悪用 ダメ! 絶対

「悪用 ダメ! 絶対」なんて、当たり前のことだとは思うのですが……

目次

 際限のない、愚かな欲望のラットレース

 

「ラットレース」とは、かごの中の回し車の上で、いつまでもクルクルと回っているネズミなどの小動物の姿を例えたのが語源です。

 

今も昔も、巷では、悪貨が良貨を駆逐するような事業者って見受けられますね。

こうして記すこと・読むこと自体、気持ちの良いことではなく不本意なのですが、何卒、巻き込まれませんように注意喚起として記します。

もちろん、良貨のみに腐心しておられる方々も多く、私は、そのような方とだけ関わって繋がっていたいと思います。

 

最近ですと、心理カウセリングやスピリチュアル業界の一部における、複数の他者事業者において、悪貨の獲得に突き進んでいるケースが発生していることは、実に嘆かわしく思います。

悪貨でも構わず求める輩のような人の話は巧みで、大きく聞こえてしまい、隙をついては人心につけ込み、どこまでも吸い取り続けようとします。

そして、そのプロセスにおいては、カウセリング心理学やマーケティングを悪用していると言わざるを得ず、それらには目に余るものがあります。

クライアントを余計に追い詰めてしまうことになりかねない、聴くに耐えない発言が多々、見受けられて、意を決して相談に臨んだクライアント側の人は、激しい哀しみの心理状態にある時に、それで一体、どんな気持ちになるでしょうか……。

それらに巻き込まれてしまった方々によりますと、もはや、心理カウンセリングではなく、「洗脳による一種のカルト宗教」とまで言われています。

さらには、もはや社会人とすら呼べない迷惑行為までされているようで、その実情の情報を見るほどに、いくらなんでもあり得ないだろうと……。

 

 

それらを詳しく書いてしまうと、信者のような方々や事業者ご本人から難癖を付けられては、私のような小規模事業者では実に厄介ですので、ここで詳細は記しません。

ただ、心理カウンセリングなどを自己利益や思想・信条のために歪曲させて、マインド・コントロールかのように利用されるのは、とてもとても哀しく憤りすら覚えます。

傷口に塩を塗るかのように、わざわざトラウマを増やすかのように、それは、とてもザンコクです。

言いたいことは沢山ありますが、悪用されている一部界隈の方々に対しては、早急に改めていただきたいと願うばかりです。

悪貨は良貨を駆逐することができたとしても、それは一時期なのは様々な歴史が教えてくれています。

 

悪貨を得てしまうほどに、その責任は重くなるとは思いませんか?

仮にも、自称でも「心理カウンセラー」を名乗るのでしたら、まず、自らの心の歪みにもっとフォーカスしたほうが良いのではないか、と私などは思ってしまいます。

自らの問題点を転化して、巧みに他者から奪い取ることで埋めようなどというのは、もはや「心理カウンセリング」ですらありません。

際限のない、愚かな欲望による洗脳ラットレースのスパイラルではないでしょうか?

 

 

私からすると、このようなことを書かざるを得ないことすら不毛に思いますが、巻き込まれた方々は、それどころではない話です。

現在のネット社会において、すぐにバレることは防ぎきれるものではないでしょう。

 

 「マーケティングの悪用 ダメ! 絶対」と思った経緯

 

いきなり、私のエピソードのようになってしまいますが、私の視点について経緯を踏まえ記します。

私は一時期、マーケッターとして名前が売れ出しかけた過去、オーバートークでイケイケドンドンな人たちと同じように見られたくないと感じました。

私は、イケイケドンドンは、しようと思えば出来なくもありませんが、とにかく肌に合いません。

そこで一線を画するために(自分で言うのも手前味噌ですが)、現場主義、本質追求型などとUSPを銘打って名前を売っていた時期があります。

とにかく、(顧客に対して可能な限り)素直に、真摯に取り組みましょう、という姿勢です。

派手にもしない、ギラギラさせない、煽らない、引っ掛けない等々……。

メッキは、奥まで浸透するものでないから、いずれ剥がれるのです。

 

