「守・破・離」というプロセスの重要性

 

私自身、実践のために、まだまだ学び続けている最中ですが、その際には「守・破・離」を意識しています。

きっちりした敬意を持って「守」に取り組まずに、「破」や「離」に行ってしまうと煮詰まりやすく独りよがりで天井が近くなります。

 

「守・破・離」(しゅ・は・り)とは・・・ 

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人であった千利休、織田信長・豊臣秀吉に仕えて”茶聖”とも呼ばれたそうですが、茶道千家流の始祖として、あまりにも有名ですね。

その千利休が詠んだ和歌に、「規矩作法 りつくして るとも るるとても 本を忘るな」というものがあり、これが守・破・離の概念が広まる始まりであったと言われています。

茶道や華道などの習い事を体得して、進化させていくための過程として述べられています。

「規矩」(きく)とは「規範」の意味で、「本」とは「基本」の意味です。

または、およそ600年ほど前に能の世阿弥(ぜあみ)が説いた「風姿花伝」(「花伝書」ともいう)のなかで展開した芸能論の一部という説もあります。

能や歌舞伎などの稽古事で物事を学んで、芸・表現を身に付けていくための重要な成長ステップとして伝えられたそうです。

いずれにしても、モノゴトを身に着けていく際の最初のプロセスとして、現代でも重宝されています。

私は茶道や芸の業界に生きているわけではありませんが、様々な学びをしていく際に深く通じるものとして、肝要に捉えています。

 

「守」 ・・・ 

 

最初は、師の教えを清濁、併せ呑み、「型」を忠実に「体現」出来るように取得するステップ。 
  
(例) 箸(はし)の持ち方。格闘技の型。自動車の運転の仕方など。

ここを徹底的にしっかりさせておかないと、自分自身にご都合の良い浅い解釈で考えて使ってしまうことにもなりかねません。

それと案外、この「清濁、併せ呑み」というのが曲者で、メンタルブロックを引き起こすこともあり、ブレーキ要因ともなることもあります。 

教えてくれる人は、それが先生であれ師匠であれ、聖人君子ではありませんし、聖人君子を求めるものでもありません。

 

 根幹の目的からブレないことが大切

 【Q】 根幹の目的は、その場の自己満足を得たいことなのか? 

 【Q】 その場の自己満足ではなく、その先のビジョンやミッションのためではないのか? 

 【Q】 その先のもののためであれば、今、優先するのは目先の自己満足ではなく、どうすれば、もっとも効果的か、ということではないか? 

 【Q】 その目的は、なぜ向かおうとしたものか?

 

この、なぜ、Whyがあるのでしたら、そのことを優先して集中し続ける意識が肝要だと感じるところです。

その行動の先で、本当に求めるものは何か?に、心のなかでフォーカスするようにします。 

「継続は力なり」とも言いますように、継続してこそ、初めて、その先で見えてくるものがあります。

そして、それらは頭で考えた理屈などを超えているものも多くあるのではないでしょうか?

「清濁あわせ飲む」に思う先

 

「破」 ・・・ 

 

徹底した「守」で学んだ基本に自分なりの工夫を加え、自分にあった形で打破する段階。

「守」が甘いと、ここからのプロセスが単なる劣化版になるので、よくよく注意。 

 

「離」 ・・・ 

 

離れていく。基本を中心に添えながら、形にとらわれず試行錯誤して見えてきた、自分独自の仕組みや体制を創りあげていく。

ここで「知っている」と「ワカル」は違いますし、よく言われるように「ワカル」と「デキル」も全く次元が違うということを、肝に命じるように心がけます。 

知っている・ワカル・デキル・教えられる

まず模倣から入るのはモデリングとも言われ、大事なステップと言われます。

「学ぶは真似る」とも言われますね。

それはサルマネではなく、最低でも人まねレベルにまで引き上げなければ、現実には通用しません。

更に人まねレベルでも、その効果には、すぐに天井があります。

最初はわかっているようで、わかっていなかったりすることが、よくあると思います。

どこかで表面だけをなぞらっていては、どれだけ情報源があろうとも、時間・労力の浪費になりかねないこともあります。

・・・ 新しいことを始めるとき、サルマネになっていないか?という問いかけをします。

 

サルマネ、人真似を超えて、本当に伝わるオリジナルにまで引き上げられてこそ、自分自身のポテンシャルが投影されていくものとなると感じています。

ここを踏まえずに表面だけをなぞらって自己満足に走りますと、結局、期待する効果には程遠くなると予想されます。

そうして、目先、上手くいくように見えるものを新たに見かけると、つい、すがってしまうかもしれません。

結果、広く浅くは知っていても、実践の効果には結びつかない方も、巷(ちまた)には意外と多いと感じます。

知っている・学んだというだけの、まるで研究者のように知識をどれだけ持っているかを誇る話や自分に酔って、実際は効果がかなり低いというケースもあります。

お酒でもそうですが、あまりに酔っていたらフラフラ、自分の軸や足元がブレてしまいます。

このような繰り返しでは、仮にうまく行っているように見えても、瞬間最大風速、砂上の楼閣のようなものではないのだろうか?と思うところです。 

 

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