心地よい風の力に乗って…

3年ほど前に『ぬくぬくする人 カラカラする人』というタイトルで対比的に記事を書いたのを思い出します。

「がんばれば、がんばるほど ・・・ ぬくぬくになっていく ” ぬく太郎 “さん。

がんばれば、がんばるほど ・・・ カラカラになっていく ” から太郎 “さん」

分かりやすくなるようにと対比的に上記の書き出しから始めた記事でした。

さらにこの構図は仕事に限らずプライベートでも、ますます進んでいるなと、いくばくかの哀しさとともに感じたりもします。

いくばくか、と書いたのは、そのカラカラを望む人たちもいるのだと、この数年で改めて知ってこれたからなのだと思います。

それに気が付かない本人たちには(その時点では)哀しいことでも何でもないから、「哀しい」こととは限らないのかもしれない。

でも、それが茹でガエル現象になった時に初めて痛感させられるのかもしれない、という、私には手の届かない、どうしようも出来ない範疇だと知ったからです。

(『茹でガエル現象』という言葉の意味については、このブログでも何度か触れてきていますが、様々な方が多方面で比喩として取り上げていますのでリンク先からもご参照いただけます)。

そのようになった姿も私は複数ほど見てきていますから、このようなことも書いてしまうのだと思います。

それは得てして、このような「ぬるま湯の中の蛙」的な話を嫌う姿勢だと、その穴にハマりやすいようです。

言うまでもなく、その人の中の触れられたくない何かに直面せざるを得ないことになります。

それを嫌えば、そのままズルズルと流される危険性が大きくなりますし、そうではなく、直視していければ脱することも出来るというものですね。

人は、結局、自分からは逃げようがありませんので、どこかで突き当たります。

それなら多かれ少なかれ分かった上で、寄り添って並走してくれる人間がいるうちにしてしまったほうが、まだ安全ですし、推進力もあるでしょう。

それでも、どこまでを求めるか、最終的には、すべて自分自身の選択です。

 

○ 風の時代になって

 

元旦のこの日に何を書こうかなぁと思って、まとまらないまま当日になりました。

当日近くになって、普段、学んでいる人たちからの投稿などを読んでいてインスパイアされました。

何度も読み返し、咀嚼して消化したところで自分の表現としてアウトプットできるところまで吸収したいと思い、今日は何度もいくつか特定の文章を熟読していました。

もっとも年始であり月初でもあるので多少の用事をこなしながらですが、出来る限り、非合理でしんどくなるノイズは避けて、静かで有意義な時間を確保するように努めています。

反面、建設的な気持ちになれるやり取りは、いくらでも同時進行で進められるので、人とは本当に精神的な生き物なんだなと、我ながら実感させられます。

進められるどころか、それが自らの支えや後押しにもなるのですから、当然ですね。

前置きが長くなってきたので本題に入りますが、いま、あちらこちらで「土(地)の時代から、風の時代に変わった」と言われています。

昨年の12月22日からが「風の時代」に入ったそうですね。

元々は西洋占星術的な考え方から著名な方が述べたものに基づきますが、ここまで経営者や起業家、カウンセラーの方々からも言われ続けるのも珍しいと思います。

「土(地)」とは、物質的な豊かさであり経済的な成功が重視される時代も含んで、目に見えたり手に触れられるものです。

経済的な成功者の方々は、相応のマインドセットを持っている人も少なくなく、持っている・持ったからこそ、そこまで行けたという人もいれば、必ずしもそうでない人もいるなど玉石混交ですね。

「風」とは、物質的でもなければ目に見えたり、手に触れられるものでもありません。

「風」とは「心」であり、「マインド」や「精神性」を指します。

「風の時代」と言われなくても、「心の時代」に変わってくるとは私も感じ続けてきたことでしたし、そう感じてこられた方々も少なくないと察します。

同時に「風」とは、「ご縁」や「繋がり」です。つまり人間関係と言えますね。

物質的に恵まれているかどうかよりも、もっと根幹な精神性や、その在り方の時代になったということで、とても喜ばしいこととも言えます。

それと同時に浮き彫りになってくる姿が今まで以上に出て来ることとなり、それは既に始まっていると感じる方も多いのではないでしょうか。

世界中を巻き込んでいるコロナ禍も、その後押しを良きにつけ悪しにつけしています。

その中には良い意味でも悪い意味でも「因果」も含まれていて、それにどう対するかも今までの旧時代とは、明らかに変わってくると言われています。

どう変わってくるのかも含めながら、今後の時代の流れと、その上で自分自身の思う方向性に触れて、元旦の文章としたいと思います。

 

○ 誰でももっている「因果」

 

