タイトルに付けた「恵まれている」も「恵まれていない」も、シンプル化させ過ぎで二極的な書き方だなとは思うけれど、まずは分かりやすく進めてみる。
「恵まれている」から、屈託なく明るく過ごせるという面もあれば、「恵まれている」から視えていないことや感じられないこともあるだろう。
「恵まれていない」から、どこか卑屈になってしまったり、「恵まれていない」から視えていることや感じられていることもあるだろう。
…という比較を、ふと思ったので記してみたくなった。
どちらにも一長一短があって、どちらが良いかなどは人や場面によるところだろうし、そこを判じたいわけではない。
ただ「恵まれている」から視えていないことや感じ取れていないことがあるのは、それはそれで視野狭窄だろう。
さらに視野狭窄のまま、「恵まれていない」とされている人々へ「恵まれている」側の価値観や理屈で、例えば「両親には感謝するもの」という「常識」を振りかざすことは、言葉のナイフとなってしまう。
これはアダルト・チルドレンへのケースには如実に現れるし、当事者ならば、すぐにピンと来る。
この辺りのことについては、こちらの過去記事で触れたが、それが何故、言葉のナイフとなってしまうのかが、すぐにピンと来ないうちは、変に善心ぶって言及しないほうが良いと思う。
「恵まれていない」から、どこか卑屈になってしまったりするよりは、「恵まれてて」屈託なく視えるほうが接しやすくていいかも知れない。
だが、そういうことだけではなく、「恵まれていない」からこそ感じ取れて、それで得られる強さや深さというのは、恵まれていなかったからこそ、得られるギフトでもある。
それは「恵まれている」人には得難いものでもあるとしたら、一見「恵まれている」のは「恵まれていない」とも言えてしまうのだなぁと思ったりして、ややこしい文章になった…。
それに「ギフト」とは言っても、それは当事者にまとわりつく自己否定感や無力感、さらにはルサンチマンなどを消化して、さらに昇華していけた先のことであり、そう甘いことでもない。
ルサンチマンにまみれていれば他者のせいのままにしておけるし、自分の感情から責任逃れをし続けられる。
その先がどんなに楽しくなくても、それは自己責任ということから逃げ続けていれば楽に思えるかも知れない。
ただし、それは苦境や逆境を活かしていないことであり、年齢を重ねるほどに自己責任なのではないだろうか。
そして、一つ一つ踏み出してしまえば思うほど大変でなかったりすることも実は多いし、逃げ続けているから余計に辛くなるということも少なくないのではないだろうか。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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