何かと多忙状態が続いており、あっという間に、投稿がご無沙汰しておりまして失礼しております。
では、早速、本題に入りますが、以下に記したのは、私自身、その全てがしっくり来ているわけではありませんが、現時点で言語化できる範囲で記してみたものです。
まだ、書き手として色々と足りないものがあるな、と未熟さを感じながらも、拙文でも書いてみることで次のステップへの(自分自身にとっての)呼び水の一滴になればと思い書いています。
重たい内容とも思いますので、苦手な方はスルーしていただいても結構ですm(_ _)m
悟り系?の言葉
もし、何かしら、理不尽な痛みを背負わされてきた経緯を、少しだけ誰かに話ししたとします。
その話を聞いた人から・・・
きっと
必要な経験だったんだよ
このようなことを言われたら、どう感じるでしょうか?
- 「うん、なるほど、その通りだな~」と思う
- 「なんで、そんなこと言われないとならないのか」と思う
- 「いやぁ~、素晴らしい教え!」と思い、崇め奉り手を合わせる
- 家計を圧迫させてでも、お布施する
- その場では笑顔でやり過ごして離れる
- 悶々とする
- 腹立たしくなる
- 許せない
- 静かに、そっとフェードアウトする
賛否両論あるでしょう。
最近、Twitterで話題となっている投稿を見かけました。
(念のためですが、投稿主と私は何の関わりもありません)。
投稿へのリンクを、以下に貼り付けいたします。
毒の親関連の話題が多い人間ですが、定期的に頂くコメントで破壊力のあるものはですね。
「その毒親が居たからこそ、辛い経験があったからこそ、今の貴方があるんですね。必要な経験だったんですよきっと。」
てやつです。ナイフで心臓刺されたみたいになるから辞めて欲しいですはっきり書きますね。
— HaniwaFactoryはTシャツ作家です。 (@haniwafactory) 2018年11月4日
上記のTwitterアイコン をクリックすると、一連のツイートや一連のツイートや、リプ(返信)が読めます。
内容が多数です。追っていくと、何を言いたいのかが観えてくるでしょうか?
言葉の使い方(状態)など様々ですが、色々な心の声が言語化されていると感じました。
私も類似の経験がありますので、これらの言語化を観ていると、なるほどと思えてしまうものも多々ありました。
分からないのにアドバイス……??
きっと
必要な経験だったんだよ
その痛みについて当事者でもなく、痛みについて説明されてもよく分からない第三者が安易に口にして良い言葉でしょうか?
ツイートの一連のリプなどを観ていると、色々と説明もされているのに、その痛みについてはピンと来ない方の発言だったようです。
なぜ、言えるのか謎のように見えますが、その点について、ここでは文末に紹介リンクにて触れていきます。
苦しみから脱し切れてていない段階の時に言われる言葉で、とても痛い行為になってしまうこともあります。
刺すほうは痛いとも思わないから出来るのでしょうが、言葉が刺さる、まさにこの状態で動けなくなる、気が付かずザンコクになってしまう場合もあります。
それに、必要だったのかどうか……
例え、例えです、仮に、その意味・価値などがあったとしても、それは、いつか本人の心の中で思い決めることではないでしょうか。
決して、他人からとやかく言われるものでないのは、言うまでもないことのように、私は思うのです。
もし、いつか……「意味があったんだ」的に昇華できたとしても、それには尋常はでない障害となる壁と、言葉で言い表せられないほどのまとわり付く苦しみがあるのです。
間違っても、受け売りのような借り物の言葉で触れて良いものとは思えません。
私も類似の経験をしてきたからこそ、観えるようになったものや、伸びた力が仮にあったとしても・・・
間違っても、こうは言われたくないわけです
苦悩の反動で、気がつけば何かの才能みたいに伸びたものがあったとしても、手放しに喜べるものではありません。
それには望んでもいない苦しみが、ニコイチのセット販売のようなものとして付いて回っているからです。
ニコイチとして、デメリットのリスクも多く付いて回っているという意味であり、それは両刃の剣のようなもので消えてなくなるわけではありません。
私程度の小さな成長でも、どれだけの足掻きを続けて、その挙げ句に、どれだけの犠牲を払ってしまったか……。
多少、内訳を話ししただけで、波乱万丈だねぇと言われたりもしてきましたが、それを正当化したり、正義だなどとは、到底、私には思えない愚です。
先にあったのは苦しみで、苦しみを望んで欲しかったわけではありません。
どれだけ、そんなのがない中で生きてきたかったか、いわゆる「普通の~」に憧れたか、キリがありません。
それでも最終的に「必要だった」・「良かった」と言えるとしたら、それは昇華しきった本人だけであり、その道程は決して容易くはないでしょう。
これはもはや、前時代的な過去の遺物のような視点で、このような捉え方が、どれだけの弊害を生み出しているかに目を向けていき始めている時代です。
出来るなら、誰も泥水をすすりたくはない、のではないでしょうか?
