PDCAと クルクルと フィッシングと生きる道

(2019/09/01改訂・加筆修正)

 「目に視えるものが全てじゃない」に想う

「目に視えるものが全てではない」というのは、私が昔から好きな視点の1つで、私を支えてきてくれたものの1つとも言えます。

目に観えるものだけを追いかけようとすると、その少し先のものすら手に入らないことはよくあると思います。

さらには目先の自分の気持ちの「反射」(自動思考)を直感と思い込むあまり、場の空気感をスルーして動いてしまうケースを見かけると、近視眼的な状態?とも思えるときが、たまにありませんか?

その度合いによっては「不思議ちゃん」と思われたり、「KY」とサイレントに思う人もおられるかもしれません。

ひどいケースになると「利己的で、ずるい人」と思われることもあるようですね…。

その姿は、カゴの中でクルクルと、同じところばかり必死に回っているネズミに例えられて「ラットレース」と呼ばれることすらあります。

現代人にマッチしやすいと多方面で受け入れられているアドラー心理学、その代表的なベストセラー書籍『嫌われる勇気』の冒頭では、以下のように記されています。

もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。

そこから見える世界が暗くなるのは当然です。

だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。

「サングラス」の種類は様々あるだろうなぁ~と思いますが、その1つに自ら(直感っぽいのを含む)を過信する慢心も、自らが観えなくなりやすいサングラスだと言えます。

ちなみに、アルフレッド・アドラーは心理学の世界では、ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユングに並び、3大巨頭の一人と言われていますね。

アドラーはフロイトの弟子だと誤解されることもあるそうですが、そうではなく年齢の近い研究者同士として対等な関係を結んでいたとあります。

フロイトと親子のような関係を結んでいた時期のあったユングとも、この点では違うようです。

アドラー心理学では、フロイト的なトラウマの議論すら否定されていて、目からウロコの視点が視えてきますので、面白いです^^

トラウマ的な過去が固定観念になって、人格形成に影響を与えるということもあるでしょうが、他責がすべての答えのように捉えているのはチガウというのは、私も肌感覚で感じ続けてきていました。

アドラー心理学においては、意味づけをしているのは全て自分自身であり、大切なのは自ら選択する「目的思考」の視点であることとも述べています。

そうは言っても、どうしても観念的に意味づけをしてしまう私たち現代人に求められている、その潜在欲求にアドラー心理学はマッチしているのだろうと思えます。

(私の下手な説明だとピンと来るように伝わらないかもしれませんので、もっと、ちゃんと知りたい方は『嫌われる勇気』などを、じっくりお読みいただけましたら助かりますm(_ _)m)

内容を確認していただけたら視えてくるかと思いますが、『嫌われる勇気』とは、何も嫌われる人になりましょう、という「なんだ、そりゃ?!」な意味ではありませんので、誤解なきように…。

私もすべてを理解できているわけではないのですが、恐れない勇気の必要性が、深い洞察よりロジカルに述べられていると言えるのではないかな?と感じているところです。

 

追い詰められたココロになったことを活かす

 

ここで少し視点を変えますが、ココロが追い詰められたりすると「心底、本気で自分自身を生きていきたい」と強く願う気持ちが表面化しやすくなることは、私も感じてきました。

なんとなく安穏としていた時には埋もれていたかのような、ココロの生存欲求・本能が表面化しやすくなるのだと思います。

そうした多くの人間に潜在的に共通する願いに対して、アドラー心理学は、とっても有効性が高いのではないか、と、私は感じています。

サングラス(フィルター、バイアスなど)をかけてしまって悲観にくれようと、イライラしようと、それは自らのココロが生み出した創造の産物と ” 見立てて ” 観てみます。

” 見立て “ですので、決めつけるものではなく” 仮に “で良いわけです。

そう見立てていくと、「いま、目に見えるものが全てじゃない」と、どこかで具体的に考えないことには、いつまでも堂々巡りなのではないだろうかと、私には考えられてきます。

つまり、サングラスを外さないと視えるものも視えなくなって、サングラスというフィルター越しの限られた光でしか……どうしても限られた範囲しか視えなくなってしまうというイメージです。

そのような状態は「近視眼的」とも呼ばれますが、サングラスをしたまま「目に見えるものは全てじゃない」わけです。

かつて、紫外線から目を守るために、一時的に必要だったサングラス、かけていると心地が良かったとしても、それは今も心地良いですか?

