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だって 私たちは生身の人間だから

time 2020/12/28

だって 私たちは生身の人間だから

ニセモノではない幸せを得たいと願う方へー

ここではニセモノ、まがい物について知っていくことから触れてみます。

ニセモノも知っておいたほうが、ホンモノとの区別が付きやすくなるのではないかと思うからです。

人はプラスとマイナスがワンセットです。その両方に目を向けていく必要があります。

もし、どちらかだけに目を向け続けて、どちらかから目を逸らし続けたら、そのどちらかが増幅してバランスを取ろうとします。

一見、都合の良いところだけをいいとこ取りなどできないのが潜在意識ですので、あえて目を向けていきます。

同時に、ネガティブばかりでもいられないタイミングが来るようにもなります。

 

では、本文に入ります。

いつも「時間がない。時間がない」とタスクをこなすことに囚われ続けている人は、少なくないと思います。

生きていくためには、暮らしを維持するためには必要なルーティンや仕事に用事。

お勤めの方々だけでなく経営者であっても、いつもいつも社長ばかりが一番、忙しくしているというケースも少なくありません。

(ちなみに社長ばかりが忙しくしているところでは収益性は低くなっていきますが、また別の機会で触れられたらと思います)。

そうなると当然のように、心の空きスペースはどんどんと減っていき、先を見据えていたとしても実際は目先のことにばかり、心が囚われ続けるようになってしまいます。

心の視野が狭くなり、少しの空き時間が出来ても身体を休めることが先で、見直しや改善などをしっかり考えることも出来ない。

たまの休みも、刺激的な遊びで気を紛らわせる遊びばかりがしたくなって、ゆっくり心を見つめ直すための気付きや学び、成長のために時間が使われることは減っていく。しまいになくなっていく。

 

ノイズにまみれ、また喧騒にまみれたステレオタイプの時間に戻っていきます。

そうしたスパイラルにハマり、いつしか本気の心の交流への感覚は麻痺していきます。

表面上の交流は問題なく出来ているように思えたとしても、深さや本気度も満ち足りていない感覚が、どこかで感じられます。

それよりも、いつも追われているような感覚、縛られているような感覚が同居して、まるで何もかもが自分を追い立てるかのように、どこかで感じられてしまいます。

それらの心がフィルターとなり感性を鈍らせていることを、薄々、感じていたとしても「仕方ない」と振り切るかのように、心の奥を感じ尽くすことなど置き去りのまま…。

 

…もし、ずっと、このような状態だとしたら、どうなってしまうでしょうか?

ぬるま湯の中の蛙(ゆでガエル現象)という寓話は、しばしば折に触れて巷でも比喩として使われることがありますが、共通するところがあるのではないでしょうか。

 

ゆでガエル現象とは…↓

「2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。

すると、前者は直ちに飛び跳ねて脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに茹でガエルとなってしまう」という寓話にたとえたもの」です。(ウィキペディアより

つまり、ぬるま湯の中に入れられ続けている蛙は、温度が熱湯になっていっても気が付かずに茹でガエルになってしまうという寓話の比喩です。

「エエ湯だなぁ~」と浸かり続けているうちに、トンデモないことになってしまうわけです。

もちろん、実際のカエルではそんなことはありえないわけですが、この比喩の本質はそこではありません。

もし、現実ではありえないから、または人間はカエルではないからと言って重箱の隅を突くように捉えてしまっては、木を見て森を見ずです。

比喩表現に対して、わざわざ、そんな言いがかりのようなことを思う人は、きっといないだろうと思って記しています。

少なくとも私が初めて、この話を自分に突き付けられたときは、そんなことは思いもせず、ただ内省の必要性を強く感じた、それだけでした。

感覚を鈍らせているままだと、いつか茹でガエルになってしまうという例えとして、ビジネスシーンだけでなく、心理学の場などでも使われる表現です。

正常性バイアスという、自分だけは大丈夫という驕りの心理が及ぼすものですね。

誰だって自分だけは大丈夫と、どこかで思考停止して安直に思いたいものですが、それがかえって逆効果を及ぼしてしまうことがあります。

逆効果の一つとして、トンデモ発言を平然としてしまう斜め上状態というものもあります。

 

