「フェイク・ポジティブ・ハラスメント」(造語)

目次

◇ Twitterも、心の声のリアルだなぁ~

 

ある日、メンタルの痛みに関する、ある個人の方のツイートを見かけました。

そのツイートは、モヤッとしてうまく言葉に出来なさそうなことを、実に明確に言い表していました。

端的に言ってしまえば、アダルト・チルドレンの痛みに関するツイートですが、モヤッとしたものを言語化できるか出来ないかの違いは、大きいものです。

 

まさしく・・・

そう!

それだよ!

・・・と沢感じられる人が多かったようで、いわゆる炎上をしていたように思います。

 

沢山のいいねや、コメント付リツイートやリプが発生しました。

私も同感できる内容でしたので、私自身の経験にリンクして思い出されたことなどコメントをつけてリツイートをしました。

その私のツイートも予想外に、沢山のいいねやリツイートをされて拡散されました。

意外と拡散されるものなんですね。

何より、なかなか言葉に出来なかったようなモヤモヤを、適格に言い表している方々は、Twitterでも色々とおられて、それらを見ていると楽しくなってきます。

このようなやり取りが出来るのも、TwitterというSNSのリアリティだな、バーチャル媒体だとしても顔は見えないけれど、人の心のリアルだな~とも感じます。

 

 

理不尽な痛みを与えられたことへの消せない憤り

 

元々のきっかけとなるツイートを発信した人は、その一つのツイートだけでなく、連続して続きの内容をいくつも発信して、さらに掘り下げの言語化がなされていきます。

それらも、様々な方から沢山のいいねや、リツイートをされていました。

いわば、理不尽な痛みを与えられたことへの消せない憤りが強く感じられるものであり、その多くは共感が持てるものでした。

どういうものだったかは、後述にて触れていきます。

 

美辞麗句を持ち出しても

 

同時に、それらに対する反発や、美辞麗句で諭そうとするかのようなリプも、それなりにあります。

その内容は順を追って後述で触れていきますが、その痛みを激しく感じ続けてきたことのない属性の人からのものでした。

それらの痛みを受け続けてきた人間からすると、一言で言えば・・・

 

わかっていないなぁ

というものです。

 

メンタルの痛みについては、どうしたって当事者でなければ、早々に分からないことというのが多くあると思います。

当事者でない方が何かの興味本位や関心、優しい自分でありたいとして関わってこられても、それだけで容易に分かるとは限らない深い痛みだって、たくさんあるのです。

 

例えば、生涯にわたって後遺症が残る大ケガをさせられたとして、その辛さはほんとうの意味では本人にしか分からないようなもの、ということは分かりやすいですね。

 

目に見える大ケガは分かりやすいかもしれませんが、メンタルのそれは眼には観えず、分かりにくいかもしれません。

当事者でなくても肌感覚で分かるとしたら、よほどの専門家レベルの人の場合でしょう。

ちょっとした専門家、心理カウンセラーレベルではなく、「よほど」と書きましたが、滅多にいない稀有な存在です。

大半は安易なアドバイスめいたものをされることが多く、それらの声も私は仕事上、色々と耳にしてきております。

その使い古されたチープな言及は、例え、善意からであっても言われる相手には痛く刺さって削られてしまうものもあります。

中には破壊的な言葉を使っている自覚のないまま、振りまかれているケースもあります。

つまり、初見者レベルで下手に手を出してしまうと、相手の自己否定感を強めてしまうばかりではなく、ますます、窒息させることにもなりかねない危険性があるとも言えるのです。

「危険性」と書いたのは、場合によっては希死念慮などを増加させてしまうことにもなりかねないことがあるからです。

 

長年に渡りマウンティングをされ続けてきた人間の辛さは、そうカンタンに綺麗ごとの言葉でまとめられるものではなく、振りかざそうなどとすると、善意っぽいものによる暴力になってしまうことがあります。

 

正論っぽいことが、必ずしも的を射ているわけではありません。

 

善意が暴力?

良かれと思ってたのに

 

私は何も意地悪で言っているのでもなく、この拙・記事では、少しでも紐解いていく一助になれば・・・と願いつつ綴っております。

 

傷が癒えずに未だに苦しんでいる人間に、その痛みについて体験のない人間が

苦しめられたのは意味があるんだよ

それにも感謝しなきゃ

 

もし仮に、こう言ったところで、どうなるというのでしょうか?

あなたはガンジーですか? イエス・キリストやお釈迦様ですか?

