「死にたいと言う人は死なない」と決めつけるように思っている人が、ややもすれば多いのではないでしょうか?
そういうこともあるでしょうが、それは「絶対」ではなく、本当に死んでしまう場合もあるということを、よくよく踏まえたいと思います。
重たい話題で恐縮ですが、メンタルヘルスにおいて重要なこととして観ていただければと思います。
この記事ではイメージしやすいところから重視して書いていますので、客観的な事実からの記事を観たい方は、リンク先の外部記事などをご覧ください。
(『座間市9遺体事件:もしSNSで「死にたい」を見つけたら…精神科医が語る、みんなにできること』や、『自殺について誤解されている5つのこと』の記事など)
二度と戻せない……
(刺さってしまうであろうイメージ例ですので、閲覧注意です)。
まず、登場人物それぞれの関係性を記しますが、ここで頭に入れなくても、次のストーリーを読み進めるだけでも観えてくると思います。
ここでは、Aさん・Bさん・Cさんの3人が登場します。
- Aさん: 当事者
- Bさん: Aさんから相談を受けた友人
- Cさん: Bさんから相談を受けた第三者
- AさんとBさん: 学生時代からの長い友人
- BさんとCさん: 社会人になってから仕事上で知り合った友人
- AさんとCさん: Bさんを通じて、一度だけ軽くランチをした間柄
Aさん: 当事者
「死にたい……」
「ごめんね… こんな話で……」
学生時代からの長年の友人に、そう相談されたBさんは、びっくりしてAさんの話を真剣に聴いてみたり、戸惑いながらも励ましやアドバイスをしてみたりします。
なんとか電話は終わったものの、Bさんは、どうしたら良いのだろうか……と真剣に悩み始めました。
そこで普段から仕事を通じて交流のある、取引先でもあり友人のCさんにLINEで相談してみました。
Cさん: Bさんから相談を受けた第三者
「死にたいと言う人は、死なない」
「本当に死ぬなら、その前に死んでいる」
「私の知っている人でも、そういう人いたよ」
「死ぬ死ぬサギかもよ?」
「私だって、死にたいって思うことあるけど死なないし」
「どうしてもだったら病院か、カウンセリングに行きなよって言いなよ(笑)」
BさんはCさんから、このようにあっけらかんと”強く”言われて、なぜか、次の合コンのお誘いまで受けました。
- Cさんは、Aさんのことは軽くランチをしただけで、よく知らないほとんど赤の他人です。
- BさんとCさんは、友人とは言っても利害関係もある間柄です。
- 今のBさんはCさんと仲良くしていたほうが、何かと都合が良かったりします。
ですが、Bさんとしては今回のCさんの意見に、 何かしら実際のAさんの有り様とは違うような違和感を感じていました。
なんだか自分の長年の友人に対して軽々しく扱われたようで、モヤモヤと苛立ちも感じていました。
それでも…… モンモンと揺らぐのは心地よくもありませんし、心配しすぎるのもかえって良くないとも思います。
Cさんの言っていることも世間でよく言われることだし、ズバッと言われると的を射ているような気すらしてきます。
モンモンとばかりしていても、明日も朝早くて仕事にも差し支えるかも知れませんし、恋人が浮気しているんじゃないかなという不安や悩みから、LINEも気になります。
BさんとしてもAさんのために揺らぐことに対して、メリットすら感じられない気持ちで、内心でストレス、目先のメリット・デメリットを計算してしまいました。
Bさん: Aさんから相談を受けた友人
「Cさんの言う通りだよね。うん、そう!」
「死にたいと言っている人は、死なないよね」
「わざわざ言うのは、本当は構ってほしいだけ」
「うんうん、甘えてるだけだし安心してていいよね。大丈夫!」
「Aもさぁ、困ったちゃんだなぁ……(作った苦笑)」
「なんか、ごめんねー!」
「うん、合コンも行くよ(*^^*)」
Bさんは自分に言い聞かせるかのように、Cさんに向けて振る舞いました。
その後、AさんはBさんから沢山の明るいポジティブ言葉の励ましを受けたものの、次第に、仕事以外は誰とも連絡を取らなくなっていきました。
仕事をしているので大丈夫と思って、 周囲は何の心配もしていなかったそうです。
そうして段々と…… Aさんのココロの叫びは、 周囲から忘れ去られて風化していきました。
