日々の中で、小さな感動でも実感していますか?

最近、ブログ執筆にまで費やす時間が取れずに、毎日書くとは決めていない、じっくり型のマイペースブログとはいえ、更新が延びました^^;

とは言いましても、今月は今月で実に濃いコミュニケーションに大半の時間を費やすことが出来て、その意味は大きかったとも言えます。

・・・ ということで、久しぶりの投稿です^^

今回の記事タイトル『日々の中で、小さな感動でも実感していますか?』

このフレーズから、プチ感動のネタでも出しているのかな?と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、感動ネタは世間に数多くありますし、この記事では別の切り口から記しております。

~ 心から溢れでる 自然な微笑み

沸き起こり 胸に宿りつづける希望への

小さな一歩を 私なりに願って ~

 

◆ 目に見える「今」だけが全てではない!

 

から太郎
はぁ・・・、今日もイヤな1日だった・・・

から太郎
明日は、問題なく大丈夫かな?

から太郎
明日も、イヤなことが起こらないかな?

もし、寝る前などに、このようなことばかり浮かんできたり、今の目の前のことばかりに囚われてしまっていたりすると、落ち着かないし心地よくないですよね。

・・・ 私も過去には、このような時が、よくあった時期を思い出しながら記します。

 

から太郎
明日からは、良いこと起こるはず!

 

願いを込めるのは大切ですし、言い聞かせるように思い込もうとするのも良いかも知れませんが、もし、心の奥で・・・

から太郎
そんなことないよね、きっと、また・・・

 

このような不安が、どこかで浮かんできてしまうなら、その声のほうが強い囚われを生み出してしまいます。

私はイタズラに、このようなことを記しているのではありません。

多少のことならまだしもかもしれませんが、その根強さ・度合いによっては、無理に囚われにフタをするように思い込もうとしても、だんだんと心の声が叫びだしてしまいます。

そもそもフタが出来るものではないのに、フタをしようとしていると余計に膨らんできて、心の奥の奥では強く反発されるのは自然な動きです。

強く意識できている場合もあれば、自覚が少ない(ように見える)、または、ない(ように見える)場合もあります。

いずれの場合でも、心の奥の奥(潜在意識)では、パッと意識できる範囲(顕在意識)より、ずっと多くの全てを感じていると言われています。

 

このことは、私も20代の頃、あるセラピストに教えていただくまで、多少は知っていたものの心では分かっていませんでした。

その時は、心理学には興味もあり独学も続けていたものの、セラピストに会うのは抵抗感も強くありました。

それでも、現実のことでよくよく悩んでおり、偏頭痛や重い肩こり、虫歯でもないのに歯痛が続く中、奮起して初めて訪れたのが最初でした。

もちろん、普通に病院にも行っておりましたが、肉体的に特にどこが悪くなっているということでもないようでした。

バリバリに仕事にのめり込んでいた私でしたが、正直に言うと、最初から素直にセラピストの言うことが心で聴けたわけではありませんでした。

しかし、自分の心にフタをするように、どこかで思い込もうとするほどに自覚症状は麻痺していき、奥にあるくすぶりが根強くなっていくというような話を何度も教わった時・・・

 

どこか心の遠くで・・・

時間をかけて・・・

 

少しずつ腑(ふ)に落ちて・・・

だんだんと納得する実感が芽生え始めたことは、今でも本当に忘れられないことの1つです。

フタをするほどに「楽しい」などと思えなくなくなってきますし、パワーも出なくなってきて、慢性的なフラストレーション(※)になります。

20代の当時、この「慢性的なフラストレーション」の自覚だけは、いつもありましたものの、その要因がよく分からず、目先が楽しければ良い、と、どこか刹那的になっていました。