仮に、自ら進んでしているとしても、そうせざるを得ない何かがあるから、そうしているだけです。
「買ってでも」と思うご本人がお買い物したら良いだけで、あなたも買いなさいと、少しも求められることではありません。
求めすぎると、モラハラ、パワハラと言われる可能性が高いかもしれませんが、詳しくは専門家に聴いて観られると良いかと思います。
名言ならぬ迷言造語
ここで連想して思い出してしまうのが・・・
「心理カウンセラー」を名乗っている、ある著名な人が流産した女性の方に、「魂が苦しみを求めた」・「前世で望んだから」などと追い詰めることを、” 笑いながら公言 ” しているのを、最近知ったことです。
えっ!?
なに言うてんの?!
これが、私が受けた第一印象でした。
最初、なにを言い出しているのか「?!」が続き、その内容などは実に聴くに耐えないものでした。
当然のごとく、SNSなどでも、かなり激しく叩かれているようです。
カウンセラーを名乗って、名言ならぬ迷言造語をぶちまけて他人様を追い詰めて料金をいただく前に、ご自身の闇や歪みにきちんと自分自身でフォーカスして欲しいものです。
また、こんなのがカウンセラーかと思われても、甚だ嫌だと思いました。
心理カウンセラーは、弱みにつけ込んでアメとムチを使い分けるようなカルト信仰の教祖でもなければ、苦しんでいる人を嘲笑する(←正反対すぎる)仕事でもないはずです。
基本的に、よほどの信頼関係や友情がなければ、いえ、あったとしても、神様・仏様でもない当事者以外の他人が、いきなり「必要だったんだよ」なんて言えることなのでしょうか?
必要だったと思えないと
ダメなんだよ
…… ここまでの勢いで言ってくる人もいますね。
もう訳が分かりませんが、その反応(反論)として思いつきそうなのが、もし、自分や自分の大切な存在が同じような目に遭っても、そう思えるのでしょうか、ということです。
そう思える
思うよ
・・・ 身近にいたらコワイですね。
この手のことを言う人ほど、いざ自分が何か望まない事故に遭遇したら、何倍もの大声で攻撃をしてくる、というパターンの人も、実際の知人でいたなぁ……と思い出しました。
自分に甘く、他人に厳しいという特徴もポイントのようですね。
仮に、交通事故に遭ったら
車にはねられたんだよ
運転手に感謝しよう
言えますか! 思いもしません。
言えるのは、痛みや怖さに寄り添うように受け止めて聴くこと、それに付け加えるなら、お見舞いの言葉ぐらいです。
いきなり、ハードな話かもしれませんが・・・
かつて知人だった女性で、中学生時代にレイ○に遭って、誰も(母親も)味方になってくれなかった方と、プライベートで知り合ったことがありました。
いつしか、その女性は事件当時の饒舌にしがたい話を思い出して、泣きながら私にしてくれたことがあります。
事件当時、その娘に対して母親は・・・
あんたが悪い
・・・と、何度も言ったそうです。
そして、
そんな事件を起こして
どうしてくれるの!
