「これは良いこと」・「これは良くないこと」の切り分けの○○

 

「道路の信号を守るのは良いこと」ぐらいでしたら、至極、常識的で単純明快に分かりやすいですね。

ところが、このように切り分けてしまう思考は、時と場合により「~しなければならない」・「~すべき」視点を拡大して寄せ付けてしまうことになり兼ねません。

 

……??? 一体、どういうことでしょうか?

感性を大切に、ゆっくりと磨き続けながら観ていきたいところですね。

 

本当のことだけを大切に

 

例えば、「自分を責めるのは良くない」・「赦すのが良いこと」、これは一見、ポジティブで素晴らしいことのように視えます。

その反面、ややもすると「自分を赦して受け止められない自分」を否定することにもなってしまうかもしれません。

「自分を赦して、受け止められない私はアカンのや~」ですね。

 

いや、アカンことないのですが…… 今、できる限り、ほどくように丁寧に観ていきたいと思います。

揶揄(やゆ)して否定しようとも、自らの感じるココロは消えるものではありませんし、自らを切り捨てることなく大切にしていただきたいと願います。

これはキレイゴトを振りかざしたくて言っているのではなく、その中に視えていなかった・気が付いていなかった答えが埋もれていることも少なくないからです。

または「怒ってはいけない。文句を言っても、思ってもいけない」と自然な感情を抑え続けていると、修行僧や仙人でもない大半の人はいずれ暴発してしまうかもしれません。

ココロの赤信号だからといっても、人間は信号のように機械的に切り替わる、主人に都合の良い無機質なロボットではありません。

仮にここで「道路でも赤信号は渡ってはいけないでしょ?」という例えを使ったとしても、それは詭弁でしかなく現実的には成り立ちません。

ココロの暴発はケースによって、外に向かうこともあれば、内に向かって心身に悪影響を及ぼすことも内容によってはあり得ます。

どちらのベクトルのケースでも、ストレス・オーバーである点は共通しています。

一見、怒っていないから・泣いていないから・笑っているから良いではなく、怒れない・泣けない・笑うしかない状態に追い込まれてしまっている状況があっても、おかしくはありません。

 

スルーしたって、種火は消えない

 

その火種は放っておいて消えるものではなく、視えないところでジワジワと熟成されていきます。

笑顔の裏も瑞々しく透き通っているのなら、とても嬉しいことです。

ところが、もし、笑顔の裏で、ココロの奥で、くすぶっていたり、泣いていたりしていたとしたら……。

そこで、鈍感力やスルースキルを用いるのはズレてしまっているのではないかな、と、私には思えてしまうのです。

明るければ明るいほど影が強くなるということもあり、人それぞれの内容によっては、ズレてしまっているどころの話ではないかもしれません。

本当のことは、どれだけ誤魔化そうとしてもできることではなく、昇華させないとくすぶり続けます。

昇華については、マインドフルネスやセルフ傾聴であったり、心理カウンセリングやセラピーであったり、様々な方法が溢れるほどありますね。

ココロの声を聴き続けて、複数のベクトルから灯火を照らして見つめ続けることがとっても大事だと、私は実感しています。

複数のベクトルから、というのは、1つの方向の光からだけですと影を強めてしまうことがあるためです。

 

安全に 平和に 自然に

 

大切なのは自然な感情を抑えつけたり暴走させることではなく、安全に出せる・受け止められる関係性・場所があるかどうか、です。

その関係性とは、相手との関係性でもあり、自分と自分との関係性でもあり、いつまでもルサンチマンに囚われて他者のせいにばかりしていても、残念ながら解消はしないものです。

つまり、最終的には ” 自分次第 ” ということに他なりませんが、そのための思考や感性を磨き続けようとしているかどうかによります。

 

裏表一対

 

「イライラせずに笑っていなければならない」と、そのためのポジティブ思考法ばかりに傾注して使ったとしても、本来、ポジティブもネガティブもセットです。

切り離せるものではないため、どちらか一方を否定して偏ると、必ず、もう一方が引っ張られるように顔を出してきます。

どちらか単体で存在しているのではなく車の両輪のような一対のもので、どちらかが欠けると事故の元です。

「そうではない!!」と、どれだけ声を大にしようとも、そう出来ているのですから、キレイゴトやキラキラ言葉に惑わされずに、本当を求めるなら両方を観続けていくことが大事ということになります。

もし、心理カウンセリングめいたモドキで、どちらか一方しか観ないように誘導されることがあるとしたら、それは視野が偏っていると言わざるを得なく、その後々の弊害が私は気にかかります。

どんな人でも、自分にウソをつき続けることは出来ず、仮に続けたとしても消えることはなく、それは家族連鎖の元となってしまいます。

ポジティブもネガティブもセット、陰陽どちらも観て受け止め続けていくことで、無理しなくても、スッと消化できる瞬間が得られやすくなっていきます。

そのうえで、一つ一つ心地よい方向に転じさせていく昇華の思考と実践が重要と言えます。

その視点がある心理カウンセラーやセラピスト、または表現者などから、ご自身にマッチする方を見つけていただきたいと願います。

 

インスタントより、手作りを

 

もし、安全に受け止められる関係性や場を創ることもなく、周囲が良いこと・良くないこととして(知らず知らずでも)追い詰めてしまっていたとしても、まるで気が付いていなかったとします。

気が付かないということは、使い古された正論めいたもので画一的に抑えつけてしまうことになり、これは、哀しくもよく在ることのようにすら思えてしまいます。

それが、手っ取り早くて簡単に思えるからですね。

簡単だからといっても、インスタントは所詮、インスタントです。

悪気がなかったからと自身の見直し・気づきもなく、「良いこと・良くないこと」の二元論で切り分けて、場をコントロールしようとする思考は閉塞感を生み出すかもしれません。

閉塞感は、ココロの声を抑圧したり、流れによっては封殺してしまいます。

インスタントは早い・簡単・便利に視えますが、そればかりですと偏りますので、私たちは素材をよく観て、愛情のこもったココロの手作りを大切にしたいですね。

 

完全密封はできません

 

「良いこと・良くないこと」、同じ言葉でも、どんな立場から、なに視点で述べているかにより、かもし出す臭いは変わります。

もし、自分を正当化させたり目を逸らして逃避して、誰かに便利に背負わせるために使っていたとしたら、そういった臭いをかもし出します。

臭いは、言葉の奥に潜んでいるもので、臭いが強いと、その実体は勘の良い人には透けて観えやすくなってきます。

人は、機械的に真空パックのように密封できるものではないため、二元論だけで良しとするのではなく、できる限り内観を大事にしていきたいですね。

人のココロは、ヒーロー戦隊モノのようにスパッと正邪だけで切り分けられるものではないと、私は思うところです。

それは、「清く正しくなければならない」・「でも、出来ない」というダブル・バインドを生み出してしまいかねません。

 

この話には、まだまだ続きも奥もありますが、別の機会に、別の表現で触れることができればと思います。

タイトル末尾に付けた「○○」については、私は「ドボン」や「落とし穴」というイメージをしましたが、各位のイメージにて埋めてみていただければと思います。

 

『人は人生の節目を迎えるたびに、自分のために新しい神話を作るか、それとも古い神話を受け継いでいくかを選択する』 

- スタンリー・ケレマン(アメリカの作家)

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