フラストレーション (frustration) とは、欲求が何らかの障害によって阻止され、満足されない状態にあること。

また、その結果生じる不快な緊張や不安、不満。

「欲求不満」、「欲求阻止」、「要求不満」、「要求阻止」などと訳される。

Wikipediaより引用

フラストレーションが募ると「解放感」などは程遠くなっていき、表情や声の印象、言葉の言い回し、ふとした行動に無意識に現れやすくなってきます。

当時の恋人から束縛されていたわけではないのに、束縛されているかのように感じていたり・・・。

捉え方(認知)もズレやすくなったり・・・。

人の話がちゃんと聴けない時が度々あったり、なぜか焦りがちになったり・・・。

しまいには、分かっているはずなのに・・・飲酒で悪酔いすることが続いたり・・・。

自分では分からなくても、そばにいる相手によっては、一瞬で伝わってしまうという現象が出てきます。

もし、日常のプライベートにおいてまで・・・

から太郎
強い人でなければならない

から太郎
笑顔でいないとならない

から太郎
明るく、振る舞わなければならない

芸能人の撮影現場や接客などの仕事の場面は、そりゃ、別ですよ。

それは別としても、もし、日常生活においてまで、どこか、このように思い込んでしまう・思い込まなければならないとしたら・・・?!

誰も「自分の心にウソ・ごまかしは、いつまでも言い続けられない」のに?!

 

思い込みや囚われは、物ごとに条件づけてしまうことから発生しやすくなります。

例えば、人から受け止められなかった経験が強くあったとして・・・

から太郎
強くなければ、正しくなければ、清くなければ、人から受容されない

わかりやすくするために、あえて極端な例をだしましたが、仮に、このように自分自身に条件を付けて思い込んだとします。

そうすると、どうなりますか?

次は・・・

から太郎
あの時、うまく行かなかったのは、私が、強く・正しく・清くなかったからだ

ここまで極端にしてしまうと一目瞭然(いちもくりょうぜん)かと思いますが、実際には、かんぜんに強く正しく清い人なんて存在するのでしょうか?

赤ちゃんは、とても「清い」存在でしょうが、「強い」とは言えないでしょう。

「正しい」のあり方も、人やコミュニティ(グループ・派閥・社会・国家など)、時代によって変わりますね。

「強い」? 完全に全てが強い人なんておりますか?

汚くて良いとは思っていませんが、強く・正しく・清くなくても・・・人間臭くて、それで愛されるのではないでしょうか?

 

そもそも、本当のキラキラやワクワク・笑顔は、「ツクリモノ」なのでしょうか?

ここで無理しすぎると、それが伝わってしまい「イタイ」と捉えられるケースもありませんか?

そうすると顔を売る仕事では、いつまでも、イマイチ売れない、という現象が生じます。

そして、率直に言ってもらえないまま、または言われても意固地になって聴けないまま、後になって「イタイ」自分に気が付いたときには、ご本人にとって黒歴史のようなダメージになってしまいます。

「イタイ」も「ダメージ」も少なく進むには、自然と湧き起こり、内側からにじみ出て感じさせる「かもし出るもの」に目を向けるほうが、ずっとずっと、楽になるのではないでしょうか。

そういったナチュラルに感じられるものに惹かれるのは、きっと、私だけではないと思います。

「ツクリモノ」より「リアリティ」のほうが、強く人に伝わり、惹き付け、時に人を動かし、長く記憶の中に残り続けます。

では、ナチュラルに光に向かうには?という疑問が出てくるかもしれません。

ここでは、手練手管やテクニックなどの「やり方(Do)」については述べず、「あり方(Being)」に徒然に触れてみます。

「やり方(Do)」は巷にあふれる程ありますし、「あり方(Being)」あっての「やり方(Do)」ではないか?とも思うところもあります。

 

◆ 流れを変えるのは、物理的な面だけではなく

 

仮に、がんばって勇気を出して、今いる環境を物理的に変えたとします。

離婚・転職・引っ越し・新しいことへのチャレンジなど、様々な方法がありますね。

新しい明日への第一歩を踏み出すことは、とても素晴らしいことと思いますし、それが必要なときだってありますよね。

そうして

から太郎
よしっ! 環境も変えたし、明日からは良いこと起こるはず!

