○ 似て非なるものとは似ているようで、その違いは大きい
ビジネスという現象もやっぱり人の繋がりで出来ている以上、感情の動きというものは外せませんよね。
例えば、小手先のテクニックは卓越していたとしても、その根本に血の通わないマーケティング手法は長続きせず、安定的・継続的にはなりません。
血が通っているからこそ、感情を捉えたマーケティングの効果が受け手にも心地よく出るのであり、血が通っていなければ手練手管で人を操作している違和感や不快感を与えてしまうでしょう。
似て非なるものとは似ているようで、その違いは大きなものです。
私自身、1999年に創業して間もなくからそのことに気が付けたことは、その後の明暗を分ける礎になったと感じてきました。
それはビジネスモデルにおいて言えば、もっとそうです。
ビジネスモデルとは「価値を安定的・継続的に提供していくための人間関係・法人関係」であると言えますが、それは、どちらか一方のみが得をしたり搾取するようなWin-Loseでは決して成り立たないのは周知のことでしょう。
Win – Win になるためには「理解してから理解される」意識が大切で、これは別途、『7つの習慣』からも学べますが、さらにこの「理解」するということが、どのようなことなのか、その深みや広さは必要だと思います。
その道の途中の備忘録として、ここに徒然に?記します。
○ 業界や他社(他者)非難をすることの落とし穴…
落とし穴ですから、パッと見は見えないものですね。
そのまま進んで行けると思っていたのに…そこに落とし穴が…というものです。
現実には見えないところで音もなく、手からこぼれ落ちる砂のように消えていっている何かがあるのかもしれません。
(まず、ここでは「批判」と「非難」を使い分ける意識で書いており、「批判」は時に必要だが「非難」とは人格否定にも繋がるようなものなので、それはしないほうが良いという視点です)。
たまに見られますが他者非難に繋がるような販売方法は、それがハマる相手にだけはハマるかもしれませんが、マニアックな狭い村を作るようなものなので要注意とも言えます。
たとえ、それで最初は噛み合ってた受け手とでも、もし提供側が、そればかりだと、いつか自分(受け手)が多かれ少なかれ非難される側になるのでは、と怖さを感じ出しますし、そのようなケースも見られるわけです。
素晴らしい商品やサービスを普及させるためとは言っても、そのために業界非難をしている割合に偏っていると、次第にそのようなカラーと見られてしまうでしょう…(哀)。
たとえ、その非難が事実に基づいてであっても程度加減もあるでしょうし、非難される対象も人である以上、敬意に欠けていてはマウンティングになりかねません。
下手すると誹謗中傷…そこまで行かなかったとしても、その一歩手前というのは、そのようなマウンティング的なカラーを醸し出していると感じられてしまうかも知れません。
誰かを堂々と非難する人は、それをしても正義だと思い込んでいる…だとしたら、この人の思い通りでないと私も非難されるかもしれない…そこに多様性への受容がどれほどあるのでしょうか。
もし、そのまま行くと「この人の人格は、どうなっているんだろう」と疑念を持たれる…もし、そんなことになったら目も当てられないですよね…。
もし、「でも、○○だから、批判されても仕方ない」・「批判するのが皆のため」という義憤的な姿勢の裏側にドロドロした差別意識がどこかにあるとしたら、それは見立ての仕方次第かもしれません。
その対象が気が付いていない・知らない、知っていても出来ない理由などがあるかも知れませんし、そのために苦しんでいるところもあるかもしれませんので、そこへの配慮が大事なのではないかと思います。
そのような配慮なくしては村が街になることはなく、多様性と言いつつも限られた範囲でしかなくなってしまいます。
あなたの正義は、あなた達にとっての正義であり、もし、それが他者を貶めて成り立つところがあるのだとしたら、正義とは何なのでしょうか、ということにもなりますね。
以前に書いた過去記事も思い出されるところです。
こう書いていて私も非難をしているのではないか?という懸念が付いて回ります。
ジャーナリズムに関わっていた時代に知ったことですが、反差別の思想を持つ人が陥りやすい「差別を差別する」感覚ですが、それもまた差別なんですよね。
そもそも、批判と非難の違いが分かっていれば、非難は避けて批判が出来るわけですので、ぜひ、前向きに体得しきってしまいたいテーマです。
批判と非難を混同して使われているケースは多く見られますが、批判的思考とは何でしょうか?
