何かを開催するということは

◇ 進化させたいならば

 

セミナー・講座・ワークショプ、何かしらのグループセッション、グループコンサルティング、さらにはシンポジウムのようなものまでテーマに沿って様々な種類の開催がありますね。

それもオンラインツールの発達と普及により、参加者との双方向性を出すのが手法的には容易になり時代も進化していますし、時代の進化に合わせて「考察」を書いてみます。

私も初めてセミナー講師をしたのは1999年、起業間もない頃に代理店事業をしていた時期からですが、その後もマーケッターとしてマーケティングセミナー講師をしたり、起業家として異業種交流会を3つ立ち上げて運営したり、もう1つ、企業主向けの異業種交流会の役員、そのご縁から世界的奉仕団体の新支部の立ち上げ役員などを行ない、その頃は高級なホテルでの会合なども実施してきました。

今も私自身も様々なものに参加したり、必要に応じて自分でもオンラインで開催することがあります。

必要に応じてというのは内容によっては多人数制にするよりも、マンツーマンかそれに近い形の方が効果を及ぼすことも多く、そういう場合に効率を重視して多人数制にするとジワジワと崩れていくこともあるためです。

そして何より、どこまでも肝要なのは参加者の心理的安全性であり、主催者が開催するものだからと主催者本位になっていないか、強引になっていたりしないかというチェック機能です。

ここでは利己的よりも利他的な姿勢を求められるのは当然と思うかもしれませんが、どこまでそれを本気で考えて実行しようとしていますか?

このチェック機能があるほどに、自分でも予想以上に好反響をいただけたりしてきましたので甘く見れないな、と、つくづく感じています。

つまり、主催者として誠心誠意、心を砕き続けると言いましょうか…。

その実践と積み重ねによって得られるものは、有形無形に大きいと感じてきました。

そうして、主催者冥利に尽きるなと有り難くも何度も何度も感じさせていただいてきた実践と視点から根拠を持って記していますが、参加者視点も織り交ぜて両方の視点でもあります。

(参加者としては1つの主催団体・企業の開催だけに参加してきたわけではなく複数の団体、ジャンルも様々であり、ここに書いた内容は特定の主催団体・企業を示すものではなく表現も変えて記してあります。)

今回の記事に書いたようなことは何も珍しいことではなく、自画自賛ではなく自他共に虚飾なく発展している他者・他社の方々のところでも当然のようになっていることですので、普遍的・原則的なものが含まれているのかもしれませんね。

逆にひどいところになると主催者同士で傷の舐め合いをして至らない箇所を見直すこともなく、合理化して都合の悪い参加者をカゲでなじっている別団体の話も複数、聞いたことがありますが、どう感じますか?

様々なところに参加してきて慣れている人によっては「あるある」でしょうし、さらっと書きましたが、私もこのような話を他者から聞いたことがあるのは1回2回ではありません。

とあるジャンルの開催で聞いたり、全く違うジャンルの別の開催で聞いたり…。

実際にその片鱗を耳にすると、他人事とはいえ聞くに堪えないものがありますね…。

その人たちとは別団体とはいえ私も別の主催者なので、その気持ちも分からないではないどころか、おそらく、すごく分かるほうと言えるでしょう。

そりゃ、主催するのは見えないところでの努力も含めて大変ですもん。文句だって、できれば言われたくないですよ。

だからこそ”笑いながら”世間話として話ししてくれたのでしょうが気持ちは分からないでもないだけに、その慢心の落とし穴もわかってしまいます。慢心、おごり高ぶりです。自負心や虚栄心とも言えます。

ここで内容を深く深くシビアに吟味せず「クレームを言うほうがおかしい」と、すぐに単なるクレーマー化させてしまいがちなのは明らかに違います。

また、仮にクレーマーだとしても、そこには歪んだ形であれ、必ず改善のためのヒントという宝物があることが少なくなく、何らかの想いが込められていたのなら、(表し方は別にして)そこを汲み取るべきなのではないでしょうか。

なぜなら、もし単純にクレーマーだからとバカにするかのように笑いながら言う姿勢だとしたら…

そこに時間を割いてくれた参加者に対する敬意や尊重が、主催側としてあると言えるでしょうか?

クレーマーを調子に乗らせていいとは言っていませんが、クレームは一見して不快であったり言い方に疑問を感じたとしても、その多くは実は宝箱と言われるのは、なぜか真剣に徹底的に考えていますか?

その中にはブラッシュアップさせるためのヒントがたくさん含まれているものを短絡的にゴミ箱に入れてしまうのは、影響を及ぼす立場にいる主催者の姿勢、器でしょうか?

