重箱の隅をつついて「美味しいの、それ?」
隅をつつくより、中身をちゃんと食したいですよね^^
キレイだし、味わうととても美味しい中身。
「木を見て森を見ず」
最近、ブログ記事を投稿できるニュース系サイト(キュレーションサイト)にも、拙記事を少し投稿してみております。
記事にもよりますが、Facebookより反応が来やすいこともあり、それはそれで「へぇ~」と参考になります^^
それらのコメントを観ていて思う1つが、「一部は一部。全部ではない」ということです。
例えば、Amazonでの書籍へのレビューも見ても、察しは付くかもしれません。
著者の想いや全体の主旨を読み取ろうとしないで、一部分だけを見て、まるで、それが全部かのように反応して、もっともらしく評するものも見受けられます。
あからさまなのは判別しやすいとしても、もっともらしく書いてあると、つい目を止めてしまい兼ねなかったり^^;
それらに一喜一憂することもないので眺めるだけに留めますが、油断して呑まれないよう気を付けないと「コワイナ」とも、感じます。
もっと慣れていくと、また違うのかもしれませんね。
それらの声は、今に始まったことでもなく、日常茶飯事に発生する現象なのでしょう。
そこにある「他者に対する心」は、どのようなものなのか、と思ってしまいます。
おそらく、言いたいことを言えれば、それでいい、それだけの感覚ではないか、とすら思えるのです。
または、素朴な疑問と言いつつ文句を言っているなど、ちゃんと読んでいないから、まるで主旨からズレてしまっている、ということも見受けられることがあります。
中には、もはや、認知行動療法で出てくるような「認知のズレ?」とまで思えてしまいそうなものまであったり^^;
いずれにせよ、それがストレス解消になるとも私には思い難く、一体、何のために?という不思議さのほうが強いです。
それらを眺めつつ一呼吸置いてから、自分だったら、こんな安直なコメントは間違っても言えないよなぁ、と思ってしまいます。
おそらく、若い時からもの書きの端くれとして、大した実力ではないかもしれませんが、その業界に関わりつつ、今は書くための文章サポートの業務もしていることが、些少は功を奏しているようにも思います。
それとも幼少の頃から、勝手なことを言われやすい症状を持って育ってきたからか、その両方なのかもしれません。
今は仕事上、書き手のプロではない書き手さんと直に関わっているわけですから、思考の先っちょだけでフィードバックは出来ないわけです。
書き手の想いを可能な限り、その奥まで観ていこう、分かろうと努めなければできる仕事ではありません。
慎重さを要しますし、心を整えて対することも求められます。
逆に、そうしないことのマイナス、怖さも共存しています。
誰かに向けて書く、ということは、文章量に関わらず同時にリスクを伴います。常に。
だからといって、私が本当にプロなのかと言えば、その境目などないのですから、本当は分からないとも思っています。
少なくとも、自らが求める実力は付いていないと感じています。
だからこそ、駄文であれ、徒然であれ、蛮勇でもいいから書き続けるのであり、それが習慣であり自分です。
その程度のものですから多少の評価がどうであろうと、目くじらを立てるほどのものでもないと本当に思っています。
そもそも、雑音のためにしていることではありません。
この記事においても書いているのは、雑音を消したいからではなく、後述することを思ったためです。
それが「主訴」です。
「一部だけを取り上げて、全てかのように論ずる」ものを見ていると、心の叫びが伴うクライアント様のお話を思い出します。
その方の一部は一部でしかなく、全部ではないのに、誰かに全部かのように決めつけられて、抑圧されたり、評されたり、しまいには、なぜか断罪までされたり・・・。
そうじゃない、と叫ぼうにもかき消されて、呑み込まれて、しまいには何も言えなくなっていって・・・。
そうして、それまでは普通に出来ていたことすら、出来なくなっていったり・・・。
そうなると、ますますスパイラルにハマり、誰にも、まともに聴いてもらえないような状況にいる方もおられるのです。
