曲がりくねったトンネルを抜けた先のステージに…

○ 与えるのが難しいと感じている人へ

 

今回の記事は人によっては辛口に感じるかもしれませんし、人によっては、ずいぶんとマイルドに感じることと予想します。

それは「もらうばかりの人」にはキツく感じられるかも知れないということであり、「与える人」には当たり前のような話であり、表現の仕方がマイルドに感じられるのでは、ということでしょう。

よく分かっている人からは、私の表現の仕方がマイルドと言われることがあって、ふとそのことを思い出しました。

 

こちらの過去記事で「真っ先に自分の利益、それが物質的であれ精神的であれ、TAKEばかり求めていたら、しまいに得られにくくなったり、得られなくなっていきます」と書きました。

これは大人であれば与えられるばかりではなく、自ら主体的に与え続けていく姿勢、GIVEへシフトする大事さに触れたいためでした。

与え続けるのは、何も物質的なものに限らず心の面のほうが重要でしょう。

例えば、常に自分は心からの思いやりや労りをかけてもらったり、配慮ばかりされる側にいて、相手には配慮もしなければ、心からの思いやりもかけない。

もし、このようなケースがあったとしたら、どうでしょう?

ここで「心から」と書いたことに注目していただきたいと思います。

コミュニケーションに言葉を使うとしても、コミュニケーションは言葉(言語)だけでするものではありませんね。

雰囲気や態度を始めとした非言語のところから伝わるもののほうが、かなり多くて8~9割ぐらいと言われています。

つまり、言葉でどう取り繕っていようと、それは伝わる相手には伝わってしまうということですね。

 

○ まずは自覚から…

 

話を前述のケースに戻しましょう。

配慮も思いやりもない一方的な姿は、どこかで店員にサービスを受ける何かのお客様であっても傲慢でおかしいわけです。

ですが、本人はそれが当然と思って(思い込んで)している場合が多いでしょう。

多いでしょう、と書いたのは全てではないだろう、ということです。

どこかおかしいと自分でも感じつつ、自分の身勝手さがコントロール出来ない人もおられるでしょう。

このような人はまだ、そこからの脱出はまったく自覚のない人よりは、ずっと早く出来る可能性があります。

ですが、自覚が薄い・ない場合だと、仮に指摘されたとしても反発されたり、しまいには逆ギレされるのも怖いので難しく感じられますね。

ましてや何のお客様ですらないのに、何かの利得を知らず識らずでも振りかざしてしまい、それを自覚なしにし続けてしまっているケースもあります。

例えば、何かしらの事情を持っていて、その上での「合理的な配慮」までを求めるならば妥当でしょう。

ところが深く密接なコミュニケーションにおいて、その範囲を大幅に逸脱して利己的な姿が顕(あらわ)になっても、言われるまで何とも思わず見直しもしない。

いつも自分のためにばかりを追い求める在り方では不公平で、それは対等な人間関係の場では通じるものではありません。

例えば、好きな言葉ではありませんが世間でよく言われる「毒親」・「鬼嫁」などは、まさしく利己的なケースが多く、常に特別扱いされないと気がすまない典型と言えるでしょう。

いつだって、どんな場面でもヨシヨシと頭を撫でていてもらわないと、気がすまない甘えた子どものようです。

本人たちは、それが正当だと思っていますが、笑って済ませられる範囲ならまだしも、明らかにおかしいわけです。

子どもならまだ可愛げもありますが、大の大人がそればかりしていると…痛々しくもなってしまうわけですね…。

ひどいケースになると、どれだけ相手が心を砕いて思いやりを持った言葉を駆使して、そのことを伝えたとしても、すべて突っぱねてしまうケースも少なくありません。

その突っぱねる行為は自覚がないからこそであり、相手には凄まじいまでの打撃となってしまい、身体的な不調にまで一気に繋がる事例もあります。

まずは自覚していくことから始めないと、その場しのぎでは繰り返しになりかねませんので、自覚、「認める」という素直さに、どう持っていくかというところです。

 

○ やっぱり当てにならない世間での評価

 

ここで、甘えるのがいけないと短絡的に言っているのではありません。

その程度加減がどうなのか、それと相手への配慮や思いやりが低くなっていたり、欠けていないか、ということです。

つまり、ワガママすぎは良くないと表せば分かりやすいでしょう。

ワガママすぎだけでなく不公平すぎるのが強くなるほどに、この後で触れるティカー(奪う人)に近づいていってしまいます。

ワガママと言えば可愛らしい表現になりますが、世間でよく言われる「毒親」・「鬼嫁」、他にもネットで言われるドキューンちゃんなどは、そのレベルではありませんね。

それでも当人たちによっては、世間では一見、とても人当たりがよく良い人・優しい人。親しみやすい人で通っていたりすることもあります。

一見では人のエゴイスティックは、なかなか分からないものだと、ある意味、感心させられます。

それは必ずしも、演技やギミックが上手い詐欺師のような人ばかりではありません。

演技など、なかなか出来ない不器用なタイプでも、それは不思議とあり得たりします。

特に当人に自覚が薄かったり、ない場合こそ、エゴイスティックは一見しただけでは、もっとも分かりづらいように思います。

本人にも自覚がないから、表面上の付き合いレベルでは、他人には到底わからないわけですね。

人は誰しも、多かれ少なかれ仮面を被っていることでしょう。

かつ、自分が一番大切で、放っておけば利己的に流れやすいものです。

それでは幸福から遠ざかりますので、利他の心を意識していきたいものです。

私もエゴがたくさんある人間ですので、忘れずに心して日々に活かしていきたいと決めています。

 

