どことなく冷たいのと 暖かいのと

どこか短絡的で排他的に感じられる人と、暖かくて思慮深く感じられやすい人との違いは、どこから生まれるのでしょうか。どこかに理由があるはずです。

言葉も大事ですが、言葉でどうこうではなく、言葉がどうであれ、それ以上に醸し出すものとしてです。

例えば、前者は自己否定感が根強くあったり、後者は自己肯定感が根強くあったりなどの違いもあるように思えます。

どこかで自分を受け止められていない人は感情の反射で短絡的にもなりやすく、また、その自覚が薄い・ない場合も見受けられるようです。

もしくは、過去の何らかの成功体験から心が抜け出せていないケースもあるかもしれません。

そこからの視野狭窄が他者に感じさせるのは、どこか排他的であったり身勝手さなど…すぐに言語化は出来なかったとしても、人はモヤモヤとした不快感で、その非合理を感じ取ります。

自分の尊厳、価値が本当の意味でどこにあるかを感じ取れていない人は、同じく本当の意味では他者の尊厳が分かりようもないでしょう。

自分を愛せていないのに、誰かを愛することなど出来ないみたいなものです。

これは実にご大層なテーマで、私自身、どこまで分かっているかと問われれば、とてもとても声高に言えるものでもありません。

自分を生きられているかどうか、自分軸や自分自身の土台がどのように創られていっているかということでもあると思います。

自分を生きるとは、恒久的に誰もが心の奥底では求め続けているものなのではないでしょうか。

もし求めていないと言う人がいたとしても、それは何かがメンタルブロックをかけていて、それが統合されていけば、全く別の想い、いえ埋もれていた想いが怒涛のように溢れ出すかもしれません。

暖かく安心させやすい人とは、単なる良い人というより、辛酸を舐め続けてきて、その上で思慮深く観ていこうとする姿勢が身に付き、だからこそ、接した相手を安心させられるのではないでしょうか。

 

自分を生きるということ、そのために成長するということについて、まず自分から求めて学ぼうとするかどうかで、自ずと違いが出てくると感じます。

自分から求めて学ぶとは、自分から取りに行こうとする姿勢とアクションが伴います。

自分から求めて学ぼうとするには、当然、何かしらの欲求が内から発していないと、その気持にはなり得ません。

もし、どこかで「どうせ、学んでも…」と投げやりな気持ちがあったとします。

それでは、たとえ学びの機会に恵まれたとしても、なかなか、まともには身に付きにくいでしょうし、学びそのものすら苦痛に感じても不思議はないでしょう。

そのような場合は、学びはまるで義務的であり形式的であり、本質などに辿り着くことはなく、結局、手練手管の表面上のお勉強に留まってしまうのではないでしょうか。

表面上では忘れていきやすいでしょうし、それでは現実的に何の意味もないと言えます。

そんなものは義務教育のお勉強で充分ではないでしょうか。

私たち、大人の学びとは生きるための学び、生きやすくしていくための学びではないでしょうか。

 

学ぶには、何を学ぶかということもさることながら、その学び方・姿勢(心)によっても大きく違いが出ます。

学ぶとは、その本質を感じ取って理解しようとすることです。

その上で、それを習って身に付けることが可能になっていきます。

まず学ぶ姿勢があやふやでは現実に活かせることもなく、また「どうせ、学んでも…」の負のスパイラルとなり、学びからは遠ざかりがちになっても無理はないでしょう。

そうして本質を感じ取れないまま流されて、その先はどこに着地するでしょうか。

自ら学ぶ時間を確保することが大事とは知っていても、継続的な行動に移す意義も感じ取れず、せっかく時間があってもダラダラと惰性で過ごす日々は、はたして本当に心から楽しいものでしょうか。

穏やかと怠惰、リラックスとダラダラ、共通していたり似ているようで、どこか別物のように私には思えます。

ましてや、そこから時間のない中でも学びのための時間を創り出していく習慣になるには、程遠いものすら感じられてしまいます。

結果として本質を感じ取れないまま、表面をなぞるだけで何も体得できず、「出来たらいいなー」・「辿り着けたらいいなー」では、いつまでも辿り着けないどころか近づくことすら出来ません。

 

逆に、学ぶこと・感じること、そこから何かを得て成長することに現実的な喜びを感じるならば、それは生きた学びであり、生きるための学びと言えます。

学んで成長することが、イコール生きることであり、そこには他者承認などに寄らない自己肯定があります。

生きるための学びで何を学ぼうとするかは人それぞれでしょうが、自分を生きようとするということは、自己一致しながら時間を使うということだと私は思います。

そのために何を学ぶかは、嘘偽りやごまかしのない心の声に耳を傾けて、その上で求め続ければ、いずれ自分にとってもっとも必要な機会が掴めるはず、と私は感じてきました。

そうなってくると時間を惜しんででも学び続けずにはいられない、時間は無駄にできないという感覚が私には、常にどこかあります。

かつての戦時中の日本などのように、もし仮に、学べない・書けない、ものすごく制限されるような社会になったとしたら、それはまるで、心の死に近づいていくかのような恐怖すら感じます。

求めることが排他される社会にしてしまうもしないも、実は私たち自身の生き方にもよるのかもしれません。

そんなものを大きく超えた、うねりにどうしようもなく巻き込まれてしまうこともあるかもしれません。

ですが、ただ本当のことを大事にして守っていこうとする生き方をしたいものです。

願わくば、極シンプルに…。

言葉にすると至極当然のことと捉えられてしまうかもしれませんが、今この場からの時間の使い方にどのように自分として反映させ続けていくか。

この在り方により道は分かれていって、その道とはいわば人生の流れです。

さらには、いずれ魂に刻み込まれるものの違いとなってくる、とんでもなく重要な分岐点だと言えるでしょう。

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