以前に『つらい時こそ 空きスペースを』として、こちらの別サイトに書いたことがあります。

どこかで心が麻痺したり混線していくと、ごちゃごちゃになって自分でも、自分の感情が分からなくなってしまいます。

自分の感情がなんだか整理がつかなくなり分からなくなっていくと、起こる物事に対して、つい反射的な反応をしてしまいやすくなります。

それは空きスペースを創っていないからですね。

自分ではそのつもりがなくても、ぶしつけだったり、失礼だったり…。冷たく排他的だったり…。

ふと気が付いても、または指摘されても、余裕がないから仕方ないと自分でも流してしまったり…。

いつか余裕が出来ればとファジーに思うばかりで、たまに時間が出来ても自己成長というより、享楽的なレジャーなどの気晴らしで時間はなくなっていく。

そうして周囲は「ほら、あの人は、そういう人だから。でも、いい人だから」と、なぁなぁにして、本当のことを言ってくれなかったりして、ぬるま湯の中にいさせ続けてくれたとします。

周りが合わせてくれてばかりいると、当人はいつまでも気が付けずに、それが習慣化して根付いてしまいます。

世の中、そういうものでしょと、まるでそれが全てかのように「普通」と思い込んで、その慢心(驕った心)を疑いもしなくなるかもしれません。

 

いつも時間にゆとりがあったり、悠々としてるようにしている人を観ても「あの人は私とは違うから。どこか特別だから」と他人事のようにしか思えない。

実は、その人が、どのような状態からでも時間を創り出す術(すべ)を知っていて、それを「普通」に実行しているだけだとは思いもはせずに。

実は誰にでもできる成長から目を逸らして、まるで特殊なことだと他人事のように見てしまう心理は、どこから来るのでしょうか。

そこには何らかの僻みや安易な諦めなどが横たわっていると思いますが、そうなっていく現象に、いくつか触れてみたいと思います。

 

少し話を戻しますが、そもそも、なぁなぁにするのは優しいようで、実はザンコクとも言えてしまうことです。

もし、なぁなぁにしたり、チヤホヤばかりしたりしていると、人はどうなってしまうでしょうか?

人をもっともダメにする一番、手っ取り早い方法と言われているものです。それは。

典型的な例を出せば、コンプレックスが根強い人間を捕まえて、怪しげな商法や宗教に加担させるときにも使われる定番の方法です。

例えが極端に思えるかも知れませんが、いつまでも横行して消えることなく残り続けています。

自信がなさげで意思の弱そうな人に「あなたは実に素晴らしい」と褒め続けたとします。

最初は怪訝に思っていた本人にしても、次第にその心地良さや、自らのコンプレックスに眼を向けずとも済んでいく、ぬるま湯にハマっていきます。

それまで、そこまで褒められ続けるということがなく免疫もなかったとしたら、しまいに流されるでしょう。

「あなたの素晴らしさを分からなかった周囲が良くないのよ! 私たちは、あなたの素晴らしさが分かっています」と言われたりして、その気になっていきます。

ここの言葉だけを部分的に切り取れば、とても良い声がけに思えますし信じたくもなりますね。

 

ところがコンプレックスから目を背けるほどに、人はダメになっていきます。

この違いです。素晴らしさもあるけど、コンプレックスもあるのが人間です。

プラスもマイナスもワンセットです。その両方に目を向けていく必要があります。

一見、都合の良いところだけをいいとこ取りなどできないのが、心の…潜在意識です。

ここが辛くても逃げてはいけないところです。…泣こうとも喚こうとも。逆ギレしようとも。

ところが、ゆでガエル現象で都合よく、カゴの鳥のように自我の成長を抑えられて閉じ込められていくことを、自ら望み、それが心地よいと感じるようになっていきます。

そして、カゴの外はどこか怖いもの、どこか信じられないものとして、カゴにしがみつく心理になってしまいます。

心のカゴの外に出るのが怖くなってしまい、変化を極端に恐れます。

 

変化は誰しも多かれ少なかれ怖さが伴いますが、そこへの拒絶反応が過剰になるケースもあります。

時には反射的に逆ギレが多く出たり、投げやりに切り捨てるように言い放って思考停止モードに急降下するなどの反応も出やすくなります。

広い世界に羽ばたくこと、解放される自由が怖いものとして本人に映っている状態です。

カゴの中でカラーリングされたフィルターに包まれてばかりでしか感じられない、本人はそのままを感じ取るのが難しくなっています。

色眼鏡でしか見れなくなってしまい、そもそもそ否定されていたわけではないのに否定されて責められていると、歪めて感じてしまったりします。

「私がすべて悪いんでしょ?、私だけが原因なんでしょ」と、相手はそこまで偏ったことは言っていないのに、ヒステリーチックに拡大して投げやりに言い放つケースもありますね。

