私が「論語」なるものを、少しずつ読み始めてみる理由

 「論語」は前から気にはなっていましたが、率先して読むということはなく、見かけたらその意味がいいな、と、何度か反復して部分的にかいつまんで読む程度でした。

 ですが、マインドセットなどを考えて探っていくうちに接することも増えてきて、かつ、分かりやすく解説や現代語訳なども様々なものが出ている背景から、少しずつまともに観てみようかという気になり始めています。

 2500年も前に孔子により語られたその言葉の数々が、現代においても、重要な価値として世界に継がれている。

 下手な自己啓発書を読んで変なストレスや植え付けをされるより、まずは論語からと言われる所以を感じてみたいと思い始めています。

 まずは青空文庫やKindleなどで、速攻に手に入る下村湖人・著の『論語物語』を開いてみました。

 他にも観てみたい論語関係の書籍はありますが、いずれにしても、どのような気付き・発見、学びを得て、自分自身が実生活に活かしていけるか、自分に楽しみなところです。

 

下村湖人・著の『論語物語』の序文の書き出し

 

 ここを観て(論語の本文ではないにしても)、早速、いいなと思ってしまいました。

 (以下より引用/改行のみ追加)

 『論語は「天の書」であると共に「地の書」である。

 孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。

 天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。

 いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである。

 彼の門人達も、彼にならって天の言葉を語ろうとした。

 しかし彼等の多くは結局地の言葉しか語ることが出来なかった。

 中には天の響を以て地の言葉を語ろうとする虚偽をすら敢てする者があった。

 そこに彼等の弱さがある。そしてこの弱さは、人間が共通に持つ弱さである。

 吾々は孔子の天の言葉によって教えられると共に、彼等の地の言葉によって反省させられるところが非常に多い。』

 (引用、以上)

 地上を歩きながら天の言葉を語り、神秘も奇跡もなかった、というところからして、地に足が着いていると言いますか、私の好きな姿勢です。

 その門人たちも天の言葉を語ろうとしつつ、結局は地の言葉しか語れず、中には天の響を持って地の言葉を語ろうとする虚偽を、あえてする者もいて、そこに彼らの弱さがある、とあります。

 これを観て、私は巷溢れる怪しげな?スピリチュアルにハマっている人たちを、ふと思い出してしまいました。

 スピリチュアルだからと頭ごなしに怪しいとは思っていませんし、数は少なくても真っ当なのもあると思っていますが、大半は、いえそれ以上は、なんちゃってどころではない…のではと感じています。

 フワフワとそこにある虚偽が、それこそ透けて視えているのだと気づかないで、何が視えているのだろうとも思えるのです。

 それはそうと、地にありながら天の言葉を伝えられる、それも2500年前から今に残り、重要な価値があるとして用いられることも少なくない。

 若いときの私は、へぇとは思っても自分にとっては飯の種にもならないだろうと思って、目もくれていなかったような気もします。

 ですが年月を経て今、興味津々なのは変わるもんだなぁ…とも思ったりします。

 たまに現代語訳や解説とともに見かけると、スッと入ってくる…それもスマートに感じられたりして古さも感じない、これが普遍性のある言葉か、とも感じます。

 これからたまに論語から感じたことを書くかもしれませんが、こういった理由からの始まりです。

 まぁ、門前の小僧習わぬ経を読む的なインプット&アウトプットですね。

 

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