 

かえって、それが高評価を受けるという有り難いことになり、私自身における日々の学習のスピードアップの後押しにもなりました。

当時は昼夜を忘れて、現場主義マーケティングの学びを吸収していけた背景は、今でも有り難く思います。

その中で一貫して感じてきたことに、少し触れます。

 

マーケティングとは、煽りや引っ掛けではない

 

私は、マーケティングとは、丸いものを四角いものと思われないように、明確に伝えきるためのものであると捉えています。

(いや、もっと定義は色々とありますが、てんこ盛りになりすぎますので……)

物やサービス、情報が溢れかえっている中、” 明確に伝えきる “というだけでも、なかなかの一仕事です。

だからといって、です。

ないものをあるかのように幻想を抱かせたり、過大に誇大に勘違いをさせて売り切るなどという、悪徳商法思考のためのものなのでしょうか?

 

後述にて触れていきますが、私は、そうではないと思っています。

マーケッターとして国内トップクラスと言われる神田昌典氏においても、マーケティングを決して悪用しないでください、ということは、初期の書籍の冒頭辺りからして述べられていたりします。

 

カリスマっぽく演出する? なにそれ、美味しいの?

 

ご本人の自由なのでしょうが、マーケッターとはカリスマのように上から目線で振る舞うものではなく、本来はサポート役、黒子役でしかないと、私は思うところです。

マーケッターは、いわば参謀という脇役であり、主役はクライアント事業主であると言えます。

参謀が時にはペースメーカーになったり、時には強く言うこともあるかもしれませんが、それは「時には」に留めるものだというのが、私の姿勢です。

なぜなら、あくまで黒子の参謀役なのですから。

事業主のビジネスについて、もっとも肌感覚で分かっているのは、他の誰でもない事業主自身です。

それが一部の方において見受けられるのが「コンサルタントは偉そうに振る舞うもの」かのように、常時、上からガー目線で振る舞ってしまう姿です。

 

(ガー)

 

その行く末は、主役自身が混乱してしまい、閉塞感で窒息してしまう。

事業主が、何がしたいのかが分からなくなってくるようでは、えっと……それって何なのでしょうか?

それが実直な内容ですらなく、主役から言われて軌道修正するでもなく、とにかく吸い取るばかりでしたら舞台は成り立たず、目も当てられないことになりかねません。

私などが密かにそう思っていようと何だろうと、世間では詐欺的なマーケッターも横行していれば、その手法に便乗しようとする事業者も出てきます。

そのような声ほどステレオタイプで、一時的に大きいように聴こえます。

そして、それらは息が短い場合も多く、いつしか淘汰されて消えているのですが、そのような似非(えせ)はエセ業界であり、同業他社とすら私には思えなくなってきています。

実際は、あくまで一部のコンサルタント(もどき)に見られる現象だと思いますが、その一部ほど声が大きかったり目立ったりするようですので、この機会に記しました。

世間には実に優秀なコンサルタントの方々がおられる中、本当がない人間ほど、虚飾にまみれ大きく魅せようとしますね。

大事なのは、真摯に、自分自身を上げていくことではないでしょうか?

それが一番、楽しいと私などは思うところです。

 

限定に限定して、より濃く深く

 

当時から私は、怪しい商売には関わらないように、暖かい心のクライアント様だけを選ばせていただいていたかと思い、その出逢いは忘れることはありません。

ですが、それでもマーケッターとしてのクライアント数が増え続けることによる喜びより、ストレスが強く、終いに私の精神を壊してしまう、とも感じました。

(過度なストレスの元は、トータルに見ても全体の1~2割未満からだったのですが、その1~2割が8割以上に重くのしかかるのだな、と実感してきました)。

一件一件に魂を込める想いで行いますので削られやすい面もあり、言い出せば色んなエピソードがありますが、キリがありませんので結論から記します。

 