一部を取り上げて、その印象だけで全体をしっかり見ずに、一見、もっともらしく言及するのは、子どものそれと同じではないか、と思うのです。
子どもなら限度を超えれば、近くの大人が注意したり叱ったり、諭してくれるかもしれません。
ですが、大人自体が、そんなことをしていて軌道修正がなされないまま、ズルズルとスパイラルのようになる現実もありますね。
日常生活の中の人に、そんなことをされていたら、それこそ冗談ではありません。
そもそも他人の投稿に対して、大人がそんなことをする意味が、どこにあるのか?、ピンと来ない私は、まだまだ心理が読めていないということか、とも実感します。
言ってしまえば、自己満足等々、何かしらの言葉はあるのでしょうが、わざわざ、それをする意味が分からないのです。
生産性は、どこに?としか思えませんし、楽しいの? それ?としか思えず、不思議にもなります。
そう思いつつ、もし、これが日常生活の中の場面で起こっていたら・・・?!とも思ったりします。
赤の他人の言葉だから流せるものの、これが身内となるとそうはいきません。。。
私も、とても大切に想っていた身内に散々なことを言われ、無理解の寒風にさらされてきた経緯もあります。
もっともらしく言いつつも無責任なコメントのそれらは、仮に(強引かもしれませんが)傾聴に置き換えてしまうなら、主訴を踏まえずに、枝葉を膨らましてしまうという傾聴っぽい別物と、どこか同じようなものではないでしょうか。
なぜ、その主訴は主訴になっているのか?
そもそも、主訴を観ているのかどうか?
そこには、主訴たる要因や理由があるわけです。
それを傾聴者側の自分の勝手な都合でズラしては、傾聴ではなくなってしまいます。
ご本人にとってリアルに重要であるがゆえ、主訴なのです。
それなのに主訴でないものを、主訴かのように返されたら、もし、それに対する免疫が強くなかったら、どのように感じられると思いますか?
私たち、傾聴させていただく側は、どこまでも主訴を見つめていけるように、” 日常習慣から ” 心がけたいな、と思った次第です。
枝葉は枝葉。根幹でもなければ幹でもなく、主訴でもありません。
枝葉の一部に、主訴へのヒントが含まれていることはありますね。
ですが、根幹ではないわけです。
一部は一部であり、決して、全部ではないのです。
一部を全部かのように評してしまう心理に、一体、何があるにしても、少なくとも、枝葉をメインかのように述べることは、身近な内部にまでは入れないであげて欲しい、と願うばかりです。
その裏の裏で聴こえなくなってしまった、傍にいる人の心の叫びに耳を傾けて欲しいと ・・・ 私は願うとともに、このことが本記事の一番の主訴です。
・・・・・
「傾聴」を学び始めてから、様々な気づきを与えていただいているように感じます。
自分自身も、一部を見て、それが全部かのように評していなかったか、とも思うのです。
私は、わざわざ、そんな自己満足レビューやコメントをする暇な(無駄な)時間の使い方はしてこなかったですが、ふと、心のなかで思っていなかったか?
安直に決めつけたり、それで自分の心の中で優位性を保とうなどとしていなかったか・・・。
「傾聴」がうまくなっていくということは、自らの傾聴がうまくなっていくということでもあると教わりました。
自らの心のなかでの欺瞞やウソ、慢心にも気が付けていきやすくなる、ということにも感じています。
(本来の)「傾聴」の学びと実践 ・・・
もっと早く出逢っていれば!とまで思えるほど、「傾聴」って、ここまでの価値があったとは・・・。
自ら、ほんわか倶楽部を立ち上げて関わっていきながら、改めて、思う日々が続いています(*^^*)
そして、これから、もっと実感していけるのかと思うと、とても、とても有り難く感謝です!
だからと言って、傾聴が万能というわけではありませんし「傾聴様」とは思っていませんが、「ただ、ウンウンと頷いていれば、それでいい」なんてもんでもないですよ^^
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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