戻れない贈りものとして生きる

 

 

人は、自らの意志で選び取るものと、避けようもなく課されるものとによって、その存在の輪郭を刻まれていくのかもしれない。

私という存在もまた、与えられ、抗えず、そしてようやく受け容れつつある幾つかの重みと共に、いまここに在る。

今日は、その断片を静かに綴ってみようと思う。

 

私自身は昔から、自らにサイコパス気質があるのを、明らかに認めざるを得ない…。

それすらも感じられる武器(強みやメリット)に転換させてしまおうと決めている。

視える人たちにはすぐに視える、メラメラとした赤黒く重い煙の業(ごう)が、持って生まれたかのように、細胞レベルで私にある。

そして、それは私も中から強く感じるときが、しばしばある。

 

そうして生きて来ざるを得ないまま、もう、明らかに「観る」で諦観するしかないと、どこかで思い知らされ続けたのだと思う。

場面によっては、それが強く表に作用した、痛々しく生々しい現実も、過去には様々あった。

また、そうだとしても、それすらも『戻れない贈りもの』として、どう活用するか(しかない)と今は考える。

私には、それしか生きる道はないのだと痛感し切らざるを得なくなった複数の夜中に――

「メンタルの世界で生きていくしかないんだ…」

それしか考えられなくなった。

 

また、それだからこそ視えてくるもの・感じられてくるもの・湧いてくる力――

それらは諸刃の剣でありながらも、社会では才能になると、そう捉えて生きるしかないと、私は決めているというのを、ここで少しだけ分かち合った。

私の場合はそうしないと、一生惨めで情けなくて、強がり続けて、いつまでも窮屈な歪んだ笑みしか出なくなるのだと、酔いどれのように実感している。

 

そのような私と違う方はたくさんいるし、生き方や悩むところも違うだろうと思う。

ここで思うのが、何であったとしても、それをどう捉えて向けていくか、それによって魂レベルに影響していくのだろうなぁ、と、たまに私は、すこしですが感じるときがある。

プロセスで言えば、自己選択と自己受容が、ゆらゆらと、ほぼ同時になされていくようなところの気がする。

 

あくまで、私の中ではだが…。

かつての家系からの家族連鎖で、受け継いでしまわざるを得なかったところはあったとしても――

もう、それならそれで逆手にでもとって、どう統合させて活用してやろうか?と。

私には今でも許せない、あんた達が到底出来もしない、考えられもしない本質的な生き方をしてやろうかと。

 

それが出来る可能性があるのは、(人それぞれにある)その何かを持っている当事者にしか出来ない。

誰もが自分の当事者だと思うが、その先に昇華していくかどうかは重くややこしければ、重くややこしいほど、きっと、どこかで覚悟と意思なのだと、私は感じている。

元々は望んでいなかったとしても、せざるを得ない覚悟や、持たざるを得ない意思というのも、結局はあると認めざるを得なくて、私はそれに当たってしまったのだなと…。

犠牲をこれ以上、出したくもないし、犠牲があったからこそ、という釈罪の気持ちもあれば、それだけではない、存在理由が蔑ろにされてきたなら、創出してやるしかない、というところだ。

 

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