○ ティカー(奪う人)になっていないか

 

いずれにしても、このようなタイプは「ティカー」(奪う人)なのではないでしょうか。

「ティカー」という呼称は、世界的なベストセラーである『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』から借りました。

ただ受け取ることばかりを望む人であり、程度・限度を超えれば、残念ながら(物理的であれ、精神的であれ)搾取ともなりかねません。

ティカーとは、それを当然の権利のように振りかざしてばかりいるタイプを表しています。

そうして配慮を一方的に搾取する側が望むのは、精神的な報酬源として相手を吸いとろうという利得になってしまいます。

ここまで来ると怖さも感じられてしまいますが、たとえ、口ではどう言っていようと態度や行動、反応(反射)が雄弁に、何を物語っているか…です。

例えば、いつまでもヨシヨシとご機嫌どりをし続けなければ付き合えなかったり、関係性を信じているからこそ、真剣に指摘すると逆ギレして、相手の弱点を残酷に突いてくる…。

そうして、あなたの尊厳や気持ちを尊重せず、関心を持って寄り添いもせずワガママを貪るのなら、それは搾取と言わざるを得ないでしょうか。

搾取できてしまう本人の背景には、ひがみ・妬みなどのコンプレックスがあったりするかもしれません。

何かの経緯や事情で特別扱いされてきて、ぬるま湯に浸かった蛙のように自覚症状が、まるでないようなケースもあるかもしれません。

(ぬるま湯に浸かった蛙のたとえ話は、巷で有名ですが、温度が上がっていくことに気が付けず、やがて干上がってしまうという、慢心したがる人間への示唆と注意が含まれています)。

そして、搾取されてしまう側の背景には、孤独感の刹那的な埋め合わせや分離不安などがあると考えられますが、場合によっては双方に、もっと色々とあるかもしれません。

それでも自覚・認識を成長させながら乗り越えて進んでいけるのでしたら、そのプロセス自体に素晴らしい価値があると考えられます。

ですが、何をどのようにしようと不公平さが付いて回ったり、固定観念にしがみついたりして是正が難しいのでしたら、それは共依存にハマっているのではないでしょうか。

 

○ 共依存と、支え合うというのは別物

 

よく分かっている方にとっては、そんなの当たり前だよ~と、すぐに分かることですね。

共依存は現実から目を背けていたり、自分たちだけは大丈夫というバイアス(正常性バイアス)で甘え合ったり、都合の良い、様々ななぁなぁ、甘え合いです。

そこでは精神的な自立心は薄く、利用し合うような関係性となっていきます。

相互尊重や相互理解をしているようで、それは都合の良い部分を尊重したり、理解したつもりになっているまでだったりするのではないでしょうか。

支え合いは、自立した大人同士がなし得る関係性であり、相互尊重はいわば当たり前のようにしていこうという姿勢、空気感です。

相互理解はすぐには全部できないとしても、そこを心がけていくのも言うまでもないぐらい、当然のようにある空気感だと思います。

利用し合う関係ではなくて、お互いを活用し合う関係です。

言葉だけ見ると、両者は似ているように見えるかもしれませんが、支え合いにいる人は、その実感からすぐに違いがピンと来るのではないでしょうか。

実態はまさしく似て非なるものであり、及ぼす現実、日々はまったく別のものになってきます。

相互尊重が安心して、そこにあるからこそ、心から安らいで自分を見せやすくなっていって、心地よい時間を共有していきやすくなります。

その時間が心の土台となっていくほどに、現実で何が起ころうとも関係性は揺らぎにくくなっていきます。

 

○ 良いこだわりと、不毛なこだわり

 

信念を持つのは大事ですが、それは大切な存在を大切に出来てこそ、相互尊重を維持して成長させて行けてこそではないでしょうか。

そうでなければ、エゴに執着した意固地となってしまいますし、そのような意味でのこだわり過ぎは弊害を生みやすくなります。

こだわりとは、良い意味で効果を及ぼす場合のみ使いたいですね。

そういう意味でしたら他者のためでもありますので、「意固地」というより「意地」と言えますね。

または意固地になりやすい人は、素直さと従順さを履き違えて素直になれないのかも知れません。

素直になるということは、奴隷のように隷属しろという意味ではありません。

 

○ どこからでも価値あるプロセスに変換できる可能性はある

 

これらを自覚して認識して真正面から乗り越えていこうとするのでしたら、繰り返しになりますが、そのプロセスには、とても価値があるでしょう。

それを、ただ目先の楽しさや刺激にばかり行くのでしたら、その度合いによっては残念ながら逃避行を続けてしまっているということにならないでしょうか。

傷つけ合ってしまうようなことは避けたいにしても、それは本当のことから目を逸らした先にあるものではありません。地雷は地雷として残り続けてしまいます。

地雷は強い意志で慎重に探り当てて、安全に撤去するのがセオリーですね。

少なくとも刹那はほんものの関係性とは言い難く、だからといって短絡的にニセモノと言うわけでもありません。

ですが、そこに心の底からの安心や楽しさ、強い信頼や輝く希望は、どこまであるのでしょうか。

心の底から信頼し合って安心して寄り添えて、共に楽しめるようになるための成長、そのためのプロセスに昇華できれば、それこそ素敵だと思いませんか?

その先でエゴではない、純粋な心からの願望や欲求が満たされていくステージがあります。

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