例え、向き合うことが痛くても…

自分に真摯に誠実に向き合わなければ、他人に対して真摯に誠実に向き合うことは難しくなります。

当然と言えば当然です。自分に向けて出来ないことは、他人に向けてすることは出来ないからです。

それなのに普段、怠惰に暮らしていて、真摯に受け止める習慣がなくて、なぜ出来るというのでしょう?

毎日あくせく働いているから怠惰ではない、ではありません。

真摯に誠実に心と向かい合っているかどうか、です。

それも独り善がりではなく、先人からの学びを続けながらです。

真摯に向き合って生きている人は、分かる人にはすぐに分かります。

逆にそうでない人も分かる人には、すぐに分かります。

どんなに言葉で着飾ろうとも…透けて見えるかのように分かってしまいます。

感じ取られるといったほうが、的を射ているかもしれません。

本人がどんなに「そんなつもりはない」と言い張ろうと、正当化を始めとした自己合理化の類は、合理化に逃げない人たちから見ると、すぐに分かってしまいます。

なんとなく使っている、その言葉の端々からも。

言葉になっていない態度からも、醸し出す匂いはごまかせません。

どんなに理屈をこねようと泣き叫ぼうと怒ろうと、虚実のものは吹けば飛んでしまいます。

ですが、自分をごまかしたり嘘をついて過ごしている人間には、それが分かりません。

なぜなら、自分に嘘をつくことに慣れてしまって嘘を嘘と思えなくなっている、いわば麻痺のようになってしまっているからです。

ですので、平然と正当化したり何かしらの自己合理化が出来てしまい、同時に人の気持ちに鈍感になっていきます。

人の気持ちに向かい合うということは、元々、難しいことだとしても全てが難しいことでもないのに、向かい合うことができません。

時に、自分にとって他人とは鏡の役割をしてくれることがあります。

他人を受け止めて向かいあおうとすると、嫌が応にも自分自身に向かい合わないとならなくなったりする時です。

そこを向かいあおうとすると怖いからと、反射的に本能的に小さな隠れ穴に逃げてしまってばかりでは、どうなるでしょうか?

正面から向かい合えば、実はそう怖いものではないのに逃げてるから、いつまでもいつまでも怖くて…。未知の世界。

逃げれば逃げるほど、逃げるからこそマイナスの現実が発生して、ますます怖くなってしまいます。

空気も気候も社会も、そうであるように人の心は常に動いているのに「現状維持」は有り得ないのです。

なぜなら現状維持とは停滞であり、停滞というのはこの流れに反するもので淀みを生み出すからです。

せっかく根気よくそこから変化・成長していこうと伴に歩いて促してくれる人が現れても、自分を直視することが痛いからとごまかして逃げてしまっていては、狭くすすけた穴倉に入ったままです。

最終的には、自分でどうにかするしかないことだからです。誰かがどうこうできるものではありません。

誰かがどうこうすることは出来ないにしても、併走したり支えようとすることは出来る人には出来ますが、そのような人も極限られるので、そのご縁を大切にしないと逃避の姿勢ばかりでは二度とラッキーに巡り合わないかもしれません。

そもそも向かい合うことに伴う痛み、それを理屈ですり抜けようとしているうちは本当の成長などあるはずがありません。

その場限りの正当化を振りかざして、それが一体、何になりますか?

そして人は、あなたに吸い取られるために生まれてきたのでも生きているのでもありません。

それが物であれ、時間(生命)であれ、優しさや慈愛であろうとも、物心どちらであれ、一方的にGIVEされることばかり求めていては、いつか得られなくなります。

与えるから与えられる、というのは自然の法則のように原則だからです。

 

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