心機一転、このように安心できたとします。

ですが、ココロの中では・・・

から太郎
もしかしたら、きっと、また・・・

どこかで囚われ続けていたとします。

当然のように出てくることかもしれません。

 

ここで、多少の心配ならまだしもかもしれませんが、囚われの度合によっては、それが知らず知らず態度や行動に出てしまうことは、珍しいことではありません。

心の中で消化しきって、昇華していないと引きずってしまうケースも少なくないようです。

それは、心の奥に残っているトラウマや囚われからの「条件反射」のような反応と言えるかもしれません。

その「条件反射」の積み重ねが、いつか、過去と類似した「起こって欲しくなかったこと」を負の連鎖のように引き寄せてしまうかもしれないのです。

シンプルに言えば・・・

から太郎
また、失敗するんじゃないか・・・

と思っていたら、失敗を引き寄せやすくなってしまう可能性が高まるということですね。

スポーツ心理学では、よく言われますね。

 

何度も哀しい離婚を続けてしまう、何度も逃げるように転職をくり返してしまう等々のケースに見受けられます。

もし、環境を変えても、いつしか同じような状況を堂々巡りしたり、どこかで繰り返しになるとしたら、本当に状況を変えるのは、心の動きに他なりません。

そのためには、心の動きの中で囚われ続けているクセ(固定観念)を・・・

目を背けるか見つめるか、で、大きく変わっていくのは、私自身、実感してきたことでもあります。

自らの不安やコンプレックス、囚われなど、一見、パッと目を背けたいものを、すこしずつでも真っ直ぐに見つめ続けることから、ジワジワと昇華されていくと言えます。

いくばくかでも昇華されていった時の実感は、実に爽やかで自然と朗らかな感覚が湧き出てきます。

何一つ、無理に思い込む必要などない、心底、気持ち良い、心の体感です。

このような時に、ウソやごまかしのないワクワク感も自然と伴います。

 

本当のワクワク感とは

 

そうして、“一度でも得た、昇華の感覚は忘れられないものになる”というのは、私だけではなく、他の方のケースでも通じて言えることと聞きます。

もちろん、それで万事解決のカンペキなんてことは、どこまでもあり得ないでしょう。

生きている限り、1つ進めば、また1つ壁がでてきます。

ですが仮に、その前の不安定な状態に逆戻りすることがあったとしても、スグに違和感を感じたり、気持ち悪くなって、そこにハマっていたくない、と、早くに軌道修正の心のサインが感じられるようになります。

その時には、客観性もいくらかは成長していて、何が要因かも以前よりは見えやすくなっています。

立ち止まって見直す意識も、以前よりは早い時点で気づきやすくなってきます。

つまり、「好転」の方向に持っていくための内面での気付きも早まります。

ですが、いくばくかでも昇華に至るまでは、苦労が伴うケースも珍しくないと思います。

心のクセは、たった一人のときよりも人間関係において直面しますが、その時に・・・

から太郎
言葉では言っているのに・・・なぜか、うまく行かない

というケースがあります。

そこで、まず、コミュニケーションは言葉だけで、どうこうなるものではないことに触れてみます。

 

◆ 相手に伝わるのは、言葉以外の要素が9割以上

 

話し手の「言葉以外の要素のほうの多くが、聴き手に伝わる」ということです。

コミュニケーションにおいて、言語で伝わるところと、おのずと非言語で伝わってしまうところがあります。

正確には後述しますが、四捨五入してざっくりと言えば、言語(言葉)1:非言語(言葉以外)9の割り合いと言われております。

1970年代の始め、心理学者のアルバート・メラビアン氏の実験報告では、以下のように大別されました。

(「ノンバーバル・コミュニケーション」についてご存知の方は、この章はスキップしてください)。

  • 言語・言葉によるコミュニケーション

    ・・・「バーバル・コミュニケーション(言語的コミュニケーション)」
  • 言葉以外によるコミュニケーション

    ・・・「ノンバーバル・コミュニケーション(非言語的コミュニケーション)」

つまり、「バーバル」:言語と、「ノンバーバル」:非言語ということですね。

これらは個別に独立している別個のものではなく、同時に伝わるものとして存在しています。

同氏の実験結果によると、それぞれの割り合いは以下のようになっています。

  • 言語情報:話す言語・言葉、それ自体が持つ意味、キーワード ・・・7%
  • 視覚情報:見た目・身だしなみ・しぐさ・表情・視線など ・・・ 55%
  • 聴覚情報: 声の質(高低)・速さ・大きさ・テンポなど・・・38%

