つい…歪めて思い込むって何だろう?

つい誤解してしまいやすいクセがある、つい、ズレて解釈してしまうことがある、それで損をしていると、もし感じているとしたら…

下手すると、それが自分を追い込んでしまう、辛いとまで感じてしまうことがあるのでしたら、それはどこから生じているのでしょうか?

 

○ 自動思考

 

しばしば私たちは意識せずに「自動思考」を行います。

まず、このことから知っていくと楽かな、と思いますが、自動思考って、何でしょうか?

ウィキペディア『自動思考』より抜粋引用してみます)。

自動思考とは、状況に対応して非常にすばやく、自分の意志とは関係なく自動的に湧き出る思考を指す。主に認知行動療法で用いられる用語

(引用以上)

つまり、感情の反射とも言えるでしょうか?

ついしてしまうような捉え方・反応、条件反射のようなものとも言えるかも知れませんね。

ウィキペディアの同ページより、以下も引用します。

認知行動療法における自動思考

認知行動療法は、「人の感情や行動(そして身体は)、状況そのものでなく、状況に対する解釈の仕方によって影響を受ける」という認知モデルに基づく。

例えば、やるべきことがありすぎるとき、人は「これらの全てを一気に終わらせるのは無理だ」という自動思考が生じるかもしれない。

その自動思考が浮かぶと、無力感や投げやりな態度になってしまうだろう。

また倦怠感や頭痛を覚えるかもしれない。

しかし、このような自動思考が現実的であるかを検討し、「必要なことから少しずつやれば、いつかは必ず終わる。いままでもやってきた」と考えを修正することができれば、少しずつやる気が回復するだろう。

概念化すると以下のようになる。

状況 → 自動思考 → 反応(感情、行動、身体)

この自動思考は誰にでも生じるものであるが、通常の熟慮する思考と異なり瞬間的に湧き上がるため、自動思考そのものでなく感情や行動などの反応にしか気づけない事が多い。

認知行動療法では感情がマイナス面に振れたとき、自分にどのような自動思考が生じているかを省みることを目標の一つとする。

(引用以上)

この「通常の熟慮する思考と異なり瞬間的に湧き上がるため、自動思考そのものでなく感情や行動などの反応にしか気づけない事が多い」というのは、どういうことでしょうか?

つまり、考える前に自分がとっさに反応(反射)してしまっていることに気が付けない、ということです。

このようなことは全てではないにしても、日常で多々あると思います。

つい考えもせず、反応(反射)してしまったという場合です。

無意識ですので、その反応(反射)が的外れなことがあっても、すぐには気が付けません。

すぐには気がつけないどころか、長い期間に渡って気が付けないという心の癖になってしまっている場合もあるでしょう。

 

○ 認知の歪みからの危うさ

 

自動思考から、どういうことが生じるでしょうか?

例えば、色盲ではないはずなのに赤いものを観て、なぜか黒いと言ってしまったり、丸いものを観て、なぜか四角いと誤解して言ってしまうかもしれません。

「ニャア」という鳴き声を聞いて、難聴でもないのに「ワン」と聴こえているようなものかも知れません。

「えっ?」と思えるレベルが強いと、「そういう感じ方もあるよね」では済まなくなってきます。

人により捉え方や感じ方に違いがあるのは当然ですし、笑って済ませられる範囲ならまだしも、これでは、どうでしょうか。

同じものを観ていても違うものを観ている、同じ音を聞いていても違う音を聞いているギャップが大き過ぎるわけですね。

あまりに実際とはかけ離れてしまうことを、心理学では「認知の歪み」と呼びます。

認知の歪みが進むほどに、本人の心の中だけで起こっている捉え方やストーリー(妄想)に左右されます。

トンチンカンな捉え方や反応、そこからの言動・表現・行動をしてしまうということに繋がってしまい、生きていくことや人間関係に支障が生じて問題となってきます。

「認知の歪み」まで進んでいる場合は根強かったり慢性的になってしまっていて、自覚したり軌道修正したりすることが一朝一夕にはできない状態です。

 

○ かつては、どこかで便利だった仮面が…

 

例えるなら、明るい空の下にいるのに、暗いと感じてしまう。

暗いと感じさせるサングラスをかけ続けていることに、自分で気が付いていないような状態です。

無自覚のままですと、いつか誰かに「それは違うよ」と指摘されることが来たとしても、本人としては「なんで?、そんなこと言うの!」と自動思考で思ってしまうことになります。