もし、なんだか今はジャマに感じているとしたら、いつまで必要でしょうか?

かえって視野を狭めてしまったりして壁にぶつかってケガをしないうちに、そろそろ私は外してみたいと思います^^

そう言えば、過去に私が外したサングラスの1つとして以下の視点がありますが、月日をかけてでも外したからこそ得られている人間関係もあり、今となっては「あぁ…良かった」と感じています。

 

ー「楽しい」に潜む虚飾から

 

今の風潮では「楽しい」が、とても重視されて様々な解釈が溢れていますし、私も何より「楽しい」を、とても重視しています。

ただし、「本当に楽しい」と誤魔化しなく言えるのは見栄やハッタリなどの美化、または容易に移り変わるような他者承認などに依存する慢心ではないと思うところです。

これら虚飾のような不確かなものは、勇気を持って外して観たほうが、私は心底から楽しくなってきます。

虚飾のような刹那を求めてばかりだった時期もありますが、根拠を持って自分で確実に進んでいると感じられる体感のほうが楽しいと、今はとても思います。

そんな時の指標の1つになるのが、私にとっては、自分が決めた方向に向けて現実的なPDCAが確実にサイクリングしているときです。

いきなり、とても地味かもしれませんが…(^^)

ここまで書くと「形骸化した形だけのPDCA」のことを言っているのではないことがお察しいただけるのではないでしょうか?

PDCAとは、日々の習慣や行動のプロセスを、シンプルに「見える化」させるものですね。

それは個々の目的や目標が先にあって、PDCAサイクルに分解されていきます。

現代の社会的背景のリサーチの上、必要性が裏付けられたビジョンやミッションが先にあって目的があります。

その打開のために微力ながらでもスローでも着実に進んでいれば、目先の他者評価に振り回される弱さや虚しさ…、そういった弱さは消えなくても、そこにブレることは大幅に軽減されていくと、私は感じてきました。

「だって、にんげんだもの」的に弱さは常に付いて回っても、その先に強く深く見据えられるものがあればブレずに進んでいける…と感じているいう意味です。

このことを強く感じたシーンは色々とありますが、その1つが以下の場面でもありました。

リラックスへの変容 ~ 約130人の人前に立つにあたって

(これがブレるのなら、そもそものビジョンやミッション、スタート地点が自分自身の「Why(なぜ?)」にマッチしていないということと考えられます)。

その内訳が対外的に公開できている段階か、その手前の1人で水面下で準備中の段階か、どちらであっても根強く充実しているなら(本当の意味で前進を感じられるなら)「楽しい」と思えます^^

” 少ししてみて、それで思うように行かなくても当然 “ 、でも、” 闇雲に努力すりゃいいってもんじゃない “と、モヤモヤ感じることがあるなら、1つの大きな実践フレームがPDCAと言えます。

なんだか思っていた以上にモノゴトが進む時は、何かがあって進むべくして進むと不思議に感じる時はないでしょうか?

人間は意識的に、その「進むべく要素」を創ることが出来ますが、もし、この言葉を見た瞬間に「ムリッ!」と浮かんでくるなら、その先の知らなかった世界、楽しみが秘められているとも言えますね^^

そのためにも、自らを簡潔にチェックしていける日常ツールが、たかがPDCAかもしれません。

 

PDCAサイクルについては、私など以上に詳しい方・精通されている方は多いことと思いますし、その形や要する時間も人によって違うんだろうなと思います。

月末月初を除いて、私が一日あたりのディリーPDCAにかける時間は、おおむねは10分~20分程度です。

月末月初は、そのどちらかで月次PDCAを創りますので、もう少し時間がかかります。

タスク・工程管理などは別の手法で行なっていますが、サクサク手軽にしています^^)

