「真正面から受け止める」ということって

 

「真正面から受け止める」って、どういうことでしょうか?

応対をするときに、「上手にできるかな?」、「未熟なのが見透かされないかな?」等々・・・、もし、どこかに恐れをいだいていたとしたら、それは、知らず知らず伝わってしまうのではないでしょうか?

・・・ということで開き直るような心境も大事かと思いつつ、未熟ながらも徒然ってみます。

 

腹を据える

 

私は、大阪に越して2年目ぐらいの1999年に起業しましたが、実に駆け出しであったと思います。

その頃、ある経営者の方に「大阪では、相手の懐(ふところ)に入っていくことが大事やで」と言われたことは忘れられません。

小心者の私のビビリ心を見透かされたな、と思いつつ、その後も、この言葉の記憶があったことで助けられたことは多かったと言えます。

「相手の懐(ふところ)に入っていく」・・・今は慣れてしまったので個人的には普通の感覚なのですが、大阪は、その傾向は強い土地柄なのかも?しれませんね。

関わり方の気持ち次第で、ガラッと変わってくる傾向が多い、とでも言いましょうか。。。

仕事での関わりとしても、「本音で」というところが求められやすいほうかもしれません。

これは必ずしも、「昔ながらの浪花節」や「なあなあ精神」に寄っていく、無理に同意して合わせるということではありません。

 

「大したこと」をしようとしない

 

傾聴中でしたら、私は「大したこと」をしようとしない意識が働くようになりました。

集中もしますし、全身全霊にもなりますが、特別なことをしようとは思いません。

ここで、特別なことをしようとしないとは、自らの主観やうんちく、テクニックなどをひけらかす方向にはならない、という意味です。

決して、勝負をするのでもなければ、試されているわけでもないと捉えます。

ですので、もし、傍から傾聴中の姿、その表面だけを観ていたとしたら、何てことないことをしているように観えるかもしれません。

クライアント様が何を求めているか、今、どのような状態か、このことに可能な限り心を研ぎ澄ませて、同時に「傾聴の目的」を内心で踏まえつつ応対します。

当然といいますか、ここで自らの主観などは優先されず、クライアント様の心の声を受け止めようとする自他の姿勢に集中することになります。

「できるかな? できないかな?」なども、どうでも良くて「するか? しないか?」だけモードに、私はなります。

このことは、“そうしなければならない”とマニュアル思考的に思っていても、言葉の端々のイントネーションなどに表れてしまうのが現実でしょう。

つまり、義務感やマニュアル的に考えても出来ることではないので、その意味や意義を頭で考えるだけではなく、腑に落とせているかどうか?・・・ではないでしょうか。

もし、腑に落ちていないのなら、腑に落ちるまで学び続けて考え続ける自助努力、それが仕事の姿勢だと思っています。

そもそも完璧になどできるわけもないので、完璧さも求めず、集中しつつ、ゆったりとしたリラックス集中のような状態ですね。

傾聴の目的」が内心で浸透している状態で聴いているかどうかによって、相づち・伝え返しなどの瞬間瞬間にかもし出るニュアンスの違いにもなります。

「目的」もなく歩いていたら、どこに向かうかふんわりしていて、あっちに行ったり、こっちに行ったり・・・。

ネガティブな話が出てきたら、受け止めるだけならまだしも、流されたり、心の中で拒絶反応が出たり、しまいには励ましたりアドバイスしてみたり・・・。

そうして、いつしか、もはや「傾聴」っぽいだけの別ものに・・・orz

 

「目的」を内心で見据えていたら、単に目先の言葉だけを聴くのか、言葉の奥にある主訴に耳を傾けながら聴こうとするのか、その違いは表れますし、伝わります。

傾聴の目的」の順番には意味があり、「1」があってこその「2」です。

「1」だけでも、なかなか、スグには達しられず、とても長い期間がかかることも、堂々巡りばかり続けてしまうことも、少なくないのだろうと思います。

もし、少しでも、些少でも・・・

打開して進むための、お手伝いを続けさせていただけるなら・・・

そして、いつか・・・

昨日までがあったからこその、明日が見える、となりますように願い続けたいところです。

泥水の中から、キレイな花を咲かせる蓮の花のように・・・。

 

落ち込んでいても、いいんだ。

 

生きていると、色々なことが発生しますよね。

必ずしも、キレイな心地よいことばかりとも限らず、生き辛さや理不尽などを感じることも多くあるかもしれません。

落ち込むときや、絶望や怒りや恨みなど、ダークサイドにさいなまれるときだって、私もたくさんあったりします。

ドロドロした感情や想いが、長い年月に渡って続いてしまう場合もあるかもしれません。

まるで、長い永い先の見えないトンネルに、たった独りでいるかのような状態です。

 

そのような時に、強引にキラキラで覆い尽くそうとすると、より悪化するのは明らかです。

励ましもアドバイスも必要なく、ただ受け止めて欲しい・・・ということが痛切に必要なときもあります。

 

 

ここで「助けてあげる」・「救ってあげる」なんて、まるで、おこがましいのではないでしょうか。

そう思っていたりすると、高熱を出しているお相手に「寒風摩擦しましょう」なんて、ズレた見立てにもなりかねないのではないでしょうか。

はじめてのカウンセリング入門(下)ーほんものの傾聴を学ぶ』(著・諸富祥彦氏、出版・誠信書房)には「心理カウンセリングの最強の手法は「ほんものの傾聴」である」と書かれております。