おそらく、いえ、かなりの確率で違うと思います。

 

例えば、私は過去にある人にマウントポジションで乗っかられて、首を締められた恐怖の経験がありますが、その怖さは何年経っても忘れられないものとして残っています。

思い出したくもないのに、ふっとフラッシュバックして沸き起こってしまいます。

殴られたときの後遺症で、左目の方は常に小さい小さい虫のようなものも見えます。

望んでもいないのに、常に付いて回るのですが慰謝料を取れたわけでもありません。

 

それらを私に行った人間は、今でも・・・

私は悪くない

と思っているようです。

なぜなら、私がその人のワガママを聴いてあけられなかったから、のようです。

これはまだ一部のことで他にも色々とあるのですが、これらに意味や価値があり感謝したほうがいいよ、と、よく知らない他人から言われても、残念ながら不快感や嫌悪感しか感じられません。

 

当事者でもなければ・・・

大変だったね

ゆっくり休んでね

 

言われる方の心情を見つめれば、ただ、受け止める言葉ぐらいしか言えないのではないでしょうか。

まず、受容する、受け止める。そこまでに留める。

それだけで、少し安心したりするのです。

安易に諭すような言及は、苦しんできた人間を、さらに追い立ててしまうことになります。

 

どんな扱いを受けても、聖人君子のように感謝して、その意味や価値を深く捉えるという言葉を、一般人から言われたら受け入れなければならないのでしょうか?

 

もし、不条理な痛みを与えられ続けてきたことに、何かの意味や感謝があるとしたら、いつか、それをそのように考えて判断するのは、あくまで本人です。

誰かに言われてすることでも、誰かが言えることでもないと、私は思っています。

意味や価値について当事者が考えるかどうかは、他人から諭されたり求められるものではないと、私は捉えています。

それには沢山の障壁があり、とてつともない、想像など軽く絶する苦難の道でもあります。

私自身、この程度のとりとめのない駄文を書けるようになるまでだって、何年かかったか分からないぐらいです。

(直視しようとすることが、どれだけ自らの心をえぐることになり、どれだけのパワーを要するか、それでも、今はこの程度しか書けないのです)。

また許すことが、必ずしも良いことなのかどうかも定かではありません。

何をされていても許していて、はりつけにされて良いとは私は思いません。

 

肉体的にだけではなく、心も殴られて、右の頬(ほほ)を殴られたら、感謝して左の頬(ほほ)もおごそかに進呈するなんてしていたら、とてもではないですが生きていけません。

 

「許す」・「感謝」?

 

どこの誰か分からないような他人から、安易にリプで言われて嬉しいものではありません。

しかも、その痛みがどのような辛さを伴っているか、沢山のリプで説明を受けてもピンと来ないようなら、アドバイスなどして良いものではありません。

 

分からないのに

なぜ言える?

 

どこかに転がっていそうなポジティブ神話を振りかざして、それは、一見、正論かのような言葉で苦しめるだけのポジティブ・ハラスメントではないのでしょうか。

首を締められたり、目潰しもされそうになって、殴る蹴るをされてきて、それをしてきた相手に「ありがとう」と感謝するのがポジティブなのですか?

それを赤の他人の一般人から求められるのでしたら、凄い世界ですね。

私は、そのような世界は怖くて仕方ありません。

 

 

偽のポジティブということで、フェイク・ポジティブとでも表現するとよいのでしょうか。

「フェイク・ポジティブ・ハラスメント」
頭文字をつなぎ合わせると「フポハラ」ですね。造語です。
「ポジハラ」のほうが分かりやすいでしょうか。

 

仮に「ポジハラ」と名付けますが、それらを行使できる人たちからすると、その対象は以下の図のようにでも観えて、まるで、独りだけ可愛そうな人にでも思えたりしているのかは断言はしません。

 

 

ですが、もし、それで心情を鑑みることも出来ずに、いたずらにポジティブ・ワードをぶつけたりするのでしたら、隠された憐れみなどが含まれた、上から目線による傲慢と思われます。

 

善意を装った何か? ー その不都合な真実

 

では、なぜ、痛みや苦しみを分かることすら出来ないのに、わざわざアドバイスめいたものをしてしまうのでしょうか?

つまり、分からないのに、なぜ言えるのでしょうか?

 

なぜだろうねぇ・・・

トンチンカンな・・・

 

 

とても不思議にも思えますが、一言で言えば、やはり偽善ということでしょうか?

優しい自分を魅せたい、慈悲のある自分でありたい、その心がけは一見すると立派で良いものに見えるかもしれません。

ですが、そのために痛みを抱えている人間を、自己満足のようなもののために消費しようという心理が隠されているのではないでしょうか?

