地に足を付けての自己向上

 昨日の記事で、下村湖人・著の『論語物語』の序文の書き出しの読後感として、地上を歩きながら天の言葉を語り、神秘も奇跡もなかった、というところからして、地に足が着いていると言いますか、私の好きな姿勢です、と書きました。

 言葉を使うなら、生きた言葉のほうが良いと私は思うほうですが、生きた言葉はリアルの中からですよね。

 書斎に籠もって思索にふけるのも大事ですが、そればかりですと、ぬるま湯になってしまい肌感覚がふやけてしまうと思います。

 リアルに居ながら感じ続けて考え続けて、リアルを生きて、また感じて…そこには様々な感情が渦巻くことがあるとしても、だからこそ、生の言葉になるというのは言うまでもないことでしょう。

 書斎で活字や書物に埋没しているのは安全圏で、ぬくぬくと心地よいかもしれませんが、そればかりではふやけてしまい、遠からず現実から乖離してしまうとも思えます。

 断絶されていない、まとまった時間の中で読書をしたり刺激を受けて考え続けるのは大事ですが、社会との接続が心で切れていなければ、それはリアルを生きていると感じます。

 リアルと繋がっている以上、必ずしも心地よい感覚ばかりでもなく、気持ちがザワザワしたり思考を進めにくくなったりすることもあるでしょう。

 それは趣味の読書とは違い、生きていくための読書であり、学びであり気づきなどがあり、それらから感じられるものが、自らを変えていく時、有形無形に変容の波を受けるからです。

 このような傍目には分からないような地道な積み重ねが価値を創り出していき、いずれ表現性にも影響を与えていくと言えます。

 地に足の着いていないものならば、それはそれで、どこかで解離性を感じられてしまうでしょうし、地に足がついていれば、そのように感じられていくでしょう。

 さらに地に足が着いていたとしても独り善がりであれば、それは迷走しているとも感じられるかもしれません。

 地に足が着いていながら、普遍性に近づいていこうとする姿勢、その中で感じられて得られていくものが、私はとても楽しいと感じます。

 リアルに対峙していくには、ちっぽけな自分の自我のキャパ、そんなものなど軽く超えるような事態がやってくることだってあるでしょう。

 時には吐く思いをしてでも獲得した視野からの言葉、そのようなものこそ血肉であり、肌感覚となり忘れることなどないのではないでしょうか。

 ましてや、机の上でぬくぬくと得たものなど、それらに比べれば、どれほどの強さや深さ・持続性があるのでしょうか。

 落ち着かずバタバタばかりしていてはリアルでも血肉に出来るものは少ないかもしれませんし、危険に身をさらせばいいということではありません。

 だからといって、対岸の火事のように安全圏に居てばかりでは視えてこないものは多いと言えます。

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