「視覚情報」と「聴覚情報」は非言語ですね、

つまり、言葉以外による範囲の「ノンバーバル」となります。

ノンバーバル(非言語)が与える影響を合計すると、93%です。

端的に言ってしまうなら、雰囲気・かもし出るもののほうが、伝わるのは何倍も大きいということです。

 

そして、「バーバル」、“「言葉」(キーワード)そのものが聴き手に与える影響は、たった7%”でしかないということです。

つまり、口では(言葉では)どんなに素晴らしいことを言っていたとしても伝わらない・納得されないというケースでは、使っている言語(言葉)と、非言語の間にギャップが激しい場合です。

ノンバーバル・コミュニケーションについては、コミュニケーションを学ぶ場では、よく言われますね。

言葉はコミュニケーションにおいて、とても重要なものですが、人が共通して判別できる記号・信号のようなもの?とも言えるでしょうか。

人はロボットではないので、記号や信号だけでは心まで動かないのも原理と言えます。

 

受け手
話はわかるけど、何かがチガウ・・・

このような場合は、ノンバーバル(非言語)の部分で伝わっている何かが逆効果に作用しています。

もしくは、相手の捉え方(認知)のズレかもしれません。

逆に、バーバル、言葉だけでしか伝えられないとしたら、赤ちゃんの泣き声や表情、仕草から周りの人間が感じ取ることは出来ない、ということになってしまいます。

実際には、そんなことはないわけですよね。

 

私が初めて、ノンバーバル・コミュニケーションについて、ある方から強く言われ続け学び出したのは、今から16年~17年ほど前だったかな?と思います。

ほんと、あっという間に月日は経ちますね。。。

言葉の世界の住人のような私が、ノンバーバルを初めて明確に意識した(させられた)時、それを自らのコミュニケーションに落とし込むには、スグには受け入れがたい気持ちも多少はありました。

言葉への囚われが今以上に強かったからですが、ノンバーバルが普遍的なことの大きな1つだということも、同時に感じていました。

「普遍的」なこととは、「私は違うと思っている」が通用しない自然の法則のようなものでしょう。

「事実と意見は、チガウ」のですよね。

そして今は、ノンバーバル・コミュニケーションが対面の場合だけでなく、話し相手(傾聴)サービスのほんわか倶楽部などで通話のみの傾聴や会話でも、大きく通ずることだと実感している日々です。

・・・

ノンバーバル・コミュニケーションについては、外部サイトなどで詳しく解説されていますので、ここでは省いた説明も多くあります。

もっと詳しく知りたい方は、以下のリンク先などをご覧ください。

なお、ここには掲載しませんが、書籍やコミュニケーション研修などでは、もっと明確に説明されております。

 

◆ 心の動きが、現実を創っていく

 

成功哲学を盲信するわけでも、推奨するわけでもありませんが、有名な言葉の「思考は現実化する」というのは、多かれ少なかれ事実に感じます。

以下は『思考は現実化する』の書籍からの引用ではなく、私が感じている点ですし、この辺りを学んだり意識されている方には、当然、ご存知のことと思われます。

  • 心のあり方 ⇒ 「思考」・「捉え方」に表れる。
  • 思考 ⇒ 実際の言動・行動に反映されて、その先の現実を生み出す。
  • 心の動き ⇒ 固定観念による「条件反射」的な反応がある。
  • 固定観念 ⇒ 何かで身に付いた「心のクセ」・「心の習慣」とも言える。

 

人は「習慣」や「クセ」に、つい、とらわれやすいですよね。

生きていくのを楽にする習慣もあれば、自らを追い詰めてしまう習慣もあるかもしれません。

自らは、どのような「心のクセ」を持っているでしょうか?

