡ってしまうような時もあるかもしれません。

例えば、梅田で待ち合わせの約束をしていて、そのメール記録も二回、残っており、「了解」の旨の返信も送ってきていながら、「難波かと思って、難波に行っていました」といったような不可思議な現象です。

つまり、明確な相互確認が取れているという根拠事実があるにも関わらず、なぜか違う解釈をされていたということです。

理由を聴くと「以前に、難波のオススメの話が出ていたから」等???、事柄とは関係のないことがリンクしていたりします。

 

それが一回だけでも仕事ではありえないのではないか、と思えるのですが、一回や二回どころではなく、いつまでも事あるごとに何かしら発生してしまうというのは、通常では考えにくいことのように思えます。

このようなことが実務レベルでも度々、起こりますと、お互いに大変になってくるのは明らかですし、コミュニケーションに過度の気遣いを要されることになりますね。

もし、この発生率が多ければ、それは伝え方に問題があると考えられますので見直しの必要があります。

ところが、決してそうではなく、極まれなレアケースの場合ですと、なかなか想定外となってきますね。

明らかに突拍子もない誤解を重ねられるレアケースでは「認知のされ方」に、何かが潜んでいる可能性があるのかもしれないと思えてしまうかもしれません。

このような、まったくかけ離れた、時には真逆の捉え方をされることも、人数が増加していくに連れて不思議と極々一部ではあるものの一定割合で発生する?こともあるようです。

それが見えていないと、一見、伝わっているようで違う伝わり方・予期せぬ誤解をされていることに気がつけなかったりします。

後手にまわるほどに知らず知らず悪化していく、ということもあり得るかもしれません。

普段から、よく観るように心を配っていたとしても、到底、全てを見通すなんてことは出来かねるものです。

 

伝達スキル(わかり易さなどのユーザビリティー)や、マネジメント・スキルを上げていくに連れて、これらの割り合いは仮に下げていけたとしても、完全になくすことが出来るのかどうかは、現実として私には見えておりません。

おそらく、人間同士である以上、完全になどはあり得ないのではないだろうか、私には断言できません。

認知行動療法にキーポイントがあったとしても、そこにまで繋げられるかどうかも未知数です。

どの場合であろうと相手のお気持ちは尊重したいのは言うまでもないとしても、極端な場合、まるで神レベル?のことを、平然と求められてしまうようなケースもあったりします。

そうなりますとキャパシティを大きく超えてしまうことになり兼ねず、非現実的となってきますね。

いずれにしましても、そのような状況になると慣れないうちは、随分と悩まされたり生産性を落とすことにもなるかもしれません。

ただ、精神衛生にマイナス影響を及ぼしてしまうことは避けたいですよね。

ここで思い返されるのが、リーダーシップ・トレーニングで教わってきた「自分自身がベストの状態であれば、周囲がどのようであろうと問題はない」という言葉です。

なかなかに究極的な言葉のように私には思えますが、結局は自分次第だ、ということでしょうか。

 

根幹を見据えて、必ず、立ち戻る

 

どのようなところからでも、必ず戻ることのできる、自らの土台・強さが「なぜ(Why)」の存在です。

「なぜ(Why)」、その事業を始めたのか、という根幹です。

それは、儲かるから、ブームだからなどの理由ではなく、自らの人生をかけてやり通したいと思えるほどのものが、ここで触れている「なぜ(Why)」です。

 

これはご自身の内観からのものですから、自ら放棄しない限り、究極で見れば誰も奪うことが出来ません。

仮に一時的に、現象に振り回されることがあったとしても、「なぜ(Why)」は何度でも思い返していただきたいと思います。

間違っても見失うことのないよう、言葉として、文章として明確にしていくことが大事なのは、このような意味もあります。

壁に貼る・貼らない等は自己判断だと思います。

例えば、私は起業当初から数年で上昇気流に乗った背景がありましたが、その時でも、同時に全てを失ったとしても・・・と思うようになりました。

もし仮に、全てを失ったとしても、クリエイターとしての端くれの自分の感性さえあれば、必ず、再起できる、という・・・。

クリエイターとしての端くれの自分の感性の根幹には、強い「なぜ(Why)」があります。

かなり、=自分、と言えるものです。

同時に基本軸として、インディペンデント(独立独歩)でいたいと思っており、私が思う「起業家」とは、そのような生き方です。

どこかの組織に起業家の一人として属したり、誰かと手を組むことはあったとしても、執着もしたくなければ依存もせず、迎合してブレたりもしたくない(できない)ということです。

組織や他者(他社)に依存しない起業家としてのパートナーシップとは、その上でのものだと私は思っています。

この姿勢の上で「なぜ(Why)」という根幹があれば、一時的に現象に振り回されることはあったとしても、必ず、立ち戻れるはずです。

= ご自身の「なぜ(Why)」は、どのようなものですか?