 

◇ 器は創る

 

「私にはそういう器がないから」ではありません。

やりにくい参加者に対応しきれてこそ講師・主催者ではないでしょうか?

都合の良い予定調和でやりやすい参加者ばかりなら対応できる、イエスマンばかりを集めたい心境に果たして成長はあるでしょうか?

立場が人を作るとも言うように、そういう器になろうと向かい合って歯を食いしばるから、そうなっていくのです。

あえて言えば、クレーム対応するカスタマーセンターのノウハウや姿勢などについて書かれた情報は、探せばすぐに見つかるように沢山ありますが、そういったものを学べば良いと思います。

そこではクレームを言う人を短絡的に小馬鹿にしたり軽視するのでもなく、必要以上に重視するのでもなく、どのように捉えて改善に結びつけていくかだけではなく、どのように対応するのかなど、ここには書ききれないヒントが散りばめられています。

ここで「言い訳の達人」・「資格のない自己弁護士」になっていたら成長は止まります。

もし、安易にそう流れていくと…

都合の悪いことにはフタをする冷たいカサついた空気感がまとわり付いてしまい、どんなに良いことを言っていようと感じ取られてしまう人には、どこかで透けて見えて(感じ取られて)しまいます。

大人になったら顔は、その人の履歴書というのなら、まさしくそういうことなんだろうと言えますね。

人は理屈を超えたところで醸し出すものから多くの影響を受けて、そこから感じて動きますが、その上で心から効果的に響くようにするには伝える側のマインドにあります。

 

◇ 時代の変化には意味があると考える

 

間違っても過去の遺物のように「講師だから私が上」・「主催者だから、してあげている」と、どこか封建的な昭和で思ってしまっていたり、ご都合主義では変化も成長もありません。

今は、どういう時代か、時代が変わることには意味があります。

時代の変化からも人々は意識せずとも影響を受け続けていますので、よくよくアンテナを張って見つめ続けて考え続ける自助努力が自ずと求められています。

そのような意味では5年前に通じたことは、今は通じないかもしれないと思ったほうが良いかもしれません。

変化や成長には真摯さと謙虚さが欠かせず時には痛みが伴うのは、思春期の頃、身体の成長とともに関節が痛く感じられたことと類似しています。

そもそも時間は有限であり、個々人の時間は個々人の生命です。

その時間を割いて参加していただいていることに心から敬意と尊重の気持ちを謳い文句ではなく本気で持っていれば、到底、主催側からして都合が悪い・不快だからと冷たくは考えられないはずです。

だからこそ、肝要なのは参加者の心理的安全性を複数の視点から考え続けて実際の行動や態度・言動に表す、継続的な本気の見直しとブラッシュアップが欠かせないこととなってきます。

主催者側が「私たちの思うように参加者が反応してくれないのは、参加者がイケていない」ではなく、「先生はすごい人なのに、それが分からない参加者が云々」でもないですね。

「私たちは、せっかく開催してあげているのに」とは間違っても主催者側が思うことではなく、必要以上の予定調和、いえ、同調圧力で無理強いすることでもないですね。

参加者に心から喜ばれた時に自然と沸き起こる感謝から言われる「ありがとうございます」が起こり続けるには、どうしたら良いかです。

クロージングのために半ば強引に終了後は個別相談、個別相談の希望日程を返事するまでZoomから退出できない空気にする圧をかけることでもありません。

そんなことしたら、もう二度と来なくなりますし、善意の口コミ(紹介)も起こらないでしょう。

いま必要なのは「私たちの思うように参加者が反応してくれないのは、私たちの進め方にどこにギャップがあって、ステップを登るにしても階段どころか、どこかで断崖絶壁になっていないだろうか?」という認識への変化です。

一言で言えば「本当に、これで良いのだろうか」と、どこまでも考え続ける謙虚な取り組みがあってこそ、参加者が心を開きやすくなってきます。

その具現化に向けて開催内容の感想だけでなく運営・進行の仕方についても匿名のアンケートを取るなど、この方法に限りませんが何かしらの率直な意見を吸い上げる具体的、かつ垣根の低い馴染んでもらいやすい方策が必要となってきます。

ステップアップの仕組み自体に、どこかで無理があって最終的な取りこぼしが50%以内では済まず、それ以上に多いならすぐにでも見直すべきです。

つまり、最終的なコンバージョン(ステップアップ達成率、本格コースの成約率など)は最低でも50%を超えるように、逆に言えば最終的な離脱率は多くても50%以内にということであり、これは充分に可能な数字です。

 

◇ 本質はどこにありますか?

