寂しさに駆られ、不安に呑まれる時、理由は内側にあると観てみる。
あなたは寂しさに駆られ、不安に呑まれる時、まず、どうしていますか?
つい、理由を、○○さんが●●してくれたら…と思ってしまいませんか?
かくいう私も、よく思ってしまいます。
自分以外の外に求めてしまう思考のクセですね。
□□が△△になったら…等々、挙げればキリがないかもしれません。
その寂しさは、そもそも、どこから来るのでしょうか?
○○が●●でないからでしょうか、□□が△△でないから、でしょうか。
寂しさに呑まれる人と、そうでない人がいるのは、なぜだろうと思ったことはありますか?
それは、その人が恵まれているから?と、それだけに思いますか?
実は、あなたのほうが、もしかしたら、ずっと恵まれていたとしたら?
それなのに、ふっと寂しい。しまいには、その寂しさが積もってくる…。
それは、○○が●●でないからでしょうか、□□が△△でないから、でしょうか。
それでは、それらが満たされたら、寂しさは本当になくなるのでしょうか?
次に、別の外側からの理由が出てくるのではないでしょうか?
例えば、ふっと裏切られるんじゃないかなど…。
寂しさは、そのような外側から見た尺度で一概に測れるものではなくて、呑まれる時というのは外側の理由ではない場合も多かったりするのではないでしょうか?
寂しさは心で感じるので、心から来ますね。
心は、目には見えない内側の働きです。
では、実際は他人から見たら寂しくないのに、無性に寂しく感じてしまい、もし、それに呑まれてしまうとしたら、それは何故でしょうか?
そもそも寂しくないはずのに、何故だか寂しく感じてしまう時、その理由はどこから来ているのだろうか、ということです。
質問攻めの文章になってしまい読みにくくなりましたが、一言で言えば、試しに理由を内側にあると観てみたら、何が視えてくるでしょうか、ということです。
自分以外の誰かに理由を求めている限り、様々な状態があろうとも他人任せということになってしまいますね。
自分がコントロール出来るのは、他人ではなく自分ですよね。
自分の捉え方によって、感じ方も大きく変わってくるのではないでしょうか。
もしかしたら、過去のトラウマに紐付けて、今を見てしまっているかも知れません。
過去の傷がサングラスのようになって、ありのままを視えなくしているということないでしょうか。
サングラス越しに見たら、よく見えなくなってしまい、なぜか心に余裕もなくなり、楽しいはずのものも、どこか楽しめなかったり、どこか上の空になってしまったり…。
しまいには疑心暗鬼になって、あらぬ妄想をして痛々しい気持ちになってしまったり…etc
それでは辛くなるばかりですし、その辛い気持ちが、そのような現実を引き寄せてしまうのではないでしょうか。
そうして、やっぱり、そうだった…と、嫌な確信を強めてニヒルな信念のようにしてしまっていないでしょうか?
外側のコントロールよりも、内側のコントロールに目を向けて、サングラスのようなフィルターがかかっていないか、自分だけのノートに書き出してみると、落とし穴が少しずつ見えてくるかも知れません。
良いも悪いも関係なく、ジャッジも評価もせずに、キレイも汚いもなく、一切の制限も関係なく、制限を感じている自分も踏まえて、ありのままの自分の心を感じるところから始めて見るのが、大切なステップですね。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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