「期待」より、「応援」

「期待」より、「応援」

 

このことは最近、私の周りではよく耳にするようになってきた感じがします。

そこで関連キーワードで検索して出てきた以下の外部記事を読んで、(スポーツに限らないとも私は思いますが)、そうだよなぁと腑に落ちます。

 

スポーツで「期待してるよ」と応援すれば、パフォーマンス低下を招く

 

「期待」と「応援」の違いは肝要と、私は思っています。

善意であっても「期待」には、期待する側の思惑や束縛が含まれてしまうことがありますから。

辻仁成さんの以下の記事も参考になるでしょうか。

 

辻仁成「太く長く生きる」(34)「期待」

 

「期待」から意味付けしてしまうと囚われてしまったりしませんか?

 

 

やっぱり、私は私、あなたはあなた、というのは、大事ですもんね。

頑張らなくても自分でいたほうが、うまく行くというのにも通じますね。

 

私は、静かな時間の中で、おだやかな心の中から、自然と沸き起こるような、そんなモチベーションが好きですし、しっくり来ます。

そうして、水を飲むように吸収し続けていって、呼吸するように表現していけたらいいな、と願うところです。

自己一致しているか、自己不一致か、この違いは大きいと思いますし、自己チェックするのも大事だと思います。

自己不一致が強くなるほどに精神衛生上にもよろしくなくて、ストレスも強くなりますし、逃げたくもなるかもしれません。

何が、自己不一致しているのか、を、ゆっくりと見つめて、 観えてきたものに無理に合わすのではなく、 自己一致のほうに、少しずつでも物事や人間関係・環境を調整していく……。

場合によっては、その間で痛みが伴うこともあるかもしれませんが……。

痛みはないに越したことはありませんが、子どもの頃(成長期)、身体が成長する時には関節や骨にギシギシとした痛みを感じるようなものかも?しれませんね。

「期待より応援」の視点で行けば、どこか期待が込められているような「頑張れ」より「楽しんで」というような声がけを、私はするようになってきました。

願わくば、柳の木のように、しなやかに……。

 

そして、自己一致、自分自身の根幹とマッチしているほどに、自分の予想などを超えて、惹き付けが起こったりします。

これは、怪し気なスピリチュアルもどきなどではなくて、こちらの記事で書いたような「Why」が根幹にあるものです。

 

「Why(なぜ?)」って?

 

傾聴の祖と言われる臨床心理学者のカール・ロジャースの言葉で、 「もっとも個人的なことは、もっとも普遍的なことである」というのがあります。

私は、この言葉が好きです。

自分自身でいようとすること、自分を活かすために私は私であろうとする行動においても、それがビジネスであっても、個人的な創作活動であっても、傾聴活動であっても、この言葉に通ずるものを私は感じています。

もっとも個人的なことであっても、深めて極めて行けば、それは普遍的なことに繋がっていく……と感じます。

それを強く感じたのが、傾聴サービスのほんわか倶楽部を立ち上げた後の反響でもありました。

 

ほんわか倶楽部に感じたこと

 

もっとも個人的なことから、もっとも普遍的に感じられるものが出てくる。

長く多くの人に受け入れられているような、ロングセラーの歌詞にも通じるものがありますよね。

これが惹き付けを起こすのは、文字にして書いてみると当然のようにも見えるかもしれませんが、それを体現するのは、沢山の足掻きなどが伴うのは言うまでもないですね^^;

完璧など出来なくても、凡人の私でも、ほんの少しでも近づいていけたら、と思うところです。

 

「応援」と「期待」と「パラダイム」

 

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