逆もまた真なり、だったり

心には安心感があり穏やかで、そりゃ完璧なんてないけれど満たされていて、充実もしている。

力も発揮しやすくてパフォーマンスもいい。

大人として成長することが楽しくて、がんばるほどに上手く回りだすし、がんばらなくても、自然と調和して上手くいく。

肩に力を入れなくても、前に進んでいく…。大変なことがあっても、毅然と乗り越えていける。

叶えたい願望に着実に近づいていっている実感もあって、嬉しい。

 

建設的で生産的。このような人間関係を保ち続けるには、どうしたら良いのでしょうか?

常に保ち続けるなんて無理と他人事のように思ってしまうでしょうか。

それとも、そのような生き方も出来ると信じて進もうとするでしょうか?

 

まず、このような状態をキープし続ける1番の近道は「執着を手放す」ことではないかと思えます。

「えっ?願望を叶えたいのに執着を手放すの?!」と思うでしょうか。

それとも「あぁ、そうだよね」と思うでしょうか。

 

逆もまた真なりと言いましょうか、執着を手放すから、本当に欲しかった物事が入ってくるということを、あなたも聞かれたことがあるかもしれません。

そうした実感を持てたときもあったかもしれません。

それを、たまたまではなく意識的に起こせるようになったら楽になりやすいと思いませんか?

 

執着心を手放すとは捨てるような気持ちになって、難しく感じてしまうかもしれません。

ですが、「足るを知る」ということを踏まえようとしないと、いつまでも執着心に苦しみ、執着心を手放せれば心が軽くなっていきます。

老師が伝えたという「足るを知る」というのは、行き過ぎた欲望(利己的な妄想)に呑まれないようにするための言葉かと私は認識しております。

「足るを知る」には、日々のことに感謝するという意味を始めとして、すでに全てを与えられているということを感じるための心を大切にしなさいという意味もあり、これは忘れてはならないと思います。

さらに「足るを知る」には続きがあり、「足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り」とあります。

これは、自分を知り感謝して満足できる者が心豊かな人間であるだけでなく、努力を続けられる人間は、それだけで目的を果たしている、というような意味だそうです。

 

そもそも、足るを知らず利己的な妄想に囚われているうちは手に入らず、入ったとしても、砂の上のお城のようなもので儚いものではないでしょうか。

「執着」とは利己的なものです。「情熱」とも思いやすいですが「しつこいと熱心は紙一重」とも言われます。

しつこく感じられるのは、その気持ちが「執着」だからですよね。

そこには配慮に欠けたり、自分勝手なワガママさが滲み出て、元々イライラしていなかった相手にすら、うっとうしく感じられてしまいます。

自分を相手に合わせているつもりでも、そこには何か誤魔化しているような形だけ雰囲気が相手に伝わります。

自分の気持ちを伝えても、残念ながら身勝手に感じられてしまいます。

素直というより、ただ、自分の欲望に正直なだけに感じられてしまいます。

どちらかと言うと、他人から見ると美しくは視えないので魅力も感じられなくなっていきます。

どれだけの言葉を口にしようと、相手の心に肯定的には響きません。

頑張っても、頑張っても上手く行かないどころか不穏になっていく悪循環で、しんどくなり疲れ果てていきます。

非建設的・非生産的です。何より、楽しくありません。どんよりしてしまい、どこかに陰がありそうです。

 

「熱心」は、ただひたすらに相手のことを思い、そのために自分も大切にして接し続けるというものだと思います。

ですので、配慮も伴って、だからといって、自分を相手に合わせてばかりでもなく、自分の伝えるべきところは伝えられるなど、自己一致しています。

この場合は醸し出す雰囲気に惹き付けるものが言葉を超えて出てきて、しまいには理屈を超えて伝わります。

器用・不器用に限らず、頑張りすぎなくても上手くいくので楽しくなってきて、それがまた好循環を生み出します。

建設的で生産的です。何より、楽しいです。ワクワクして爽やかな心地よさがあります。

 

何をやっても上手くいく人というのは、執着と熱心の違いぐらいは当然のように分かっている、基本すぎるぐらいのことではないかと私は推察します。

そのような得のない「執着」を手放すには、愛情を持って人間関係を見つめ考え続けることが欠かせなくて、愛を持っていけば、いずれ執着は手放せるでしょう。

執着を手放すとは対象への情熱を失くす、ということではないのは、この稚拙な文章で伝わるでしょうか?