ぜひ、しっかりとした文章に記して、何度もブラッシュアップをかけ続けて欲しいと願います。

 

「光があれば、影もある」

 

この言葉は、私自身も、ある現象にひどく振り回された時に思い悩んで、有料で相談したある方がおっしゃっていました。

正直、この言葉は私は好きではありませんし、しっくりとは来ません。

カンタンに割り切ってよいかどうかも、分かりません。

ですが、「光があれば、影もある」ということは、現実として望んでいなくてもあり得ることなのか、とも実感してしまうときが、たまにあります。

とは言いましても、誰もみすみす影を創りたいわけとは思っていませんよね。

願うのは、自ら影になってしまわないで欲しいということです。

闇を闇で打ち払うことはできず、ダークサイドが増大するばかりではないでしょうか?

そうなると好転は逃げていくばかりでなく、その間、とても辛いばかりなのは私自身も実感してきました。

その時に、どのような状態からであれ、光に向かっていこうとすることが大事!と強く感じました。

意志の力というよりは、気付きからのもの、というほうが近いです。

頭で考えて、どうこうという範囲では、おそらく、知れているのではないでしょうか。

もし、何らかの闇に呑まれそうな時は、自己チェックとご自身に合った方策で、トンネルから抜け出していただければと願います。

自分自身とお相手を、どのように見立てるか、そのことにもよってくると思います。

ダークサイドに見立てるのではなく、光に向けて見立てていただきたいと望みます。

 

現実とは違うストーリーの創作

 

前述で触れた、日本語で会話しているのに日本語が通じないケースでは、何かしら現実に即さないストーリーが生み出されていたりするようです。

それを心理学的に分析したり、見立てることは今の私からは避けたいと思います。

 

まず前提として、とても丁寧にかみ砕いて伝えていて、ほとんどの方には○(丸)と伝えていることは○(丸)と伝わっているとします。

つまり、伝え方自体は、大きくズレていないという根拠事実があるとします。

 

ところが、ごく一部の方に限って日本語が通じなくなるケースでは・・・。

○(丸)と伝えていることが、最初から▼(三角)に捉えられていると不思議な現象に始まり、その積み重ね(▼◆★△■?!)で、しまいには最終形態を成し遂げている・・・。

それが蓄積されてイライラが募るなどの地雷となり、何かのトリガーで予想もしていなかった形で暴発する、表に現れるという現象にあたることもあるかも知れません。

その人数はごく少ないとしても、このようなことが重なりますとですと、その負担率は全体業務に支障を及ぼしてしまうぐらいのウェイトを占めてしまう恐れがあります。

その前段階で気がつけて軌道修正ができれば良かったにしても、通常は想定しにくいことですので気づくのが遅くなりがちでしょう。

「まさか」と思いつつ気がつけた段階、最終形態変化を遂げた段階では、実にまともな会話すら困難になってしまうという事態が起こります。

元々、その種があったということですが、芽生えてしまったということですね。

当人の自覚の有無によらず、多くのことが転嫁されてしまい、どんどんと話がすり替わっていきます。

そうして「皆んな、言っていますよ」(実際は創作で事実ではない)などを聴いていると、その場ではまるで、それが真実かのような錯覚に見舞われるかもしれません。

結果、相互理解とは程遠い無理解の状態となり、自己正当化ばかりが押し付けられるという倒錯の事態。

そうなると正論が通じないどころか、狭義の自己満足が目的の不毛地帯に引き込まれてしまっては、大変です。

仕事上では生産性どころの話ではなくなり、精神衛生上もとても良くない影響になり兼ねません。

地雷の暴発による裂傷は、癒えるまで時を要することもあるでしょう。

 