誰でも何かしら持っている「因果」ですが、そこからどこに向かおうとするか、そのために因果にどう対するかは、自分自身の選択と覚悟です。

特に課題となりやすい因果は身近な人間関係から起こりやすく、それは宿命的な業(ごう)があるところから起きやすくなります。

もし、非合理で不毛なことばかりが続く因果でしたら、それは生きるか死ぬかの問題にまで繋がってしまうことがあります。

不誠実・エゴイスティック・虚実・虚礼・形骸化(形だけで心が込もっていない)、不条理・理不尽など、言葉を当てはめるなら、様々なケースがあります。

時代によらず、心の状態が現実を創り出しますので、それらは下手したら死活問題となることもあるわけです。

さらに今、風の時代になって、そのような非合理で不毛なものは、ますます価値を失っていっています。

価値を失い、いずれ土に吸収される…、それが自然の摂理のようです。

例えば、どちらかばかりが与え続ける一方の関係性でしたら、与え続けるほうの側は現実的にいずれ持たなくなるでしょう。

与えられるほうは、それを当然だと思っていて自覚も薄ければ薄いほど、その根はややこしい問題の幹を伸ばします。

根幹から軌道修正して改善していければ良いのですが、それは痛いことも直視しなければならず、過度のストレスを伴ったりして容易ではないかも知れません。

だからといって、表面上の付き合いに留めていても、その根っこは変わらず、与えられる側には視えていなくて、与え続けるほうには、その非合理が視えているというつらい状態です。

昨年は、このようなケースに触れることが多く、様々、考えさせていただけましたし、このようなことが浮き彫りになる時代の変化でもあったのかもしれないと感じました。

それでも、上手くいく方は与え続けられる者(ギバー)であり、それは単に与え続けるということではなく、上手くいくギバーとしての法則があります。

(このことについては、過去記事『笑顔の裏のせつなさ』の中盤で触れています)。

 

○ 愛は…

 

「愛は」などと書くと、少しこそばしいですが、このまま進めます。

前述を経て私がいまのところ最終的に思ったのが「愛は、与えられるものでも与えるものでもなくて、ただ、そこにあるもの」でしたが、その前に「与え合う」姿勢がないと、そこまでは難しいと思います。

本来の「与える」とは、義務や負担ではなく、言われたからでもなく、言われるまでもなく、当然のように与え合う関係性、それ以前にその意識や感覚でしょう。

与えることの価値を心から感じられていて、分かっている意識には義務や負担、損得などの感覚はなく、そこには心地よい喜びがあります。

それが大人同士の関係において、どちらか一方に偏ってばかりなのでしたら、大人同士の関係ではなく、まるで親子のような関係かもしれないですね。

それで大人同士の関係でしたら不条理や理不尽な状況を引き寄せてしまいますし、その意識から形式上、与え合うを試みたとしても、なにか交換条件のような侘しい風が吹きそうです。

与え合う愛とは、決してそのようなレベルではなくて、もっと自然に心地よいものだと言えますし、私は、そのような風の中で生きていきたいと、改めて強く思います。

そうならない場合には、そうならないだけの何かの因果があるのでしょうし、自然とそうなる場合では、そうなるだけの因果があるのだと思います。

 

○ 核(コア)

 

前述で少し触れたような因果も、自分で核(コア)を整理していくのかどうかです。

核(コア)を整理しなければ、土に足を奪われて風に乗ることは出来ず、土に吸収されるばかりです。

それは地に足が付いているということではなく、物質主義の社会に、大資本や権力の経済論理に意識まで染まらされ続けるということかも知れません。

だからといって、大資本や権力は、本当にいざというときは庶民を守ってくれるものではないことを、私たちは改めて自覚し直したほうが良いのではないでしょうか。

そのために生き方を見つめ直す、そのために因果を見つめ直す、そのために核(コア)を整理していくということになります。

それは「運命」と思い込んでいた、しがらみから見つめ直すということです。

「運命とは変えられるもの」と、よく言われますね。

ある人によれば「運命」とは「自力+他力+宿命」です。

宿命とは持って生まれた変えられないものですが、「運命」とは「自力+他力+宿命」で成り立っているので変えられるわけです。

人は宿命だけで成り立っていないので、この「自力+他力」を活かすときの姿勢が、とても重要で大きな分かれ目となります。

素直な心で相手を受け止め続けて、与え続けることで、心地よい風の力は増幅していきますし、それから外れたらマイナスの力が増幅していきます。

その陰陽、どちらを選ぶも本人たち次第で、どちらか一方だけが選んでいても、どちらかが形式的でしたら、それは進みません。

そのような整理・統合が早くなされるようになってきたのも、時代の変化かもしれませんね。

欺瞞・偽善、虚実・虚礼などは、ますます、その意味をなさなくなってきていて、古い時代のギミックに気がつく人も多くなってきています。

私は今の新しい風に乗って、風の力を背中に受けて生きて進んでいくと決めています。

そのために必要な学び・繋がりを得られている今が、とても嬉しく、新年これからも、その繋がりを大事に活かして与え合える自分として成長していくために取り組み続けます。

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