それは「正直」な気持ちかも知れませんが、思いやりや配慮も伴った「素直」な気持ちではありません。

痴話喧嘩でもよくありそうな見ったくない話ですが、相手はすべて本人が原因などと言っておらず、そのキッカケとなったことから脱しようという話です。

そのようなときは相手が心を砕いて言い続けていたとしても、平気で後ろ足で砂をかけるようなことが出来てしまいます。

そこを歪めて感じて頑なになるので、しまいに「そういうことを言っているんじゃない!」とケンカな状態を引き寄せてしまっても不思議はありません。

小さなエゴにしがみつく余りに重い雲が排気ガスのようにかかり、快晴の空を感じられなくしていきます。

たしかに本人の根っこのところでは素晴らしいものがあり、それはカゴの中にいることではありません。

せっかくの本当の本人の素晴らしさは気がつくこともなく、解放もされません。

発揮されないまま似て非なるもの、または別物の姿を持って、誤摩化しとともに表されるニセの姿が続くようになります。

心の囚われと解放を拒む姿勢から、当人の本当の良さが発揮されなくなるということが、なぜ生じるのでしょうか。

複数の理由が考えられますが、その一つとして、心のカゴに入れたがる人々にとって、本人を都合の良い子ちゃんでいさせるための見えない圧力からということもあります。

 

人はロボットではありません。生身の人間です。

安易に流されやすく、一見してラクなほうに染まりやすい存在です。

自分ではそうは思っていない人ほど、その穴にハマりやすかったりします。

なぜなら、正常性バイアスで自分だけは大丈夫と思っているからです。

そうして、実際はラクにはならず、いつまでも慢性化していきます。

むやみに辛さや苦労を背負えばいいと言っているのではありません。

楽しめたほうが上手くいくことのほうが、沢山あります。

それは安直なほうにばかり心を奪われているのとは、似て非なるものです。

似て非なるものとは単なる類似品というだけでなく、心のことにおいては全く別の現実を創り出してしまいます。

 

まるで、どこかロボットのような時間の使い方ばかりをしていると、知らず識らず、そのようになってしまったり、反射的な態度、短絡的な捉え方や発想しか出来なくなっていきます。

ロボットはロボットで居続けるのが一番ラクですが、私たちは生身の人間である以上、それでは閉塞感がいつも付いて回ってしまいます。

本当の心からの充足感や深い安らぎにはならないばかりか、ぬるま湯の中の蛙になってしまいます。

そのために外の拾い世界に少し触れさせられたり、なぁなぁではなく、本気でぶつかってこられても、短絡的にムカついた反応やヤケっぱちな態度をしがちだと永久に得られません。

なぜなら、変化は怖いし、閉じ込められている自分を否定されていると感じて殻に閉じこもってしまえば、その強い逃げは、それに伴った状態を生み出すからです。

怪しげな新興宗教にハメられた人が、そこから脱出させようとされると出て来る反射の姿を思い出します。

カルトに洗脳させられている人は、外の世界を悪魔の世界のように感じるようで、そこを抜けようよと言ってくれる相手に対して、怒り出したり罵倒したり…。

しまいに本人が半狂乱のようになっていく悲劇を、メディアなどで知っている人は多いと思います。

そこまで行ってしまうと、明らかに洗脳されていると分かりやすいものです。

現実には、そこまでの悲惨なケースではなくても、それでも、心の牢獄で麻痺していたりする場合のほうが多いと思います。

 

しかし、そのような心の牢獄から脱出する方法など、すぐそこにあるのです。

前述で触れた「ゆでガエル現象」は、誰でも避けられることなのです。

脱出と言っても、今の環境から脱出するなど大変な話でもなく、今いるところから、すぐにでも出来ることです。

長くなってきましたので、また別の記事で触れていきたいと思います。

こちらのページをご覧いただけましたら幸甚です^^


 

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 ~ 親愛なる娘へ


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 涙が出て止まらなかった、あの時。。。



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