哀しい判断が求められる時

 

例として上記のケースで、歪曲の度合いが強い場合には、誠に不本意であっても、仕事を共に進めることは、はなはだ困難でリスクが高い・・・と、判断せざるを得なくなってしまうのではないでしょうか。

わかりやすい例としては、お客様からのクレームが一つ起こったとします。

ところが、見直しミーティングにおいて改善策を共に考えていけるのではなく、担当者の方が個人的な感情で、そのクレーム自体を頭ごなしに非難してしまっているという、ひどいケースを一例とします。

もし、その非難に固執などをされてしまうと、経営側としては、はなはだどうして良いか困難に感じられるかもしれません。

神田昌典氏もおっしゃっているように「クレームは宝の山」で、そこに業務改善の手がかりがあるわけですが、それを非難していても生産性は上がらないどころか、下手すると存続に関わってしまうわけですね。

特に、全体としてクレームが非常に少なかったりしますと、極たまに発生したクレームは、とても大切に見つめたいですね。

それ以前に、クレーム対応が適切に行えない場合は、事業として地雷を抱えてしまっているようなものと言わざるを得なくなってしまいます。

クライアント様は、サービス提供側の自己満足を満たすためにお申し込みされてくるわけではない、というのは、当たり前の前提のはずです。

ところが、そのことが、どれだけ時間をかけて聴きもっていきながら話ししても通じなければ、哀しい判断であっても、仕事上では無理となるのは仕方ないことかも・・・知れません。

現実の狭間で、どこかの段階で限度は考えないとならないのが、その気持ちを思えば難しいところとも感じます。

これは当人の自己の捉え方によると思われますし、そこまでは別次元の話になってきます。

全ての場面において、いつまでも「傾聴」ばかりしていることは出来ないでしょう。

もし、そうなってしまった場合に是正できる術がなければ、できる限り波風を強くすることなく、刺激せず静かにフェードアウトしていくのも選択肢かと思います。

 

恐怖からの行動に流されない

 

上記の選択肢は、必ずしも「起業家は冷たい」などということではありません。

様々な起業家の方がおられますので、その寒暖も様々でしょう。

心をくだいて対応していた経緯があるのにも関わらず、頭ごなしに「起業家だから=冷たい」と論じてしまうなら、まさに近視眼的な偏見ではないでしょうか。

では逆に、共に仕事をする人間としての認識や姿勢は、どうなのか?ともなってしまいます。

もし、どうしても、それらの打開がどうにも見いだせず、対応の可能範囲を大きく超えてしまう場合は、それ以上は無理をしないほうが、お互いにとって妥当といえるのではないでしょうか。

企業の社会的責任(CSR)として努力は考え続けるとしても、万人に通ずる療法やサービスが存在し得ないように、万能の効果保証をするというものはあり得ないでしょう。

 

もしかしたら、解雇・解除などをして「ブラック企業と言われたら?」のように、起業家としては心配になるかもしれません。

この言葉は、経営者にとっては、恐い言葉かもしれませんね。

ですが、実態がブラック企業でもないのでしたら、そのような冤罪を起こってもいないうちから心配するのは、痴漢をするわけではないのに、「電車に乗って痴漢と思われたら、どうしよう?」のようなことではないでしょうか?

それでは、電車にすら乗れなくなってしまいます。

上記のような、錯誤や倒錯による冤罪的なところから誹謗中傷を受けたとしても、必ず、どこかで話の筋が通らないことが露見する可能性が高いと予想されるのではないでしょうか?

つまり、世間では通用しないことですので、心配するほどでもないかもしれませんが、逆手を取られないように注意が必要なケースも、注意すること自体が哀しいですが・・・時にはあるかもしれません。

いずれにしましても「なぜ(Why)」の先にあるものを、その効果を、深く強く見据えて進んでいただけるように願います。

そのために、あえて多くは語らず、静かにフェードアウトするというのも選択肢かもしれません。

 

「起業家は孤独」と言われがちですが、それでも必ず、通じ合う相手は存在していると信じたいですね。

論語で、『徳は孤ならず、必ず隣あり』という言葉があると知りました。

『徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が必ず現れる』という意味だそうです。

私などはまだまだ発展途上ですが、慢心に気を付けつつ、少しでも近づければ幸甚です。。。

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