これは暗に自分の満足のために、辛い状態の人を利用しようとしているという、とても身勝手で利己的な行いと言わざるを得ません。

 

ひょえ~

コ、コワイ

 

 

ですので、的外れなことを、いかにも良かれと思ってして言ってしまうと推察されます。

心理学的に観れば、もっと深い解釈が見つけられるのかもしれませんが、私は心理学者ではありませんし、今の自分の言葉で記したまでです。

 

どんなに頑張っても・・・人の痛み、その全てを理解するなんて・・・分からなかったりすることもあります。

仮に、自分が痛みを受け続けてきたからといってもです。

それで”全ての”他人の痛みが分かるなんてこともなく、もし、そう思っているなら、大変、おこがましいことではないか、と、私は思ってしまいます。

他人の痛みにも敏感にはなれるとしても、なんでもワカルなんてことがあるはずがありませんね。

ましてや、同種や類似の痛みを受けたことがなければ、ピンと来ないのも無理はなくて、それは言葉でどれだけ聴いたって、よほどの専門家でもなければ無理があって当然のようにも思えます。

少なくとも、私は、無理に分かってもらいたいなどとは望んでいませんし、それは届かない星に手を伸ばそうとするようなことだと思っています。

 

善意っぽい何かで無理に下手に掘り起こされるのは、傷口に塩をグリグリと塗られるような痛さがあります。

分からないなら分からないで結構ですから、そっとしておいてください、と思います。

 

過去にリアルで、分かってもらいたいと、何度も何度ももがいてきたことはあります。

きっと、分かってくれるはず

分かり合えるはず

 

フェイク・ポジティブに囚われ続けて、どれだけの年数、苦しんで、学び続けて、同時に、どれだけの大切な相手に望んできてしまったことでしょう。

そういえば、20代の頃は加藤諦三さんの書籍を、むさぼるように読み漁っていたのを思い出します。

でも、どうしたって、経験したことのない痛みを話や言葉だけで、本当の意味で他人に分かってもらおうなんてことは無理なんだと、最後には痛感してきました。

 

下手に無理してしまうと、癒やされたり満たされるどころか、かえって余計に消せない痛みが追加されることのほうが多くなってしまったりします。

 

※ 分かって欲しいなどとは望みませんが、美辞麗句の綺麗ごとをぶつけて抑えつけてくることは、しないでいただきたい、と、強く心から願います。

 

当事者でなくても分かるという専門家はごく一部であるものの、私の関わりの中でおられますが、その人ご自身が過去に、私以上の痛みを受け続けてきて苦しんできた人のようです。

さらに、年数をかけて積み重ねてきた学びも半端ではないようですが、その人は美辞麗句で綺麗ごとを、浅はかにぶつけてくるなんてことは間違ってもしてきません。

 

「我々は」というツイートへの違和感

 

今回、冒頭で記した、きっかけとなるツイートを発信した人が、どうにも、その痛みが分からずに発せられている反論リプの人に対して使っていた言葉に、一部、違和感のあるものがありました。

その中で、「我々は」という書き方をされていた部分ですが、沢山の同感リプをくれている、同種の痛みを抱えてきた「我々は」という意味と察しられます。

きっと、そのつもりではないのでしょうが、まるで何かの派閥グループの同志かのように、もしくは代表・代弁者かのような心理が見え隠れしているような・・・印象がしてしまいました。

かなり、数多くの熱い反響を受けたゆえでしょうか?

 

その方は(反論リプに対して)「クソリプ」といったような表現も、複数されていたり、他にも、小馬鹿にあざ笑うかのようなリプも複数していました・・・><

その言葉の裏には(分からないのに綺麗ごとを言いやがって、のような?)多少なりとも傷つけてやれという心理が見え隠れするようにも?感じられてしまい、寒さも感じました。

いずれにせよ、私はそのような言葉を他人にぶつけたくないので、その点は違うな、と思います。

対応するならするで、叩くのが目的になるのでしょうか?

自分が傷つけられたから、その多少に関わらず、他人も傷つけて良いのでしょうか?

 

目には目を、を

少しでもしたいの?

 

私は願わくば、小馬鹿にしたり汚い言葉、きつい言葉をぶつけることなく、できる限りは配慮して当たりたいなぁ、と思うだけです。

綺麗ごとではなく、「尊厳」という言葉は忘れないように自分に注意していたいです。

そりゃ、感情が高ぶると難しい場合も考えられますし、逆にオブラートに包むと分からなくなって、余計に伝わらないこともあります。

言葉の加減というのは難しいですね。

ですが、相手がどれだけ覚悟して聴く耳を持とうとしたとしても、初見者なのは変わりません。

そういうときほど深呼吸でもしたり、ワンクッションを置きながら注意したいなと、私は思いました。

だからといって、わざわざ、そのことに対してまで反論リプ?は、正直言って面倒ですし、必ずしも相互理解できるとも限らないと考えれば、今までも誰にもしてきていません。

蛇足でした。

 

なるべくなら、心のざわつきやモヤモヤは少なく過ごしたいもので、それを自ら乱すことはしたくないものです。
※ 本記事は未完です。文末までお読みいただき、誠にありがとうございました。
 

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近ければ近いほど

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間違っていなかったんだ

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そう 一人でも感じてもらえたら

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