空は明るいのに「暗いでしょ!」と言い張ってしまうようなフィルターは気が付いていないと外せないし、気が付いたとしても慢性的になっているから外すのが怖い…。

もしかしたら、もはや、身体の一部に同化してしまっている感覚で、=自分とまで思い込んでしまっているケースもあります。

そうなると、身体の一部を引き剥がす、「外す」という行為が、まるで自分の存在や人格を否定するかのようにすら感じてしまっても不思議はありません。

せっかく外すための鍵が近寄ってきても、それは解放のためとは捉えられず変化や自由を恐れてしまうあまり、凝り固まろうとしてしまう…。

どれだけ身体の一部、または=自分かのように思えてしまっても、それは、かつて誰かの都合で植え付けられた呪縛で、それが今の自分を酸欠にさせているのかもしれません。

直接的に誰かに言われたことに限らず、ここで自分が良い子ちゃんに振る舞って合わせておけば、この場は治まると思えるようなことが続いて、自分で自分にかけた仮面だったかもしれません。

過去の自分には便利だった、その仮面は、いつしか思い込みや信念に変わり、元々は仮面だったことすら忘れてしまった…。

それが大人になった自分の人間関係では、かえって邪魔になる。息苦しい問題にもなる。

でも、今となっては、どうすればよいか検討がつかない。まるで分からない。

まず、深く観ていくことからが、忘れていた仮面や呪縛に気が付く第一歩です。

一人では到底、進められないという場合は、全てを受け止めて共に進んでくれる並走者を見つけることから、その第一歩です。

仮面を外すと呼吸もしやすくなり、酸欠になるような問題も消えていきます。

 

現実に適応していない、非適応の度合いにもよりますが…例えば、他人から見たら充分に痩せているのに、鏡に写る自分は太って視えると捉えていたとします。

何かしらの要因から、本人には本当にそう視えていたりするケースもあります。

「だから、もっと痩せないといけない」となって、さらにやせ細っていしまい、足元はフラついているし悪化すると生命にすら関わってきてしまう……。

これはすぐに対応することが求められる、急激な拒食症で見受けられるケースの一例ですね。

どんなに家族が「太っていない」・「痩せすぎ」、「お願いだから、ごはんを食べてよ」と言っても、本人には通じずヒステリーに返される。

現実を歪めて捉えてしまうほどに実際の現実と違うため、軋轢が生じやすくなり衝突が増えて…ストレスやマイナス妄想が溜まりやすくなってしまいます。

 

○ 脳内がお花畑は、寂しい

 

それでも軋轢や問題が生じないのでしたら、認知の歪み同士でたまたま繋がっているか、または「そういう人だから」と放置されているからかも…?

上記のようなケースで放置されることは、通常、考えにくいので別の例に触れてみます。

例えば、(死語かもしれませんが)バカップルなどは、脳内がお花畑同士だと成り立っていくわけですね。

もっとも、それは「二人の世界の中だけでは」という現実から離れた限定されて閉ざされた世界でのことですが。

もう「放っておけば、イラッとさせられるだけで大して害もないし、面倒くさいから何も言わないでおこう」と、周囲から捉えられている痛いパターンですね。

認知の歪みが笑って済ませられる範囲ならまだしも、です。

心や人間関係への支障・問題が大きく、健康や生命、存在や関係性の破綻などに繋がってしまうような状況でしたら、安全にクリアにしていくプロセスが必要となります。

私たちは、自動思考の原因である固定観念や偏見、思い込み、捉え方・考え方のクセを何かしら持っています。

信念も、それが現実に適応したものなら合理的ですが、非合理なものに囚われていると苦しくなっていきます。

先ほどの例でしたら、それ以上、痩せなくていいのに、それ以上、痩せたら危ないのに「痩せないといけない」というのは、危険なぐらいの非合理です。

この適応・非適応の区別は一見しただけでは付けにいこともあり、じっくり深く接しながら観ていく総合的なカウンセリング・プロセスから俯瞰していけるものです。

個人により自動思考の要因やフレームは違うため、そこに自ら気が付いてリ・フレーミングしていくプロセスも、個人により違いが出ます。

 

次回の記事では視点を変えて、『知覚の「自動化」を避けるための「異化」(いか)』について記していきたいと思います。

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