 

自ら行ない続けるチェック機能・自浄作用のない集まりは、知らず知らずに慢心が起こり身勝手になっているという落とし穴にハマるということになりかねません。

なぜなら、人は特別な聖人君子や悟りを開いた人間でもない限り、元々が身勝手で自分が一番大切だからです。

でも、ジョハリの窓にもあるように自分では分かっていない自分というのが必ずあります。

その自分を知っていくときは目を背けたいこともあるでしょう。

いや、出来るなら目を背けたい。そのためには瞬間的に合理化してでも反撃したい。

表面上は詫びても心ではそう思っていないし、瞬間的に数々の言い訳が頭をよぎって覆い隠す。

大抵のケースでは無意識レベルで、その合理化が行われますが、それはとても浅く寂しい姿に他なりません。

「私たちは良い話をしているからいい」だけではなく、その伝え方、場の創り方、その目に見えないものも含めての「話」です。

「もの」を説明するのは、そう難しくありません。

「語り」をすることに本質があります。

例え、同じようなことを言っていても話す人によって大きな違いがあるのは、何故でしょうか?

それは言うまでもなく語り方・伝え方(Do)で大きく変わるのであり、強いて言えば、その語り方に含まれる在り方(Being)が言葉以上に伝わるからです。

つまり、ここでいうDoよりBeingのほうが何倍も伝わり、それがその価値と持続性を左右します。

今はZoomなどのビデオ会議が主流になっているとは言え、画面の向こうにいるのは生身の人間であることは変わりませんね。

生身の人間である以上、講師やファシリテーターには最低限でも傾聴の基本態度条件が瞬間的に求められると同時に、態度条件だけでは実行に移せないので具体的な学びとトレーニングをしてこそ影響を与える立場にいる責任ですね。

なぜなら、それをしているのとしていないのとでは参加者が受ける印象も大きく違い、適当にしていては心理的安全性どころかストレスの温床になるからです。

ストレスから人は変化や成長をすることも多くありますが、それが顕在化していいということではなく、間違っても主催側が傲慢になっていいということでもありません。それは気が付かないうちにハラスメントに繋がりかねません。

例えば、声をかけても参加者の反応が薄いからと「感情がない」と失礼なことを心の中で思っていればそれは態度に表れますし、何かの時にふと言葉にこぼれたりして「あぁ、この講師はこんなふうに思っている人なんだ」と記憶されます。

当然ながら「感情がない」人間などいませんし、単にそれが表しやすい雰囲気になっていない、創れていないというだけです。

参加者と共に創り上げるとしても、創り上げやすいナビゲーションになっていないからということに気がつかないのは主催者ばかり、参加者の本音の声が届かない、気づかない、または小さな声に本気で寄り添わないのでは文字通り話になりません。

そのための主催者やファシリテーター、講師としての伝え方・在り方の学びを具体的にせずして、影響を与える位置に立ち続けるのは怖いことではないでしょうか?

これは「もの」についての学びだけしていればいいということではありません。「語り」についてです。

それも、どこまで学べばOKというゴールがあるわけでもなく積み重ね続けるものだと言えます。

過去記事で『「守・破・離」というプロセスの重要性』について書きましたが、それは何も参加者や受講生だけに言えることではなく、講師・主催者も講師・主催者として現代に見合った「守破離」を歩む必要があります。

そして、参加者や受講生が「守破離」を意識して、講師から教えられることを「守」をしていくのには講師を師として認められた段階になってからです。

つまり、認められなければ肩書きだけ講師でも本当の講師、先生とは心からは呼ばれません。

それでも肩書きは講師や先生だから、そう呼ばれることはあったとしても、その奥底でどう感じているかが肝要なのは言うまでもないですよね。

 

◇ キッカケになりませんか?

 

先ほど「講師やファシリテーターには最低限でも傾聴の基本態度条件が瞬間的に求められる」と書きましたが、傾聴とは本来、来談者中心療法のためのスキルであり姿勢です。

カウンセリングの本来の根幹でもありますが、私はカウンセリングをしているわけではないと思った方も…あえて書いた理由が下記にあります。

「何か生き方を示してあげるのがカウンセリング」と勘違いしている人が多いようですが、ティーチング要素の多いそれはカウンセリング全体の大きなプロセスの後半のごく一部でしかありません。本来は。

そしてカウンセリングとは何も心を病んだ人にだけ必要なものなのではなく、”人が行きたい道を見出すために必要なもの”です。

主催者という影響を与える立場の人の場にワザワザ時間を割いて来てくれる方々は、何かしらこの先のヒントを掴もうとしてやって来るのではないでしょうか。

来談者中心…言い換えたら「参加者ファースト」とは何かを考えるキッカケになりませんか?

謳い文句ではなく。考え抜けば。

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