自分で自分を受け入れられないと…

(今回の記事では、遠くまで続く並木通りの傍らに美味しそうなブドウがなっている、心地よい写真を採用してみました)。

 

表面上の付き合いに留めていれば、それはラクで楽しいことだけに終止していきやすいかもしれません。

ですが、表面上の付き合い以上に深い付き合いこそがほんものとは、よく言われますね。

いざというとき、何を差し置いても全身全霊を持って助けてくれる度合いが強いのも、表面上に留まらない関係性があってこそです。

表面上を超えた価値というのを、どのように観て、捉えて、創っていくかが、もっとも大事な関係性で、気づきや発見、学びなどの醍醐味があるのではないでしょうか。

そこにはラクちん、楽しいだけでは済まない物事も発生するでしょうが、それを巡り合った価値と捉えるか、短絡的に負担と捉えるかは、その人次第です。

それだけの学びの価値がり、本当は自らの潜在意識が惹き寄せてやってきたこととも言えます。

 

例えば、とても深く身近な間柄になった相手に対しても、自分を取り繕ってみせようとする人、失敗や欠点を過度に隠そうとするような姿を取り続けたとします。

相手は元々、そういったところも受け入れているのに、自分としては見せたくない。

信じることが怖い。もしかしたら、隠していればカゴの中にいれて安全かのように思い込んでいるかのようにすら、相手には感じられてくる。

自分一人で何でも出来る、「自立に向けていこうとしている」と意地になることは、頑張っていて、一見、素晴らしいことのように視えます。

しかし、自立心は大切ですが、どんな人でも一人で行きているのではなく誰かと支え合って生きられています。

その支え合い方は直接的・間接的など人様々だとしても、一人で無人島で生きていける人は、そうそう居ないでしょう。

基本的に他人のお世話を受けることは日本人は遠慮するという美学があり、それは大切だと私も思います。

ですが、あまりに意固地にまでなる人は、他人の好意を受け入れていない人です。

人にしてもらうことを避けようとプライドに囚われて、それで相手が何かをしてあげたいと思っている気持ちに鈍感になり、受け止められなくなったとします。

そうなると相手が自分に対して、快く役に立てることがあるなら喜んで役に立ちたいという気持ちを組めなくなっていっても不思議はありません。

何でも受け入れていればいいという意味ではありません。

ですが、その気持ちには配慮して組んであげるだけでも違います。

相手は約二立つこと以上に、その物事や時間を通じてのコミュニケーション、そこから、よりお互いに接していけることを望んでいるのかもしれません。

そこで自分の意志だけを語るのは配慮や思いやりのない自分本位だと気づかないまま、意固地になった分だけ時間がかかりコミュニケーションも薄まってしまうでしょう。

しまいに相手が「心配しすぎ」などと、相手本人が気にしている遠慮の心を突いて突き放すようなことを言ってしまう。

こうなってしまうと支え合いの関係性から遠ざかっていき、本人も本当の自分が受け入れられている感覚がしなくなってきます。

なぜなら、自分から拒んでいるからです。

自己開示を誤魔化しているとともに、言葉ではどう言っていようと態度で相手を拒絶している排他的な雰囲気が、どこか漂ってしまうからです。

そこには寂しい風が吹いてしまいます。

 

受け入れず見せようとしないのは自分なのに、相手に対して「何やかんや言っても受け入れていないし」となじる様まで出て来るようなケースもあります。

自分が自分を受け入れていない不快感を相手に置き換えてしまう「転嫁」と言います。

それが相手の想いを、どれだけ傷つけて、くじくことか当人は思いもせず、無自覚に口にするケースです。

他人に素直に甘えられない人は、実は強く自分に甘えている自己本位な人です。

自分に甘えてばかりいるから、他人の気持ちに無配慮になっていき、そのことに気が付けないのです。

仮にそこを相手が心を砕いて言葉で触ってくれたとしても、「否定されている」とワガママにしか捉えられないのは、自分本意だから相手の本意が読めないのです。

大切な人だと思うから相手は悩んだ末、言いづらいことまで言っているのに、その本気さが組めずに、子どもの自分に執着して意固地になる。

そうして堂々巡りのせめぎ合い、ケンカになってしまうことだってあるでしょう。

だからといって、相手の一番は謝ってほしくて言っているのではなく、伴に手を取り合って進んでいきたいから言っているのに、謝って反省の弁を述べて、そこで止まり行動には反映されない。

行動に反映されない反省、「反省だけなら猿でも出来る」という言葉がどこかにありましたが、人間ですので猿にはなりたくないですね。

 