・・・とも、これも何度も言い放ったそうです。
警察のエゲツない事情聴取を受ける事態になったことで、感情的になった母親に怒られ続けたそうです。
これは実際に、その女性が泣きながら話ししていたこと、そのままです。
脚色なく話ししてくれたリアルだと、私は感じました。
その女性は事件から数年後、精神「病」になり、たくさんの精神薬も処方されるようになりました。
さらに数年経ってから私は知り合ったわけですが、その後、たまたま、その母親さんも紹介されてお会いしたこともあります。
パッと見では、どこにでも居そうなにこやかな、普通のお母さんに見えて、そんな過去があったとは聴いていなければ思いもしなかったでしょう。
「合理化」・「内面の防衛」のザンギャクさ
まだまだ氷山の一角で、世間ではもっと様々なリアルがあって、その全てがニュースになっているわけでもなく、水面下で知らないことのほうが多いように思えます。
いずれでも、あくまで捉え方を決めるのは当事者であって、他の誰かから言われることではないのだと自戒を込めて思います。
(許せなければダメ、絶対!)
許せるようになることは、心の解放のために大切かもしれませんが、心の解放を願うなら、なおのこと、微塵も押し付けられることではないはずです。
第一、それでは、許せない人は、ダメなのですか?と抑圧になってしまいます。
そんなつもりではなかったとしても、人間関係には同調圧力が伴いがちだと思います。
ダメなんだよ
現実的に生きていく上で、絶対に許してはいけないこともあると思います。
(誤解されないように付記するなら、これは仕返しの肯定という意味ではありません)
仮に、ナイフで刺されてもニコニコと許していたら、到底、生きていけないわけです。
許してしまうと、自分を全否定して消えてしまうかのように思えてしまう状態が続く場合もあります。
そこで無理しようものなら希死念慮に囚われたりして、本当に消えてしまいかねない危うさもあるわけです。
まず大切なのは、リプライの中にもあったように、当事者でもなければ、ただ受け止めて、ただ寄り添い続けることだと思うのです。
ただ、受け止められ続けること…… 私は、その意味を、もっと見つめていきたいと思います。
今回
きっと
必要な経験だったんだよ
……などと言ってしまう人の言葉の裏にある何かについて、以下の一連のリプライからも観えてくるのがあると感じました。
以下は、新聞記者の人の個人的なTwitterアカウントからのリプライのようですね。
私には、意外と的を射ているように思えました。
いわゆる「合理化」ですね。被害児側が言うのも危険な場合が多くて、傷の痛みを感じないようにしている危険性があります。当事者でない人が被害者に言う場合は、親子関係の神話性を失いたくないという心理が働いている可能性があります。自分の子ども時代に向き合うことを無意識に恐れている場合など。 https://t.co/Fm0vNXLNwg
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年11月7日
「合理化」・「内面の防衛」というところがポイントかな、と思いました。
一連のツイートを観ていくと読み取れるのではないでしょうか。
今回の事案に限らず、少しずつ……、じっくり学び続けていきたいテーマと、私は捉えています。
他にも、こういったツイートも見かけられました。
僕1人の経験則でしかないけど…
『助けたい人』『助けたつもりになって自分に酔いたい人』『自分より下が欲しいだけの人』『周りから優しいと評価されたくて弱者を利用したい人』のどれかって、接し方とか言葉の端々とかで何となく分かるんだよな。
取り繕えてるつもりでも多分相手にはバレてるぞ。
— まるるんず語録 (@marurunzmemo) 2018年11月11日
内面の防御と合理化のために、他人を利用して消費しようとして欲しくない、ということですよ。
— 白空(はくう) (@hakuuxyz) 2018年11月10日
(蛇足)
今回、一連のツイートを観ていて、その言語化の洞察には、なるほどと思えるものがあったとしても
洞察が進んで!
・・・などと、他人が、なぜか上から目線で言えることではないですから orz
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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