以下では他でいくらでも学べるPDCAの作り方などは書きませんが、私がPDCAサイクルについて、日常的に思っていることについて記します^^

(PDCAには発展型のアレンジ版もありますが、ここでは基本から大切に…と考えて、そこまでは触れません)。

 

『PDCAサイクル』:

Plan(計画)

Do(テスト実施)  

Check(効果の検証)

Action(本腰を入れた実施)

このサイクルを、クルクルと回し続けるのが基本と、よく言われますね(^^)

単純に指で真ん中を持ち、クルクルと回し続けるだけなのに、意外とハマる「ハンドスピナー」というオモチャが流行っていると聴きました。

そのようなイメージ?でしょうか?
なんだか、よく分からない例えかもしれません…^^;

つまりは、手軽にどんどん回すんだということを言いたいと思いました(^^)

 

「ポイッ」と、スグに諦めてしまうケースでは・・・

 

人は習慣のドレイと言われますが、習慣が現実を創り出しますよね。

いわば、PDCAとは習慣を見える化させて、向かいたいところに向かえるように意識的に創るためのサイクルとも言えます。

あれやこれやと新しいビジネス企画に手を出す割には、どれも実績が挙げられずに諦めてしまっている人を、たまに見かけることがあります。

例えば、そのようなケースでは、このPDCAサイクルが甘い場合が多いように見受けられます。

それは、「Do(テスト実施)を →  Action(本腰を入れた実施)とカン違いしている」ということが多々観られるということです。

「テストを本番とカン違い」することは、時に致命傷になります。

なんでも、スグに人生をかけようと急いでしまうのは、とってもリスキーです。

最初から、速攻でウハウハの状態になってしまうような、魔法の杖は現実の集客ではないからです。(後述しますが、極たまにある例外を除いて)。

うまく行くには、うまく行くためのプロセスや根拠が必ずあります。

必ず、あります。

そのプロセスや根拠が曖昧なまま、スグに上手くいくならば、誰でもがウハウハではないでしょうか?ww

もし、そうなら、たぶん今のような現実社会とは、まったく違った現実になっているのではないかな…と推察します。

うまく行っていない人は、それが「才能」とかだけでなされると思っているのかもしれませんが、「才能」すら持って生まれたものもさることながら、才能の多くは「習慣」から創られると言います。

ある程度の適正さえあれば実は「才能」は生き方から創り出せて、どんなに優れた特性のギフトがあったとしても、習慣が腐っていたらギフトも腐るということです。

 

「以前に一回だけですが、スグに簡単にスゴイ実績になりました!」という声もあるでしょう。

たまたま条件が合致して、たいして考えていなくても当たることがあります。

では、それを他のことでも、すぐに再現できますか?

「たまに」に対して過剰な期待すると、「あの時は出来たのに・・・」と、スグに落胆しやすい変なクセが付いてしまいます。

「たま(に)やぁ~!」と叫んでみても、一瞬の間、とてもキレイで華やかな・・・花火のように散ってしまうのではないでしょうか?

花火はココロが踊り感動もしますが、はかないものでもありますね。

夏のお祭りのときに打ち上げられる花火・・・。

私たちは、夏だけではなく、秋も冬も生きて春を迎えます。

ビジネスは挑戦ではありますがギャンブルではないと、私は考えたいです。

ギャンブルでもなければ、たまたまキレイに天からのおこぼれに当たったような過去の成功体験にすがって、その後も幻想に取り憑かれ、フラフラと瞑想するようなものでもないと言えます。

最初から、これはDo(テスト稼働)なんだと自覚していれば、変に浮かれることも焦ることもなくなっていくのではないでしょうか?

