前回の記事の後半などで、いわゆる「毒親」というキーワードを、取り急ぎ部分的に用いて記した。
この表現の仕方について、最近の世間ではよく言われているので使ったものの、私にはどうも、しっくりこない感がある。
このキーワードに、いわゆる、という前置きや「」を付けたのは、そういう意味で自分の言葉ではなく、そう言われている言葉として引用のような意味で付けた。
私自身も長期に渡って「毒親」に毒されたほうだとは言えるが、それにしても、この「毒」というキーワードを用いること、気持ちはわかるが、どうもしっくりこない。
使っている人が多いから構わないというより、しっくりこない違和感も大事にしたいと思う。
Wikipediaで「毒親」に関する項目の後半部分で、おもしろい記述があった。
以下に引用する。
「毒親」ブームの問題点
毒親論は、その単純明快さもあり、アダルトチルドレン論をしのぐほどのブームになった。
斎藤学は、昨今の「毒親」ブームは、親を毒親とそれ以外に二元論で分けて糾弾し、過去と親にばかり注目し、一番大切な自分の現在と未来に目を向けない傾向などの問題があり、毒親本では「これからどうすればいいか」がおざなりにしか語られないと述べている。
毒親論は、自分の問題を親子間だけの直接的な原因結果論に単純化し、「毒親の子どもだから自分はもうダメだ」と考える宿命論になってしまっていると批判している。
(Wikipedia『毒親』より引用)
そう、ここに書かれている内容のようなことも感じていたのだ。
逆に、上記の内容は、私の胸にはストンと落ちるようにしっくりと来た。
ここの記述内容については、斎藤学さんという方の言葉を参考にされたらしいが、私はこの方の本はまだ読んだことがない。
Amazonで観てみると、「毒親」に関する書籍を出版されているようだ。
私は「毒親」という言葉の奥に、子ども向けテレビ番組で見るような、勧善懲悪のシンプルな二元論を現実に用いているかのような違和感も感じていた。
併せて、親を責めるばかりに流れて、自分自身の問題から目を背けるということになっているような風潮も感じていた。
(このことは、とんでもない辛さも伴うことなので、また別の記事で触れたいと思う)。
上記のWikipediaでのページでは「毒親」論の分析で
ひどく単純であるが故にパワフルな概念であり、善悪二分論的でわかりやすく、アダルトチルドレン論のような反精神療法的な「毒」がないため、「セラピスト」と呼ばれる臨床心理士が本を書きやすく、ブームとして盛り上がったと推察される
分かりやすくパワフルなため、ブームとして盛り上がったと、推察されている。
たしかに書籍などのタイトルに使うと分かりやすく、またウケやすいだろうと考えられる。
だが、「毒親」という表現が「ミスリード」であったとするツイートも発見したので後述にて触れておく。
そういえば、「鬼嫁」という言葉も流行ったなと思い出した。
Amazonで「鬼嫁」と検索してみたところ、ずいぶんと沢山の書籍に使われているようになったんだな、と私は感じた。
いやはやはや……。
それはそうと、「毒親」の代わりになる言葉が見つからないでいたが、Twitterを観ていて目に止まったツイートがあった。
新聞記者の方の、以下のツイートが一つの参考になるかもしれない。
私が”毒親”という表現を使わないのは、そもそも自分がこの問題に向き合い、自己解決した時期にこの言葉がなかったというのが大きいけれど、この言葉にも「虐待」と同様の苛烈すぎるニュアンスを感じてしまうからでもある。「愛にあふれ、善意に満ちた支配」を何より得意とする親が見逃されそうだから。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年11月21日
そう、逆に親に対する「虐待」や逆DVと同じようなニュアンスを受けるのである。
自分がされたから人にしても良いという、目には目をみたいなものが含まれてはいないか?とも、私には感じられるのだ。
いくらなんでも目には目を的に、闇を増幅させて復讐を肯定するのはないだろう、と、私は思いたい。
私も闇の心に囚われる時期はあったし、これからもないとは言い切れないが、それでは楽になどならないからだ。
私の母親にも言えますが「毒親」は決して反省しないのかもしれない、でも、だからなんだ!と、私は思う。(思うしかない)。
それなら、まず、なんとかして離れて、(ベタだが)人に変わることを求めるより、自分が変わればいい。
例え、何年、何十年かかろろうと。哀しいけれど、それしかないのだったら……。
そして、自らの言葉の使い方が、知らず知らず、心にも影響すると私は感じている。
上記のツイートをされた記者の方は、以下のようにも述べられている。
「児童虐待」という日本語より、「child abuse」という英語の方を、私は比較にならないほど評価します。虐待という言葉の持つあまりに強烈な印象が、この問題に関する日本人の感じ方・考え方をミスリードしてきました。「愛を装った子どもの支配・操作」──それがchild abuseの見逃せない側面です。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年9月13日
「abuse」には「力の乱用・悪用・誤用」という意味があります。むろん日本語の「虐待」の意味も含まれますが、範囲がずっと広い。子どもが置かれている苛酷な現状の根本には、この「大人の力の乱用」があるのは間違いなく、「虐待」という言葉はそれを誤認させます。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年11月11日
なるほど「abuse」、このほうが広義で意味を包括しているということか。
オンラインで使える英和辞典のWeblio辞書では「abuse」の主な意味について、以下のように記されている。
(↑読み方の音声などもあります)。
乱用する、悪用する、裏切る、(…を)口汚くののしる、(…を)虐待する、酷使する、そまつに扱う
(↑Weblio辞書より引用)
なるほど。知らなかった言葉だ。
一般的に周知されるようになったら、使いやすいかもしれないと私は思った。
今回、このブログ記事を書きながら、商業ベースでブームにさせられた表現を真に受けるばかりでなく、自分でも調べてみたり考えてみようとすることって大事だな、と、当たり前のことかもしれないが思ったりした。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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