「普通」でいるより「本当のこと」を大切に

上記の画像、2つの標識がありますね。

表引きの一つに刻印されている「Lie」とは(嘘・ごまかし・まやかし)という意味です。

もう一つの標識「Truth」は(真理・真実・真相・事実・本当のこと・真実性・(事の)真偽、誠実)という意味です。

この2つの標識で、まったく違う方向に道が分かれていますね。

あなたは大切な存在に、どちらを伝えていきたいですか?

大切な存在と、どちらを共有していきたいですか?

 

○ 世界観が広がる人・広がらない人

 

例外なく私も含めて、人は自分の知っていることしか知りません。

そこで知っていること以外のヒントが来たら、どのように接するのかというのは、とても大事だと思います。

心を閉ざして聞こうとしないのか、心を開いて関心を持って聴こうとするのかで、その理解度にも違いが出てくるでしょう。

もし、ここで聞いているふりをして、心で聴こうとしていないのでは聞いていないようなもので、それは聴き方の上手下手に関わらず、きっと相手に伝わることでしょう。

自分の枠組みを超えた話に対して、快・不快に関わらず聴けるかどうかで大きな違いが出るのではないでしょうか。

心地よさばかりを優先していたら動物みたいと、ふと私は思ってしまう時があるのですが、仮に不快であっても、も、そこに何があるのかを、いつからか知りたいと思うようになりました。

それは、かつて強くそう教えてくれる出逢いが、いくつかあって、そのことに気が付かせてくれたからでした。

もし、意固地なままの自分でしたら、その後、年齢を重ねるほどにどれだけ頭が硬くなっていただろうと思うと、ふっと感謝の念が今でも湧いてくる時があります。

気づかないまま、または気づいても目を逸らしたままだったら、どこか虚実の自分になっていたかもしれません。

「不快なことから、そそくさと逃げてばかりだと小動物みたいだよ」と言われたことを、たまに心に思い出す時があります。

ネズミなどの小動物は短絡的で、生理的な本能だけで動くから、という例えです。

(犬や猫は知能も感情も高くあるほうで生理的な本能だけではないというのは、私も長年、猫と暮らしてきていますから分かっていますが、そういう正確性をここで言いたいわけではありません)。

気づかなかったこと・知らなかったことを認識するまで強く教えてくれるのは、その教え方の上手い下手に関わらず貴重だと思います。

学校の先生ではないので教え方の上手い下手などが重要ではありません。

もし、そこを求めて不平不満を述べるとしたら、即座に本質から外れてしまいます。

教え方が上手に越したことはないにしても、例え不器用な教え方であっても、その伝えようとしていることの本質を感じ取ることのほうが大事です。

恨まれ役まで買って出て、なぜ、そこまでしてくれたのかを感じていけた時に、その有り難みが言葉ではなく心で分かってきたプロセスを、私は今でも覚えています。

私は、あまりに素直でなく小さなプライドにしがみついていたので、その挙げ句、男なのに泣かされるぐらいまで強く言われたこともありましたが…。

 

○ 「普通」という幻想

 

「普通って何?」とは、子どもが思春期の頃から言い出しそうなことですが、あながち馬鹿にしたものでみないどころか、とても大切な問いかけだと言えます。

私は「普通」でいるより、「本当のこと」に対して謙虚に大切に生きていきたいと思います。

何かよく分からない、人によって価値基準の違う「普通」というあやふやなものより、「本当のこと」を大切にしたいわけです。

人によって基準が違うということは、人によって胸先三寸でどうとでも変えられてしまうということになります。

または時代や風潮、コミュニティによっても「普通」なんて、いくらでも変わっていくのはご存知のことと思います。

「普通がいい」、一見もっともに聞こえる平和なその言葉は、実は実態のない幻想のようなものではないでしょうか。

そうした幻想の「普通」に囚われたり振りかざしたりする同調圧力に流されたくないと、生きづらくてもそう思います。

その「普通」という同調圧力から、どれだけの尊厳が危ぶまれるのでしょうか…。

 

○ 幻想が創り出す哀しみや悲劇

 

「差別など私はしない」と思っている人は、きっと多いだろうと推察します。

多くの人は、わざわざヘイトスピーチなんてしないし、考えもしないでしょう。

車イスを見かけたり、白い杖を持っている人を見かけたら、何かお手伝いをしましょうかとされる方もおられるでしょう。

ですが、気が付かずにしてしまっている差別について考えようとする方は、どこまでおられるでしょうか?

例えば、パッと見て分かりにくいメンタル系の症状や、または性的マイノリティの方々などに対しては?

悪気なく「え~?! あの人って、実はそうなのぉ!(笑)」と言っている何かが、差別にあたっているかも知れないですよね。

でも、ここだけの話だから…として、コソコソ隠していれば、それでいいということでしょうか?

内心で思っていることは遅かれ早かれ伝わったり、排他的な何かの状態を創り出すのではないでしょうか?