Aさんの涙も次第に乾いて 、こぼれ落ちて風に飛ばされる砂のように、なにも感じ取れないものに変わっていきます。
…… ”なにも感じ取れずに” 、”なにも発さずに”と変わり、砂漠になっていきます。
Aさんも、よく分からないまま 、「えへへ…」という独り言がでます。
愛嬌は匂わすけれど、どこか自虐的な乾いた目で 、宙をあおぐような「えへへ…」
目の下には、いつもクマさんがいて、 髪もボサってやせ細っていく様は、余計に人を遠ざけます。
何人もの友人に電話しているうちに、段々と着信拒否も増えてきたりLINEも既読にならなかったり、もう気力も失せていきました。
いつしか無断欠勤が続いた挙げ句、仕事も辞めてしまい、頼る先もなかったAさんは多重債務にもなっていきました。
そうしてBさんと話ししてから、およそ1年3ヶ月後、Aさんは自殺をしてしまいました。
遺書には、よれよれの字で 「死にます。ごめんなさい」としか書かれずに……。
周囲から視たら突然の自殺のようにも、緩やかに向かっていった自殺のようにも推測はされます。
その内訳が、緩やかだったのか、 必死に、もがき続けていたのかは、 もはや誰にも分かりません。
ただ、哀しすぎる二度と取り返しのつかない喪失の事実と、ゴミ屋敷のようになった部屋だけが、誰も理解できなかったまま…… 残りました。
そのことを知って哀しみの極地にあるBさんから、伝え聞いたCさん。
Cさん:
「一年以上も経っているのだから、Bさんとは関係ないよ」
「連絡も来なくなっていたんでしょ?」
(裏の声: Aって奴は迷惑だなぁ)
「そのAさんが何かの思い込みが強い割に 、ココロが弱かっただけたよ」
(裏の声: 自然淘汰されたんだよ)
「今は、何だって自己責任の時代だよ」
「私だって、死にたいと思うことぐらいあるけど死なないよ」
Aさんも浮かばれないばかりか、残されたBさんのグリーフも悪化するばかりの発言です。
(ご参考:グリーフとは )
この時に初めて、Bさんは自分が重大な間違いを犯してしまっていたことを、痛すぎる悔恨とともに実感しました……。
※ 上記は分かりやすいように、あえて極端にしています。
※ あくまでフィクションであり、実際の人物・団体などとは関係ありません。
※ 特定の固有モデルが居るわけではなく、複数のイメージをリミックスしています。
” 死 ” を感じたからこその ” 生 “
このようなことについては、リアルを通じて昔から感じることがありつつも、なかなか上手く言葉にならず、私の中ではモヤモヤとし続けたままでした。
最近になって、『死にたいと言う人は死なないとは限らない』や、『自殺について誤解されている5つのこと』の記事に書かれている内容を観ていくうちに、私の中でも多少は整理されてきたように思えます。
それでもまだ表しきれていない、消化不良のものは感じています。
私も(本気で)「自殺したい」という人たちからの話は、直接、真剣に何度もお聴きしてきました。
それは、ほんわか倶楽部としての場面であったり、過去のプライベートな場面であったりですが、冒頭のイメージ例で出したような、Cさんはもちろん、Bさん思考にもなったことはありません。
リアルで聴いている中で、当事者(Aさん)の周囲にCさんのようなタイプがいる話も出てきますが、その度に、粗野な切り捨て、乱暴な無理解の姿に言い知れないものを感じてしまいます。
おかげ様で私自身、今は穏やかに過ごしていますが、過去には激しい希死念慮に囚われ続けた時期があり、走馬灯も観たことを、よく覚えています。
その時期は、本当に「死ぬことが希望」に感じていた状態でありつつも、死ぬことは怖くて私には「自殺」は出来ませんでした。
自分で自殺はできないが、”死”を”希”望としてリアルに囚われ続ける状態は「希死念慮」と呼ばれ、「自殺願望」とは近いようで少し違います。
その時期の私は緩慢な餓死に向かっていく希望に、強い欲求と次第に朦朧(もうろう)としていく思考で囚われていました。
今は全くそのような心境になりませんが、今思えば、とてもコワイ状態だったな、と思います。
どんなに辛くても身体がフラフラしようとも、食事も睡眠も取れない状態に強烈すぎるほどにハマって、その後の走馬灯の中でのある一点がなければ戻ってこなかったでしょう。
