「良いか、悪いか」「どうするか」を決めるのは

傾聴させていただく時、私はいつも下記のことも心に留めて、話し手さんの世界に少しでも浸るようにしたいと思っています。

以下は、そんな私の私的な徒然で自分のために書いているため、抽象的で分かりにくい表現でしたらおそれ入ります💦

公開するのは、たとえ、そんな文章であっても社会と接続させることで、より自分の中で感じられたり視えてくるものがあり、それが貢献という形で還元できると考えられるためです。

 

傾聴カウンセリングの場において

 

話し手のリアルな話で「良いか、悪いか」・「どうするか?」などを決めるのは、話し手自身というのは基本原則ですね。

(「原則」とは、永きに渡っての多くのリアルや臨床ベースでの試行錯誤と検証の積み重ねの上で、ようやく到達した境地と言えるものなのかもしれません。

いずれだとしても、その意味を分からぬまま、勝手な自己満足からの解釈で決め付けたり矮小化などすることなく、真摯に考え続けていきたいと捉えています)

 

もし、聴き手が話し手にとっての「良いか、悪いか」・「どうするか?」などを恣意的に誘導したとしたら、それは質問という形で一見したアドバイスを使っていなくても、アドバイスをしないアドバイスとも言えます。

その誘導は聴き手の答えであって、話し手にとって本当に最適解かどうかも分かりませんが、人は質問されたら答えようと思考する習性があるため、その多少によらず誘導されます。

…にも関わらず、多少、話を聴いたまでの段階で、どうするか?の方向に何かしらの質問で持っていってしまうとしたら、それは「無条件の寄り添い」と言えるでしょうか?

 

恣意的な混ぜ物はしない

 

話し手の中に広がっている世界を感じ取れていく前に、無責任にも別の世界が混ざってしまう…

話し手さんの映画を観ようとしているのに、他の映画が混ざってきて、何だか分からなくなり別物になっていく…

また、恣意的に誘導すること自体が、横並びの伴走ではなく、どこかで「私のほうが分かっている」かのような見えない意識が含まれているのではないでしょうか?

何かしらの方向性や答えを急ぎたい気持ちになっている時は、私は自分の中にそのような意識を感じて、恥ずかしくて隠したくもなってしまいます。

(もちろん、傾聴やカウンセリングの場面ではない時、その立ち位置ではない時でしたら、この限りではありません)

 

聴き切るって、何だろう

 

傾聴カウンセリングにおいては、まずは話し手さんが、もう(本当に)話すエッセンスがなくなるレベルまで、しっかりと寄り添い切る。

そこを事柄ばかりに偏ってしまうと際限がなくなる場合も多くなり兼ねないため、段々とエッセンスに集約させる聴き方にしていく方法もあります。

 

いずれにしても、白紙で聴き切るかのように意識し続ける。

完全に「白紙」にはなれないとしても、その自分を抑えるのではなく、自分を横に置く感じ。

横に置いている自分の気持ちや心の声にも、同時に耳を傾けながら…(一致)

一緒にゆらゆら、話し手さんが留まりたいのなら、一緒に留まり続けて、感じ続ける。感じ続けようとする。

聴き切るためにスキルが必要ならば、自己一致の上で気持ちの表現として、魂を込めて使う。

あくまで「関わる在り方(Being)」重視であり、スキル(Doing)を使うために、その場や関係があるのではない。

 

曇りも 台風も 豪雨も

 

そこまで、とことん聴き切ってこそ、初めて、思考だけで考えたのではない「感じ切った内側からの方向性」が、やっと澄み渡る空が視えてくるかのように感じ取れて見出せてくるのではないかと思います。

それは台風も豪雨も過ぎ去った後に、まるで別世界に変わったかのようにまで澄み渡る空のようなものかもしれません。

その台風や豪雨に上から蓋をしたところで、内側では決して止むものではありません。

 

私自身がホワイトアウトして、いつもの景色を見るほどに、滝のような涙しか流れない…

本当に(遂に…おかしくなってしまったのか…)と思えるほど、思うほど孤立感に埋もれていく…

決して、簡単には表しきれない辛い闇に堕ちているところから、見出せていった時の忘れられない実感から書いているまでです。

 

そのような時には、外部からの「余計なエッセンス」は過ストレスに他ならず、そのストレスは濁りを増やす重荷…

まるで、アドバイスに名を借りた自己満足の搾取のようにすら感じられて止まなく、異臭漂う重たいダークグレーのスモッグを増やして、ますます全身を包んで汚染していくとしか感じられませんでした…

私が今でも忘れられず、身体に記憶されている感覚です。

 

○ 確固たる土台があって 初めて建築できる

 

思考だけで考えたのではない「感じ切った内側からの方向性」の土台の上で初めて「どうするのか?」を、傾聴しながら一緒に考えていくプロセス・展開に入れる、ということではないでしょうか。

“思考だけで考えたのではない「感じ切った内側からの方向性」”が感じ取れている段階でしたら、話し手自身の新しい確固とした土台が芽生え始めていると言えるように思います。

それでも、まだ「芽生え始めている」段階ですので、柔らかい肯定的な受容・共感的な理解をしようとする関わりが、話し手には必要です。

この段階でしたらアドバイスではないアドバイスを少しずつ柔らかく入れていっても、さほど恣意的とまでは言えず、話し手さん自身の中から見出すためのコーチング的ステップに移れる可能性が高くなっているのでは?とも思えます。

ですが、それは聴き手の思い込みで判断することではなく、丁寧な対話の中から忖度がないかなどの確認も大切だと思います。

 

まずは、カウンセリングを要する状態においては、この土台づくりは決して侮れません。

深掘りして土台を造らなければ、その上に建築は出来ないのと同様です。

「掘ってて(寄り添ってて)何になるんだ?」と思っても、深さがなければ、その上に何かを建てても弱く危ないものになってしまい兼ねません。

それは、話し手さん軸で造られていってこそ、話し手さんのものです。

造りやすいように寄り添いやご支援はさせていただいたとしても、創るのはご本人に他ならず、他人が造れるものではありません。

 

大切なのは

 

聴き手個人の思いや願望より、自分のために人をコントロールしようとするより、もっと大切なのは、その間にある人間関係。

まず、相手をちゃんと知ろうとすること、真摯にわかろうとすること。寄り添うこと。

そのために、自らを楽しみながら成長させる。そのために学ぶ。

傾聴もまた、傾聴を通じた「話し手さんとの人間関係」を創る場に他ならないですね。

 

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