1~2割で感じ続けていたのは、ターゲットという血の通った人間を、どこか軽視してテクニックで誘導すれば良い、という商業主義の風潮、その違和感でしょうか。

テクニックだけで、人は動くという浅はかな幻想、それは何も怪しい商売ではなくても、普通に起こり得ることかもしれません。

例えば、売れているキャッチコピーをサル真似したら、それで売れるという幻想などなどがあります。

サル真似では空回りする場合が多く、例え、通じたとしても、本質を観ていない小手先のテクニックだけでは一時的な効果しかなく、吹けば飛ぶ砂上の楼閣のようなものです。

 

 

シンプルに言えば、「お客様視点を謳い文句ではなくと思いますが、これには理由があります。

  • 本当に事業を長期的に続けたいのならば、利益は良貨である必要がある
  • そのためにも、丁寧に丁寧にターゲットのためになるように
  • 心を砕いて考えていくという取り組みが肝要

(これは可能な限りであり、何でもかんでも、顧客に合わせよう、という無茶振りではありません)。

 

これらの点、どうしても目先の利益先行型とならざるを得ない事業主と噛み合わせるのは、大変と感じられることがあります。

決して、クライアント事業主に想いがないわけでも悪徳なわけでもなく、それらの視点を形にするための具体案が腑に落ちるように伝わったりもします。

伝わったとしても、移り変わる日々の中、腑に落ちていたはずのものが流されるように消えていったりするのは否めません。

そうして、すぐに手練手管を弄した小手先で一過性でしかない、流行りの手法ばかりに移り気になるお気持ちも分からないではありません。
 
クライアント事業主がどうこうではなく、タフではない私の力不足だと痛感してきましたし、私は根っからのビジネスパーソンではないのかも?しれません。

私自身は小手先のテクニックなどではない、本質追求型で這い上がってこれた肌感覚がありますが、それを浸透させられるのは、「Why」如何であり、できる方は限られるようです。

 

「Why(なぜ?)」って?

 

自らのメンタルの性質を痛感して

 

考えた末、私自身の収益が下がろうと名前を売ることは辞めて、今まで以上に限定するようにしたという経緯があります。

端的に言えば、楽しくもないし、疲れ果てるからです。

利益は大事ですが、金儲け至上ばかりが強くなると、いびつなものになると、少なくとも気持ち良くはないと私は感じました。

起業したのには私なりに相応の想いや理由があり、それなりの辛苦も舐めてきて、どうにも曲げようがないところもあります。

なかなか理解されにくいところですが、私は出来ないことは本当に出来ないメンタルの性質があります。

それは、甘えなどという一元的な視点から解釈して判じられるものではありません。

とんでもなく無理すれば一時的には出来たとしても、そのために何度、寝込んだか分からないほどです。

傍から見たら、カンタンに寝込んじゃうんだね、と思われるかもしれませんが、酔いつぶれて寝ているのとは違います。

このままでは、いつか本当に倒れる、二度と立ち上がれなくなるほどに、そう何度、感じていたかと思います。

 

「出来ることと、出来ないことを区別する」

 

私は方針を変えるために、2年間かけて名前を売るステージから離れるようにしました。

この2年の間に、当然のように収益は下がり、正直、光り輝くステージに居れたのに、自ら降りたようで悔しくもありましたが、自分自身が倒れてしまったら元も子もありません。

 

(長期的に)「出来ることと、出来ないことを区別する」

自分に言い聞かせるように変更していきました。

事業において、自己の能力だけに依存する状態:能力型から脱するために、ビジネスモデルの専門資格を取得したりもしました。

その学びをしながら、ほんわか倶楽部を立ち上げてたりもしました。

このタイミングで予想以上の反響を受けて、本質を深く観ていこうとされる方々との、今までになかった新たな繋がりを持たせてもらえました。

正直、同事業において収益性という課題はあるものの、この繋がり自体への喜びと、人生におけるかけがえなさは、今までになく、私が求めて止まないものでもあったと感じています。

 

上記の経緯で得られた視点から、以下の記事も記しました。

使い方・使う人次第

 

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