不具合が起こって当然、なぜならテスト稼働中だから。

たとえ、思考のクセが付いていて、スグにそう切り替えられなかったとしても……。

何度も自分の即物的な思考を検証することで、だんだんとマインドの軌道修正がされていくように私は感じてきた時期があって、今につながっています。

 

世界の真ん中で叫ぼうとも・・・

 

何かを始めようとする時は勢いにも乗っていることでしょう。

そんな時、つい知らず知らず視野が狭くなってしまうことは、誰しもがあり得ることかもしれません。

 

  • 「私は、精一杯にベストを尽くした!」 (主観)
  • 「先生(どこの誰ですかw)の言われるとおりにもした」(事実?)
  • 「本も読んだ。予算も時間もかけた」 (事実)
  • 「同じように書いてみた。創ってみた」 (事実と主観)
  • 「これで、上手く行かないわけがない」 (独善的な?意見)
  • 「上手く行かないのは、市場(世間)が悪いんだ」 (かなりの独善的な意見)

 

仮に、このように思いこんでいたとしても、声を大にして世界の真ん中で叫んでみようとも・・・。

事実と意見は違う・・・。しかも、ここで言う「事実の素」は先生や本・・・。

 

繰り返しになりますが、うまく行くには、うまく行く根拠があります。

それは、予算さえかければ、時間さえかければうまく行く、というものではありません。

何より、見込み客の方は、どこにおられますか?

当事者ではない先生や書籍の著者の家の中でもなく、市場という現場におられるわけですよね?

つまり、「アタリ所」の答えは市場にあるということです。

当然といえば当然ですが、それを市場(世間)のせいにしても解決しません。

第一、見込み客の方に対して、失礼にもあたってしまうのではないでしょうか?

「市場」とは競合だけでなく、「見込み客」の方も含めています。

 

・・・ お伺いいたします。

「見込み客の方が悪いんですか?」

もし、世界の真ん中で叫ぶなら、やっぱり、定番は・・・^^?

 

とにもかくにも実際は、小さいテストを重ね続けていって、検証して改善してを繰り返して、その上でうまくいくアタリを探っていくものです。

この数をこなすプロセスがあって、コンスタントに実績を挙げ続けていける、となるわけです。

これは文章1つでも、広告1つでも、様々なことに通じる内容ですね。

勘頼りだけで突っ走っていては、「長年の刑事の勘だ!」とベタな主張をして証拠も曖昧なまま逮捕したものの、実は冤罪だった!…という、とんでもニュースも、いつだったか本当にありましたね…。

これは果たして、ベテランの刑事だけに言えることでしょうか?

まぁ、勘や直感は大切だと思いますけど、それらと思い込みを混同しないためにも客観的な証拠(根拠・裏付け)は大事ということですね。

 

 フィッシング(釣り)

 

他人様、人間相手のことを釣りに例えるのは、どうかとも思いますが、集客業界では便宜上、釣り(フィッシング)に例えられることが(多い?)…… たまにあります。

ここで印象の良し悪しは別にして、それは、おおまかに下記のような分かりやすいイメージとしての意味があるからです。

ちなみに、本記事のタイトルに「フィッシング」と入れましたが、「フィッシング詐欺」のことではありません^^

 

釣りでは・・・

  1. まず、エサを決めて、仕掛けを作ります。(Plan)
  2. 次に、投げる場所を「このへんかなぁ」と、仮に決めてみます。(Plan)
  3. 「でやっ」と投げ入れてみます。(Do)
  4. じっと反応を待ちます。「・・・」(Check)
  5. 「どうかなぁ~?」と、反応を検証します。(Check)
  6. 反応が弱かったら・・・

    仕掛けや投げるポイントを変えていきます。(再Plan+再Do)

 

このようなプロセスを繰り返していきますよね。

スグに釣れないからと行って「キーッ!」とは怒り出さないのが通常です。

こうイメージすると、上記のサイクルは何度も繰り返されるということが分かりやすいと思います。

 

