『諦観(ていかん)』という言葉がある。
「諦める」と記しながら、その内実は、ただ投げ出す態度でも、見切る姿勢でもない。
むしろ──明らかに観る。
ものごとの奥に沈む、まだ名前のついていない真実を、静かに見つめ続ける眼差し。
善悪でもなく、損得でもなく、救われるか失うかでもなく。
その手前で、ただ在るものを、在るままに抱きとめる姿勢。
物語を都合よくねじ曲げることなく、痛みを覆い隠すこともなく。
輪郭を曖昧にせず、そのままのかたちで、そっと撫でるように。
もし手放せるものなら、静かに放せばいい。
けれど──
ときに、抱えたまま共に歩くしかない何かもある。
私もまた、長い時間を喘ぎながら、さまざまなものを少しずつ手放してきた気がする。
未練。執着。怒り。後悔。不甲斐なさ。自責。
無理に作り上げた「こうあるべき自分」の像。
それらを緩めるまでに、どれほどの季節が流れたのだろう。
痛みに引き裂かれ、混乱にかき乱され、幾度となく夜を越えた。
そのたび、内側の何かをそっと削りながら、指先から力を緩めていった。
「もう、軽くなりたい。」
何度、そう呟いただろう。
だが、無理にほどこうとするほど、苦しみは絡みを深めていった。
力でねじ伏せられるほど、人の痛みは単純ではなかった。
そして、ある日ふと──
力まずとも、自然と手が緩む瞬間が訪れるときがある。
まるで、時間そのものが優しく融かしてくれたかのように。
けれど、さらにその先に、静かに開かれていく景色がある世界を、今あらためて思う。
「すべてを手放せば、楽になれる」──そんな単純さの、そのさらに向こう側。
たしかに執着や囚われは、解けば身軽になる。
だが、長い年月を通じて育まれてきた想いのなかには、もはや執着とも囚われとも言いきれない、何かが芽生えていく。
苦しみの渦を越え、やがて昇華されていくものがある。
悔しさも痛みも、消えてなくなるわけではない。
むしろ、その中心に透明な輝きが灯りはじめる。
最初は「私だけの痛み」だったそれが、やがて、静かに普遍の寂しさと重なり始める。
「きっと誰にでも、似た夜があったのかもしれない」と思えるような距離へと、滲み出していく。
執着や囚われが「閉ざす力」だとすれば、昇華していくものは「開いていく力」に似ている。
孤独の底でしか育たない響きが、やがて誰かの孤独にもそっと寄り添っていくような、静かな広がり。
もう少し踏み込めば──
昇華の果てに残るものは、祈りに似た灯火だ。
それはもはや、願いでも、期待でもない。
得ることも、失うことも超えて、ただ静かに灯り続ける、小さな焔のようなもの。
そこに至る道は、美しく飾るにはあまりに険しかった。
傷つき、打ちひしがれ、膝を折り、迷い、立ち尽くしながら──
それでもなお、わずかずつ歩みを重ねるほかなかった。
「なぜ、こんなにも引きずってしまうのか。」
「なぜ、こんなにも執着してしまうのか。」
幾夜も問い続け、答えは得られないまま、それでも日々を越えてきた。
それでもなお、消えずに残った思いは、静かに形を変えていく。
重荷だったそれは、やがて静かな温度を持つ「在るもの」へと姿を変えてゆく。
昇華とは、忘却ではない。逃避でもない。
むしろ、痛みと共に歩きながら、押し潰されず、静けさのなかに透明さを深めていく営み。
だからこそ、ふと浮かぶ。
──「諦めるのを諦める」という感覚が。
焦らず、急がず。
手放すことにすら執着せずに、もう少しだけ、その先の景色を観に行く。
答えなどなくとも、ただ在るものを静かに見届ける歩みを続ける。
諦観とは、きっとその両極を超えた眼差しなのだろう。
淡々と、生まれては去っていくものたちを見送り、受け留め、共に在り続けてゆく在り方。
──今日もまた、そうして歩いている自分が、ここにいる。

ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。



コメント