二度目に強烈に再発した時は走馬灯を観るほどではありませんでしたが、いつも寄り添っていてくれる、私だけが頼りの愛猫がいなければ危なかったでしょう。
このようなことは体験した人間でないとリアルの感覚は分かり得ないことですが、” 死 ” に目を背けずに考え続けるのは、積極的に ” 生 ” を考え続けることでもあります。
真摯なマインドで “ケア”
“ケア”、このことは、とても重要過ぎるぐらい重要で、奥が深すぎるぐらい深いと私は思います。
大したことは出来ない私でも 「人を生かそうとするから、自分も生かされる」 とも思いますが、なにも格言めいた正論を言いたいわけではありません。
対比して観てみますが、もし、自然淘汰を人間社会にも当てはめてしまうのなら、それは、差別的なバイオレンスになってしまいます。
最悪の究極は、昔のマンガで『北斗の拳』のヒャッハー軍団みたいな、弱肉強食バイオレンスのイメージでしょうか。
笑いながら残忍に「力なきものは去れ」と武器を振り回して、多くの人々をゲームのように……。
(フィクションではなく、リアル歴史を元にして他の例えようも浮かびかけましたが、ここでは止めておきます)。
ヒャッハー・ブーメラン
いくらヒャッハーと「勝ち組」の「強者」のつもりで、酒をあおりながらバイオレンスに踊っていようとも、いつか必ず、体力も思考力も衰えます。
併せて、時代や社会も移り変わり続けていきますし、「弱者」と思っていた集団から「強者」が出てくることもあります。
その時にバイオレンスな社会を作ってしまっていたがために、自らが「弱者」とされた時に、 今度は自分の番となってしまいかねません。
そうして鋭利な巨大ブーメランに勢いよく遭遇する姿は 「人を生かそうとしないから、自分も生かされない」 ということではないだろうか、と、実に哀しいものです。
私たちは敬意を持ち合い、生かし合っていける社会で暮らすことを願っていると信じます。
ポジティブ・ハラスメント
現代の日本では、マンガのようなバイオレンスなことは滅多に起こりえないだろうとしても、言葉の暴力などは、それと気が付かずに日常茶飯事です。
「弱った自分はダメ絶対!」・「ネガティブは捨てよう(笑)」・「もっと、ポジティブに!」・「明けない夜はない」・「生きてるだけで丸儲け!」・「毎日、ツイてると言おう!」…etc
これらの言葉は使い古されていようとも、一見、とても素晴らしい言葉の数々に視えます。
これは、月並みな言葉での励まし程度でも、ココロを込めれば効く(受け入れられる)、軽度の状態の相手には、まぁまぁ有効かもしれません。
ですが、強くネガティブ状態にある相手には、にこやかに頭ごなしに否定される、ポジティブ・ハラスメントとなってしまうのです。
状態を見極めずにポジティブ言葉を相手に振りかざすことで、高確率で言葉のナイフとして刺さり続けてしまう、浴びせるほどに悪化させてしまうことは、まだまだ認知されているのは少ないようです。
これは骨折しているのに、筋トレやマラソンをして強くなろうよ、と言っているようなものであったり、灼熱の砂漠にいるのに水分を摂らせないような、とんでもない暴力です。
表層的な身体の状態ならまだ視えやすいかもしれませんが、ココロの状態は短絡的・即物的な思考ではまっすぐに観えなくなってしまいます。
孔子の言葉より
今回、Bさんのイメージを書きながら、以下を思い出しました。
孔子の言葉に「君子は和して同ぜず 小人は同じて和せず 」というものがあります。(論語/孔子)
意味は、「すぐれた人物は協調はするが主体性を失わず、むやみに同調したりしない。 つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはないということ」 というものです。
Bさんは、Cさんと話ししていた時に出てきた違和感をスルーすべきではありませんでした。
「自殺」という言葉を軽視したり誤解したまま、周囲の「予定調和」に流されるように「迎合」していないか、本当に気を付けたいものです。
「調和」と「迎合」は、私は違うと思っています。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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