同情が良くないというのは知っていても、腫れ物に触るように接してしまうというのも差別の心理です。

差別しないというのは、実はなかなか難しいものだと、私自身、思ってしまいます。

人には、自分自身の性質とのギャップが大きい他者に対しては、無意識に拒否の感情が出てしまいやすいのではないかと思えます。

ですが、それもまた差別感情ということを、私自身、自分を戒める意味で考え続けるためにも、ここで触れておきます。

なお「差別」とは定義が困難で、定義不能とする研究者も少なくないようですが、ウィキペディアによると以下のように書かれています。

(以下より引用 『差別』ウィキペディア

差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。

それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。

国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている

(引用、以上)

 

○ 肉体や生命すらも危ぶむ

 

「普通」幻想が創り出す悲劇は、差別だけではありません。

もしかしたら、大きな病院だから信用できると、普通に思っていたとしたら、どうでしょう?

このことは人によっては、とても変なことを言い出していると思われるかも知れません。

例えば、薬害や医療過誤は対岸の火事でしょうか。

そこには、おざなりな(なんちゃって)インフォームド・コンセントからの同調圧力、そこにも悪因の一つがあります。

インフォームド・コンセント(説明と同意)を求めているようで、実は承諾せざるを得ないような時間的・立場的な圧力をかけているということもあります。

薬害や医療過誤が社会問題化にまでなってしまえば人々は非難し出しますが、それまでは「○○病院の○○先生が言うのだから」と、それに異を唱える存在を煙たがります。

「私もお世話になっている先生を非難するのー! とってもいい人なのよ!」的な感情論で問題が発生しないうちは、それでも良いかもしれません。

ですが、大病院ほど問題が潜在化しているというのは業界を知っているジャーナリストならば、当たり前のように言うでしょう。

私も初めて聞かされたときは、かなりビックリしました。

昨今になって、病院にかかるにしてもセカンド・オピニオンを付ける意味で、他の病院に同時にかかる流れも多少は出てきました。

問題が起こったり増え続けてからでは、とっくに取り返しがつかないのです。

例えば「インフルエンザ脳症」という病名があるのは、日本だけです。

海外では「ライ症候群」と呼ばれて、インフルエンザが原因ではなく薬害、薬の副作用からの症状とされています。

それが何故、日本ではインフルエンザが原因かのように思わせられているのでしょうか?

それは、その薬を売り続けたい製薬会社と管轄省庁との癒着による情報操作と言われています。

これは、その在り方が薬害エイズ事件と類似しており見過ごしてはならない問題と、声を挙げている先生は挙げています。

造語である「インフルエンザ脳症」のことだけでなく、インフルエンザの予防接種も、実は危ないものだとエビデンスを持って解説されています。

正常性バイアスで、私だけは大丈夫と思い込むことから自己防衛のための注意が煙に巻かれることのないように願いたいものです。

(以下より引用 『正常性バイアス』ウィキペディア

自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。

「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言う。

(引用、以上)

 

○ 大げさでしょうか?

 

もっと大きく悲惨な話で言えば、戦争に反対する人間を非国民として石を投げていた国だったということを、私たちは忘れてはならないと思います。

今はまったくその逆になっていますが、かつては心では戦争に同意していたわけではなくても、前のめりで戦争にバンザイする姿勢を、多くの国民が「普通」に持たされ続けたわけです。

かけがえのない我が子を戦争に、バンザイして送ってしまっていたわけです。

心で泣きながらでも、人前では泣くことは許されなかったわけです。

極論に思えるかも知れませんが、この同調圧力に逆らえない国民性というところは、現代でも変わっていないと思います。

世間の風潮に対して、反対意見や異論を唱えるものは異端視されて、冷ややかな眼や軽視などをする性質はありませんか?

絶対になってほしくないことですが、もし万が一、「普通は戦争に賛成するよね」という世間に再度なってしまえば、あなたは反対し続けられますか?

または反対する人を非難しないと、自分も非国民扱いされてしまうとしても非難しないでいられますか?

反対することで検閲され悪者とされて、自らの所属欲求はかき消されるかも知れません。

とんでもない罵倒を浴びたり、真っ暗な孤立に追いやられるかも知れません。

 

○ 真実を述べる者は石を投げられる

 

それでも、本当に大切なことは何ですか?

戦争ほど大悲惨なことは起こらないと思っていても、そこまでではなくとも「本当のこと」を軽視したり、ましてや蔑ろにする心理には共通するものが横たわっています。

ですので「普通」と一対のようにされる「常識」を疑うことも大事であり、それを「おかしなこと」と捉えるのは早計で短絡的だとも思えます。

「常識」は、誰かのために都合よく創られたものかも知れません。

戦争イケイケの風潮は、かつての軍部などの権力者とメディアが誘導して、負けていても勝っていると嘘を付いてまで造り出されました。

医療過誤も汚職も表沙汰になるまで、一部の人間によって事実は歪曲されやすいものですし、表沙汰になったとしても、そう簡単には決着しません。

権力からの圧力だけではなく風潮やメディアの情報操作に踊らされないように、真実を観ていこうとする心は持ち続けていたいものです。

そこは目先の感情論などで軽視したり、ましてや押しつぶしてはならないことです。

ここまで書いてみると、ごまかさず嘘をつかず誠実であることとは、ときにとんでもなく大変なことでもあると考えさせられますね。

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