真っ暗闇の海から灯台を見つけ出す
辛く取り返しのつかない過ぎ去った日々を振り返って、後悔の渦に呑まれていませんか。
私自身、自分の思い込みや刷り込みから、ずいぶんと大きな間違いを犯してきました。
今までになかったほどの多幸感におぼれ、タガが外れてしまったのか、自分自身のアダルトチルドレンからの思い込みを、随分と押し付けてしまっていました。
取り返しのつかないことになってから、激しい喪失感にもだえ、どれだけ後悔し自責の念に苦しんだかわかりません。
今でも、思い出すだけで胸が苦しくなり、動悸が激しくなってきます。頭がぐらついて、めまいもしてきます。
本当にいたたまれない気持ちになりますが、今までの人生で最大といえる過ちと苦しみ、その痛みがあるからこそ、やっと、新しく踏み出した私がいるわけです。
過ちと苦しみ、その痛みは、ただ苦しみや痛みだけで終わらせてはいけないと感じています。
受け止めることはとても辛いですが、受け止めきって昇華していかなければならないと決意しています。
これを私は「消化して昇華」と呼んでいます。「消化」とは受け止めきることです。
真っ暗闇の海で漂流しているのは、誰でもが怖くて不安でたまりません。生きている心地なんてしません。
しかし、心の問題は、真っ暗闇の海に落ちても、自ら、方向を示す灯台を見つけ出すことが出来るのです。
相手を非難し、世間を批判して、自らをごまかしていたのではないか
私自身、自分の過ちを相手の器量や、今の時代のせいに考えていた節もあります。
「人間が小さいやつだ」、「なんで真意がわからないのだろう」、「今の時代も過保護すぎる」、「ぬるいんだよ」等々・・・。本当にそうとだけ思っていました。
同時に、自分がもっと優しく大きくならなければという想いもあったのですが、自分に対しては甘くなっていたという、なんとも恥ずかしい日々の使い方をしてしまっていました。
その後、取り返しがつかなくなってから、自分の様々な至らなさに対し自責の念に囚われると同時に、非難や批判の気持ちが強まったりもしました。
これが自分以外の誰かが言っていたとしましょう。
自分が聞いたら「そんなこと最初から分かっていたはずだよね。何をズレたこと言っているのか」と(口にはしないかもしれませんが)、内心で思ったはずです。
つまり、自分も今の時代に生きて社会の一部であるのに、社会に生かされているのに、それを批判ばかりするのでは救いも成長もありません。
同時に、自分も一部をなしている社会を批判ばかりしているのは、回り回って自分をも批判していることではないでしょうか。
人を非難する発言は、同時に自分にも跳ね返ってきます。
自己が大きければ、相手に対して、怒りではなく許しと優しさで包めるでしょう。
人に言う前に自らが成長しようとするのが本当でしょう。
それならば、社会に対して少しでも良い働きをして、些少でも価値のある影響を与えたいと真摯に考えるでしょう。
そうしていた時もありますが、段々と多くなっていたのは怒りや批判などの非生産的な感情でした。
自らのことも身近な人間のことも、周囲や取り巻く世間のことも受け入れられていなかったのだと思います。
環境の変化と責任の重さから、段々と内心では自分に甘く、他人に厳しくなっていたのです。
『7つの習慣』の第5の習慣には、相手を「理解してから理解される」とあります。憶えていたのですが、心の中でスルーして目を向けないようにしていたのだと思います。
そりゃ、巷の世間は良いことばかりではありません。そもそも、完璧な人間などもいません。様々です。子どもでもわかることでしょう。
大切なのは、良いところを意識して見るようにして尊重する姿勢でしょう。地獄言葉ではなく、天国言葉を使うことです。
そうしていた時もありますが、慣れない日々の大変さの中、忘れてしまっていた時が増えていたように思います。
イヤなところにばかり視点がいっていて、わざわざ、フラストレーションを増やしていたほうが多かった気もします。
自分の至らなさを転化して、少しずつ現実逃避をする言い訳にしていたように思います。
うすうす自覚はあったのですが誤魔化し続けていた末に、かなり痛い喪失で突き付けられました。
そこまでして得た痛みであればこそ、昇華させて役に立たせてこそ経験を糧にすると言えるのではないでしょうか。
(未完記事)
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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