「否定されている」とワガママにしか捉えられないのは、自分本位が受け止めてもらえなかったことからの意固地による反射ではないでしょうか。

一部の話をしていたはずが終いには「人格否定されている」とまで捉えられては、まさしく拡大解釈であり、そうなってくるともう、グダグダです。

感情とは、固定観念の単なる反射から発しられやすいものです。固定観念には思い込みが多く含まれます。

その思い込みは、かつては生きていくために便利で必要だったから身に付けたものでしょう。

しかし今は心地よく進むことの障壁になってきたのなら、切り替える時期になったということです。

時期が来たら、そのときには手放していかないとならない、無用の長物の場合も少なくありません。

それは過去の遺物(過去の自分のマイナス遺産)と言ってもいいでしょう。

思春期の頃の身体がそうであったように、成長期には「成長痛」という痛みがどうしても伴うことがあります。

それでも、そこを過ぎてしまえば、大きく成長できているわけです。

 

それなのに過去の遺物(過去の自分のマイナス遺産)にしがみついたまま、本気で心の会話が出来ない人とは、いずれ、どうなってしまうでしょうか。

相手は将来に渡って大切なものを創り出すことなど、いずれ不可能になってしまい、寂しさとともに希望は失望に変わってしまうのではないでしょうか。

強い気持ちや願いで可能性があった希望でも小さな失望も積み重なれば、やがて大きな失望や止めどもない哀しみとなってしまい心を蝕んでいきます。

強く真剣に願っていたことならば、願っていたほどに…。

そこを何度も乗り越えようとしても空回りが続くほど、その根は深くなってしまい、いつかバーンアウト…真っ白になってしまうのも人間です。

ここまで来ると哀しみすら通り過ぎた、いわば虚無感ですね。

 

人生は有限です。本気で真剣に生きるなら意固地にばかりなっている暇などなくて、素直さを持って成長していくことが大事です。

そうなると過ごせたはずの様々な楽しい時間も、頑なさや意固地さはその貴重なすべてを台無しにしていきます。

ときに意固地になってヨシヨシを願ったとしても、そればかりでは大人の関係は続くはずがありません。

大切なのは、素直な心で受け止め合って、オープンマインドで相互理解・相互尊重に向けて歩いていくことです。

もし、辛さやせつなさ、孤独感・虚無感などを痛切に感じてきたのでしたら、それを糧に成長に活かしてこそ価値があるのではないでしょうか。

マイナスを知っているからこそのプラスと言えますね。

 

「習慣とは毎日の生活を築く見えない建築家」と、グレッチェン・ルービンは言います。

この方は『人生を変える習慣のつくり方』の著者ですが、どのような心の習慣を創っていくかが本当に大事だと私も実感しています。

 

Amazonのデータベースより抜粋引用。

グレッチェン・ルービン

『ニューヨークタイムズ、ワシントンポストなど各誌で続々ベストセラー!

世界18か国で話題沸騰のミリオンセラー著者。

「意志の力」ではなく、「自分の傾向」を診断し、正しい方法を知ることで誰でも思い通りの毎日を手に入れられます。実践的メソッドで「いますぐ」習慣は変わる』

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グレッチェン・ルービンに関しての引用は、この記事ではここまでです。

「人は習慣の奴隷」とはよく言われることではないかと私には思えますが、人は習慣には逆らえないということです。

逆らえないと同時に、自分の習慣は自分が変えていけるものです。

3ヶ月も真面目に続ければ、新しい習慣化になっていきますが、そのための使いやすい手順や方法も様々あります。

 

次に加藤諦三氏の以下の動画の中から引用します。

『気が軽くなる生き方ー重苦しくふさぎ込むな』という書籍に書かれているようです。

(加藤氏は、わかりやすい著書を数々、出されており、今は早稲田大学の名誉教授をされておられますね)。

 

(引用文、以下から)

『あのブドウは、おいしいから取りたい。しかし、取れないからすっぱい。

本当の自分の感情に気づくと危険だから、自分の意識から追放する。

(中略)人とコミュニケーションができなくなる』

(引用、ここまで)

 

せっかく、美味しそうなブドウを取りたいと思っているのに、簡単に取れないから「酸っぱいから取らない」と食べてもいないのに言ってしまうわけです。

では、ブドウを取るために、どうやって登ればいいかがなくて誤魔化してしまう。

ここでは、そのような姿を例えとして、自分のほんとうの感情に気づくことから逃げる愚かさを示唆しているわけですね。

ここで言う「コミュニケーション」とは、表面上の浅いものではなくて、心をしっかり通わせたほんとうの意味でのコミュニケーションだと、私は感じています。

心をしっかり通わせたほんとうの意味でのコミュニケーションが出来る相手と巡り会えることは、奇跡的な貴重なことかもしれません。

それだけに意味があり課題が出てきたとしても、それだけの価値がある繋がりではないのでしょうか?

その繋がりの価値を活かせるかどうかは、どんなときでも自分次第で他人任せにしていては、そのバランスを失って失速していきます。

活かすためには、日常の中、そう大きいことをするわけではなくても習慣を変えていくことから始めれば、多くのケースでは進められていったりします。

小さな一歩から始めて行けることであり、大切なのは素直さや謙虚さ、実直さを持って継続することです。

実は道はいつだって開けており、そこに心をまっすぐに向けられるかどうかです。

行動は動機を強化します。

 

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