そっと、柔らかく見つめ直す時間を、日常の中で持つことができておられますか?

 

見つめ直すことは、時には辛さや痛みを伴うこともあるでしょう。

だからといって、目をそらしていたら、決して昇華されることはなく、いつまでも付いて回ります。

逃げれば逃げるほど、それは増幅・粘着してしまう性質があり、それに見合った現実を、時には悲劇を引き寄せてしまいます。

「自分」から逃げられる人はいない以上、見つめ直し続ける以外、打開への一歩は他のどこにもありません。

他のどこかにあるとしたら、それは、そのための学び(ヒントや指針)やサポートまでのものでしょう。

なお、今の生でするべきであった課題をこなさないで、逃げるほどにややこしくなり、重くなるそうです。

 

 

心の扱い方次第で、明日も変えられますし、すでに過ぎてしまった過去の捉え方も変えられます。

このような意味で、「過去も明日も、変えられる」ものなんですよね。

本来、人には「成長したい」・「自分を活きたい」という本能が備わっていると、心理学やカウンセリングの学びでは言われています。

まずは、心を見つめ直すことから始まります。

見つめ直すには、ココロの体力、生命力が必要だと思います。

疲労やストレスが溜まっていたら、立ち止まって休息もとても大事です。

そして、ココロの力は受け売りではなく、自らの奥から湧き出るものが本当ではないでしょうか?

 

◆ 触れ続ける・見つめ続ける・・・

 

食事・体調、部屋の状態や睡眠を大切にしていますか?

ゆったりと流れる時間や、立ち止まる時間を意識していますか?

そのうえで小さな感動でも、安らぎでも得ていますか?

 

心のケア

 

感動することは、希望する力を生み出すと、私は感じております。

感動するポイントは、人によって好みがあるように違ってくることでしょう。

日常生活の中で、必ずしも素晴らしい「感動」があるとは限らないと思います。

それでも、ちょっとした感動や安らぎを与えてくれる場面が、毎日ではなくても、すぐそこにあったりするのではないでしょうか?

人との関わりの中での、ちょっとした良心からの動き、優しく穏やかな心、大切に見つめたいと思います。

キレイに咲いている花々、それを観る方々が安らぎを感じられますね。

さっと横目で見ながら通り過ぎる時もあれば、すこしの間でも立ち止まって見つめたり・・・。

青空が好きなら、上を向いて青空を眺めるのも良いと思います。

もし、犬や猫などの動物と暮らしているなら、その姿を見つめるだけでも、私はとても安らいで微笑みがでます。

疑似体験で観るなら、小さな感動を与えてくれる作品から、大きな感動を与えてくれる作品まで、世間には様々なものが生み出されていますね。

何も、大きな予算をかけた超大作でなければ、価値がないということもないでしょう。

インターネットや端末が進化してきて、わざわざ時間をつくって移動しなくても、家にいるだけで閲覧できる環境になっていますね。

作品からの「感動」は疑似体験となりますが、疑似体験はセーフティでもあります。

大切なのは疑似体験であれ、「実感」だと思うのです。

 

自発的に「感動に触れ続けること」・「見つめ続けること」が大事だと思います。

もし仮に、今、目先の現実だけが全て、のように思えたとしても、そうではないはずです。

せっかく得られた生命であり、人生です。

一人の人間の存在は「唯一無二」、私はこの言葉がとても好きです。

「感動」から「希望」をイメージする心の次に、自らの見直しとともに「実感」の伴った「ココロの眼」?のようなものを養い続けていけますように・・・。

 

 

長文となりましたが、ご通読いただき、本当にありがとうございます。。。m(_ _)m

本記事に関しても、随時、見直していきたいと思います。

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