このように「PDC → PDC」が繰り返され、初めて、「効果の出やすいポイント(アタリ)」が見い出せます。

この発見が得られるまでは、Do(テスト実施)です。

そうして「小さいテストの積み重ね」が大切となります。

効果のでるポイントが分かってから、初めてAction(本腰を入れた実施)に移る、というものです。

その前にAction(本腰を入れた実施)に移ってしまうと、予算面でも精神面でもリスクが大きくなってしまいます。

前述しましたように、「Do(テスト実施)を → Action(本腰を入れた実施)とカン違い」してしまうと、すぐに「あぁ、全てダメだったんだ」と思い込んでしまうことにもなりかねません。

単に、まだプロセスの途中なだけです。

ちなみに会社によっては「ウチの社長は言うことが変わりやすい」と、社員さんからのご意見が出やすいケースもあります。

このケースでは社長さんが、前述のようなテストの積み重ねを意識しているのかもしれませんし、単に、適当で一貫性のない思いつきケースもあるかも?しれませんね^^;

 

PDCAサイクルは、惹かせるための文章を書く際にも有効

 

見直し(Check)して、改訂(Do)を重ね続けていけば反応が取れるようになるところを、みすみす放置している、もったいない事例もよく見かけます。

よほどの文才や実績がある書き手なら別かもしれませんが、一度や二度・三度、集中して書いてみたとしても、それだけで、うまく行くと思うのは、はたして現実的でしょうか?

私は最初から反応が得られやすい方ですが、それでも、それに甘んじず一度や二度・三度程度の回数でないぐらいは見直すのが習慣になっています。

0を1に変えて、1を10に変えていくにはプロセスがあり、進むほどに観えてくるものが大きく違います。

それは数学の公式のように、○○と●●を足して、◇◇のようにすれば良いというテンプレート発想だけではなく、その先の先があります。

これこそが「脳ミソに汗をかく」醍醐味であり、よほど自力でやり通せる方以外は、個別の密着サポートの継続でのみ感じていただくことが出来るようなものかもしれません。

言葉を超えるほどの言の葉を紡ぎ出せていくほどに、(なんとなく観ているだけでは決して分からない、仮に誰かに真似されようとも…… ウッキーな猿真似にしかならない)、根強い独自性が必ず創り出せます。

ここで「才能が…」・「実績が…」は、やはり重要ではなくて、最重要なのは「在り方」と「マインド」と言えますし、これらが伴っていなければ、どれだけ取り組もうともカラ回りするだろうと予想されます。

逆に、PDCAをサイクリングして乗り続けさえすれば、自転するように進んでいく流れが創れるわけです。

つまり、集客を考えて書いた表現の場合で、もし、PDCAがないとしたら実にもったいなさすぎる…と言えます。

なんだか、ふと思い出しましたが、初めての時は補助輪なしの自転車には乗れなくても、思い切って弾みを付けたら、予想以上にカンタンにスイスイと乗れますもんね^^

思うより慣れろ、そうして初めて感じ取れるというのは、まだまだ、沢山あるのかもしれないなぁ~ということかもしれません。

 

 PDCAは現実に通用しない?!

 

もし、「PDCAなんてさぁ、現実には通用しないよ~」という先入観が、どこかで付いてしまった方は、以下の記事もご参考になりましたら幸いです^^

よくPDCAは勘違いされていることもありますが、このサイクルの意味を明確に知ってから、その使い方次第で大きな差が出てくると言えるものでしょう。

案外、アタマだけで分かりそうで、そうではなくて、思考の習慣にまで落とし込まれて初めてワカルのだと思います。

観る人が観れば、知ったような気になっている人のそれは、スグに透けて視えるものです。

透けて観えてしまうのと、底が知れないと感じられるのと、どちらになりたいでしょうか?

私は前者よりは、やっぱり後者のほうがいいなぁ~と思ったりします。

そして、習慣に落とし込む前にはズレのない認識、認識の検証が必要になりますが、私はこれらを、すべてリアルに自分を生きるためだと思って実践を続けております。

同時に確かな手応えも感じていますので、このほうが楽しいです^^

少しやってみたぐらいでは分からないもので、軽やかに真剣にやり続けて初めて分かってくる類のものだなぁと感じています。

PDCAのカラ回り

 

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