私も微力ながらでも、目指したい所です。

 

 

傾聴の場で「そのままを受け止める」とは、決して、ウンウンと聴いていれば、それで良いというようなことではないと思います。

傾聴を舐めてはいけないところですね。

 

 

そのままを受け止めて返す、という大基本を踏まえつつも、リアクションの深さや適度な強さ、バリエーションや柔軟性も求められるところです。

「強さ」とは、必ずしも「はい!」と強く言えばいいということではなく、ピアニシモ♪のように繊細になど、お話の内容や波長に合わせて変わりますね。

繊細な強さ、とも言えます。

ピアニシモ(pianissimo)は、「とてもソフト(”very soft”)」という意味の イタリア語の単語。 音楽用語. ソフトな音を指示する記号

(引用元:wikipedia

 

「はい!」と強い返事も多少は良いかも知れませんが、そればかりされていたらリラックスできませんし、ぶっちゃっけ、うっとうしく感じられたりしないでしょうか?

聴き手さん
はい!

聴き手さん
はい!!

聴き手さん
はい!!!

話し手さん
・・・

 

要約による伝え返しが多すぎるケースもそうですが、「私は聴いているぞ!」サインが強すぎる、と言いますか・・・。

心のベクトルが、どちらを向いているか、です。

「自分」なのか、「お相手」なのか?

「自分」になっていると、聴いているぞ!サインが供給過多になってしまうことがあります。

 

そのままを真正面から受け止められることが最優先の状態のお相手に、励ましやアドバイスは、かえって逆効果になる、この基本の実感は忘れずにいきたいものです。

例えるなら、砂漠を歩き続けてきている人の「水」を奪うような、風邪で高熱を出している人に、健康のために運動しようと言っているような・・・。

そのようなことに、なり兼ねないのではないでしょうか?

 

「○○さんは、全然、ダメなんかじゃありません」というような励まし・・・。

では、落ち込んでいる自分は受け止められないんだ(否定されるんだ)と感じられること、わかりますか?

「心が落ち込むことはイケナイコト。落ち込んでいなかったら、自分を責めていなかったら・・・受け止めますよ」という条件付けになっていませんか?

そこに「励ましている私って素敵」などというキラキラ自己顕示は、一切、含まれていないと言い切れますか?

決して、キラキラを否定しているわけではありませんが、使うタイミングかどうか、ということです。

そもそも励ましているかのようで、その実は否定されて、しっくりも来ませんし、しっくり来なければ、素直に聴けるわけもないですよね。

せっかく、目指すなら取って付けたようなものでも、表面だけのものでもなく、本当のキラキラを目指したいものです。

 

または、自分の存在価値が見えなくなっている状態のお相手に、「○○すれば良い」という方法論のようなアドバイス・・・。

“見えなくなりつつある状態”の時に誘導されても、心の交通渋滞を巻き起こすこと、実感できますか?

方法論より、今この場!で、真っ直ぐに受け止められることが優先される状態の時に、傾聴が有効となります。

今この場で!、痛切なまでに受容されることが必要な状態ということもあります。

 

 

「落ち込んでいる自分でも、真正面から受け止められる存在なんだ」ということのほうが、ずっと何百倍も大事だと、私は思います。

先ほど、風邪で高熱という例えを使いましたが、大事なのは「自己回復能力」を信じて、風邪なら風邪という状態を受け止めることから始まるのではないでしょうか?

風邪という状態を受け止められたら、無理矢理にがんばり続けてきた状態を止めて、休むことも考えられるようになる可能性が出てきます。

もし、カラカラに乾いた砂漠を歩き続けてきたのなら、まず、「水」を飲むことが最優先されるわけです。

この「水」とは、「自己肯定感を実感すること」を指します。

 

 

「落ち込んでいることを受け止めたら、さらにズルズル行くのではないか?」と心配になるかもしれません。

お相手は、どうにかしたいけど、どうして良いかが見えていないから話ししている、とも考えられます。

それを、とことん本気で受け止められるだけで、自己回復能力が、少しずつでも取り戻せていったりします。

文章で見ると「不思議と」とも思えますが、実感し続けていくと腑に落ちていくようになりますね^^

結局は、何をどう言われようと、自分の人生は自分次第ですので「自己回復能力」や「自らの内観から湧き出る、自らの方向性」が、もっとも重要なのではないでしょうか?

 

 

注意点としては、ダークサイドの感情を「○○のように感じているんですね」等のように受け止めはしても、ダークの背中を押すような反応はしない、ということですね。

まちがっても「もっと憎みましょう。懲らしめましょう」等々、怖いですし、ありえませんね^^;

 

ピントのズレは、どこから?

 

知識やテクニック、スキルも大事ですが、それは「在り方(Being)」によって使い所が変わってくると思います。

同じようなテクニックを持っていたとしても、ピントのあった使い方になるかどうかは「在り方(Being)」次第ですので、気を付けて意識していきたいところです。

自らの心の整え方、心の癖(習慣)に対する姿勢も、おのずと問われるところだと思います。

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