愛の状態は得です。そこに人徳も出てくるでしょう。

 

そうして執着を手放したときに、フッと入ってくるものがありますよね。

何かを得るには、それが入るだけの空きスペースが必要です。

空きスペースとは心の空きスペースですが、それがないと入ってこない物事もあって、そのようなものこそ、えてして一番欲しいものだったりするなぁと、私は思う時があります。

執着心に囚われるほどに空きスペースはなくなっていき、ガラクタのようなもので埋まっていきます。

ガラクタで埋まっているうちは、新しいものを入れるのは難しかったりします。

そもそも欲しいと思っていても、ジャンクではないその価値が本当の意味で感じ取れていないうちは与えられません。

執着心から離れるほどに空きスペースは出来てきて、その価値が感じ取りやすくなっていきます。

そうすると、本当に欲しかった物事で満たされていくという不思議な実感もあります。

 

では執着心を手放すための第一歩は?となると、2日ほど前に書いたこちらの過去記事で触れました。

この誰にも見せない自分だけのノートに書き出すことは、いわばセルフ傾聴、自分が自分にし続ける傾聴です。

24時間365日、自分と一緒にいるのは他の誰でもない自分自身ですよね。

その自分自身を自分だけは、全面的に肯定的に受け入れていくようにするためのステップでもあります。

自分の泥々した感情もすべて吐き出すほどに、心が軽くなっていく働きが心には備わっています。

この際のステップは、こちらの『傾聴の3つの目的』が参考になりましたら幸いです。

 

このステップをじっくり歩み続けた上で自分で自分を嘘偽りなく愛せるようになった時に、心に余裕が生まれやすくなったり、空きスペースができてきます。

これはご都合主義の自惚れなどではなくて、自らの陰陽を含めて愛してあげられる自己肯定感によるものです。

よく言われるように、自分を愛せていない人は他者を愛せません。

愛するとは盲目的(盲信)ではなく、陰陽を見つめた上でひっくるめて愛するということです。

または視えていなかった陰が視えたとしても、受け止めて愛し続けるという姿勢から始まるのではないでしょうか。

その際、自分で自分を否定するフィルターがかかっていると、物事が歪んで見えがちになってしまいます。

それでは相手の心が真っ直ぐ見れなくなって、その捉え方(認知)は歪んでいってしまいます。

都合よく解釈してしまったり、実際とのズレが大きくなるほどに、誠意も誤魔化しも区別がつかなくなってしまいます。

誤魔化しを誠意と思ってしまったり、誠意を誤魔化しと思い込んでしまったら、甚だ哀しいことですよね。

本当のことを大事にしたい、かけがえのないものを大事にしたいなら、まず、本当の意味で自分を大切にするプロセスが大事です。

自分に寄り添えるから、他者にも寄り添えます。

寄り添いとは形や言葉だけでするものではなく、その何十倍以上も心でするものです。

形や言葉・手順・テクニックだけで寄り添えるのなら、魂のないAIにもいずれ科学の進歩とともに出来てしまいそうですが、魂のある人間でないと出来ないことがあります。

それが「心からの寄り添い・伴走」です。

 

追記ー

ここまでご通読いただきまして、誠にありがとうございます。

今回の記事、上手くまとめられなかった感じが自分でありますので、きっと分かりにくいかと予想しますm(_ _)m

もっとブラッシュアップしていけるように、また熟考を重ねていきます。

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