以下の過去記事でも触れてきましたので、参考になりましたら幸いです。
クリティカル・シンキングによる批判的思考であれば、他者への配慮がしっかりと言語化されて現されることになり、批判される対象も不快感を感じる度合いは実に低くなると言えます。
他者批判とは最適解を見つけ出すために必要なときがありますが、それはそんなに容易ではないのです。
ですから「人の悪口は言わないほうが良い」という一般世間での慣習があり、それは必ずしも美辞麗句とは限らないとも言えるのではないかと思います。
仮に、毒舌キャラとして振る舞っていようと言葉のナイフで誰かを刺すのであれば、刺しているのであり、それは自らを刺し貶めることにもなってしまいます…。
非難する差別グループで村を作っていても、そこから這い上がれないままのぬるま湯のカエルかもしれません。
それを合理化するために結論ありきで、上から目線で誘導的にマウンティングすればするほど、そこから這い上がなくなっていきます。
人によっては、そのような姿を「言い訳の達人」・「資格のない自己弁護士」と言う人もいましたが、ふと思い出してしまいました…。
○ 突き抜けてしまえば…
他者を非難したり貶めることにより自らの優位性を得ようとする心理が働くのは、そこに何かしらの囚われや不安があるからではないでしょうか?
仮に「自由になっている」とは言いつつも、そこに触れてばかりだと自由とは言い難く他人には感じられます。
つまり、そこから這い上がっていない、どこか内心でのたうち回っているから、そこに触れざるを得ない。
それをお客さんに「同じ苦しみを与えたくないため」と言いながらも、その程度加減が変に必死だったりすると、どこか…違うと感じられて人は離れていってしまいます。
その「どこか」にポイントがありますが、それを自覚しているか、または自覚しようとしているかによっても道が開けてきます。
そこから自由になって囚われていないのが本当ならば、それほど度々触れずとも「同じ苦しみを与えたくない」は出来ます。
詳細はとても書ききれませんが、一言で言うなら突き抜けてしまえば良いのです。
一流と二流の違いは何でしょうか?
三流と二流の違いは何でしょうか?
明確な定義は難しくても考え続けていきたいテーマと、私は思っています。
突き抜けてしまえば、その自分に変われば、他者非難をたくさんせずとも、変わった自分に人は付いてきます。
それは美辞麗句などの意味ではなく、それこそが「同じ苦しみを与えたくない」と言いつつ同じ苦しみに囚われている狭い世界から自由になることであり、そこから広い世界へ自由に羽ばたくということではないでしょうか。
寄り添いとは必ずしも、苦しみや憎しみに同調することではなく、それを他者批判と思いつつ非難して膨らますことでもなく、それを消化して昇華してもらうためにある心の動作です。
争いは争いを生み、憎しみは憎しみを生むのは明らかなことですので、戦わずとも深耕化できて、寄り添いながら成長・発展していく経営というのをここでも考えたいところですね。
私は何も一概に人を憎むのがイケナイコトと思っているわけではありませんが、その扱い方や表現の仕方というものは考えたいと思っています。
上記の過去記事にも書きましたが、「正しい自分」より「優しい自分で」いたいですね。
被害を受けたからと他者を攻撃するほどに被害者と加害者は容易に入れ替わりますが、どこかに被害者意識を抱えたままだとそれに引きずられやすくなりますので、昇華した上で客観的に取り扱う視点がとても重要だと思います。
溺れずに泳ぐというのは思いの外、そこに感情移入や驕りがあるほどに難しくなり、人は必死であるほどに慢心しやすくなりますので留意したいところです。
この記事は、まだ未完の感を抜けていませんが、アウトプットして世間に繋げてみたことで次への一歩に繋がればいいな…と自分では思っています。
○ 楽しければ何でもいいでもありませんが…
私は格好を付けるのでもキラキラを気取るのでもなく、痛みも人間臭さも大事にしたまま一流を志向していきたいと思っていますので、その意識から記してみました。
非難傾向に走るのは私は三流、または四流だと思っていますが、はっきり言って楽しくないですし、自分のことを言われているのではなくても、その割合が目に付くことが多いと不快に感じます。
そこから自分に優位に物事を誘導しようとされる気配を感じますと、小さくも感じてしまいます。
また、いずれ非難される対象ではないかとうがって見られて、偏見から誤解されるのも本意ではありません。
人の振り見て我が振り直せですから、私もついつい誰かにそうしてしまっているときがないか気を付けていきたいところですね。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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