傾聴するなら、話し手の方に「安心して」欲しい…。だけど…

真摯な傾聴に伴に向かいたい方に、私への思いを綴ってみました。

 

○ 話し手の方に「安心して」いただきたいのは、私もです。

 

ここは傾聴者を志す方なら、きっと多くの方が共有ゾーンだろうと、私は推察しているところです。

価値観の共有ゾーンを表すイラスト画像

 

そこで傾聴の3つの基本態度条件の中でも、もっとも大事とされる概念として『自己一致』があるのは、傾聴を志して少しでも学ばれたことがおありでしたら、ご存知の方も多いかと思います。

そのような「自己一致」について、ご自身と照らし合わせて考えてみるのは、とても大事ですね。

大事なのですが、考えてみるときに私自身も含めて、そもそも「自己一致」という概念を、ちゃんと分かっているかどうか?、「自己一致」という単語を表面上の印象だけで捉えてしまっていないか、と、いつも気になります。

ここではあくまで、痛切なズシーンとした自己否定感を奥に内在しながらも、それでも巡り巡って、とんでもない勇気を持って来ていただける方々に向けた傾聴、そこにおける「自己一致」に思いを馳せて記してみます。

難しいような話・曖昧な話もあるかもしれませんが、難しい話を難しい話として、曖昧な話を曖昧な話として、そのままを受け止めて理解していこうとするのが傾聴です。

または傾聴に対する自発的な学習を様々、重ねてこられてから、この記事に戻ってお読みいただけると、しっくり来るところが増えるかもしれません。

また大前提として、傾聴の3つの基本態度条件とはやり方(Doing)ではなく、在り方(Being)からの流れによるプロセスです。分かりにくいですが、何度も噛み締めるのが大事だと思います。

そうなっている(例えば、共感している)状態というのも、そのプロセスの結果に過ぎないため、「共感は"状態"ではなく"プロセス"である」と、晩年のカール・ロジャーズによって述べられています。

この視点から考えれば、仮に「安心してください」という言葉を使わずに「安心していただきたい思い」を叶えたいとしたら、それこそ基本態度、つまり、態度から感じられるものに他ならないのではないでしょうか。

そして、それを具体化していく最たるものの1つが、「傾聴」ではないだろうか、と、私は実感しています。

 


  • 傾聴においては、結果として「安心していた」…というだけで、「安心させたい」から「(Doingで)安心させようとする」としたら、聴き手の思惑が入っていて恣意的・操作的な誘導にもなりかねず、明らかに本来の傾聴ではないように思います。

  • もしくは、上記を傾聴だと述べるとしても、この記事に書いてある内容を振り返っても無理があるように感じられて、無理に傾聴と述べたとしても、失礼ながら「浅い傾聴」(もどき)とも言えます。

  • 浅い傾聴で良い方には良いのでしょうし、自己満足する権利は誰にでもあります。それはそれで否定はしませんが、ここではそれで済まない状態の話し手の方を想定して記します。

  • もちろん、「言葉で言わないと伝わらない」ということもありますが、わざわざ「言葉で言ってしまうから、伝わらない」というのもあります。言葉にした瞬間に、一人歩きして別物となってしまう場合も往々にしてあるからです。
    (私も言葉を使っていますが、「言葉を使うというのは諸刃の剣」でもあります。)

  • 傾聴において大切なのは、言葉の意味よりも"感じ"であり、ここで「言葉の意味」よりも(言葉を使ったとしても)"感じ"を醸し出すのが大事なのであって、意味を伝えようとするのは「安心していいのですよ」とアドバイス、または励ましになるのではないでしょうか。


 

詳しくは後述していきますので、部分を切り取らずに全体を捉えていただきましたら幸いです。

下記より、どうすれば、関わりの態度から「安心」なり何なりを感じられる傾聴に近づいていけるのか、私なりに考えてみます。

 

○ 感じる懸念から…

 

もし、とてもとても辛く苦しい心の状態の方に向けた傾聴の場で、自分の思いや自分軸を、どことなく押し付けるかのようなニュアンスを感じられてしまったとしたら…どうなるだろうかという懸念があります。

もしかしたら、「寄り添う」と「押し付ける」は、紙一重なところがある?のかもしれません…。

仮に「押し付けているつもりはない」のだとしても、それは相手がどう感じるかと見たら、「事実と意見はチガウ」ということもないだろうか…です。

そのとき、来談者中心療法(話し手軸) ではなく、聴き手中心療法(聴き手軸)のほうにベクトルが向いていくのではないかという懸念を感じます。

(傾聴は、来談者中心療法のベースとなるスキルであり、一部の手法として生み出されたものと私は教わっています。)

 

前述の「懸念」というのは、世間一般でも誤解されやすいためです。

その誤解に向けて端的に、一言で述べてしまうなら、自己一致とはエゴを出す概念ではないのではないでしょうか。

なぜなら、「自己一致」とは、傾聴のための概念だからです。

もう少し詳しく記すなら、来談者中心療法やパーソンセンタード・アプローチのために傾聴は生み出されて進化してきたのであって、そのための基本態度条件のうちでもっとも基本となる3つ、その3つの中でも一番大事とされているのが「自己一致」だからです。

もし、エゴに一致している様を進めていったとしてら、下手したら「ワガママ」になってしまうのではないでしょうか?

それは傾聴とは、まるで違う世界の概念だと、私は思っています。

 

○ なぜ?の本質へ向かいたい

 

では、なぜ…?

傾聴の場で「安心してください」的な声がけを述べることは、必ずしもエゴとは言いきりませんが、どことなく、その臭いを感じさせてしまうのでしょうか?

まず、「安心するかどうかは話し手ご自身の感情であり、傾聴の場は話し手ご自身の感情を、そのまま受け止めていく」というのが、大前提としてありますね。

かつ、ここで「安心してくださいね」的な言葉を述べてしまうことにより、「話し手さんの気持ちを誘導してしまう」というのがあります。

話し手さんの気持ちは、話し手さんのものであり、安心するかどうか感じるのはその方次第であり、別の人間が決められるものからではないからですね。

この点は、参考の一つとして『プロ心理カウンセラーは絶対に言わない無駄な一言』などの無料動画も、私は何度も何度も、じっくり視聴しました。

 

○ 気が付きにくいから、まずは「型」がある

 

どうしても、知らず知らずエゴが出てしまっている時は、優しい気持ちからであるほど、なかなか気が付つきにくいというのがあります。

性質的に私たちは、つい誤解してしまいやすいのだと思います。

「エゴを出さないようにしよう」と思っても、内心で感じていたら、それはどこかで滲み出ます。

「出さないようにしよう」として「表には出さない」としても無くならず、「自然と出ていない状態」に、どのように近づいていくか、そこに本質に向けての小さな一歩があるように私は感じます。

本質は根っこであって、枝葉のやり方などは根っこがあるからこそ、縦横無尽に生えてくるものです。

枝ばかりに囚われていたら根っこのほうに目はいかず、土の下はどうなっているか… など考えもしなくなってしまうかもしれません。

また、「自己一致」とセットにされている基本態度条件の1つで「受容」もありますね。

ここと連なって話し手さんの「自己開示」もありますが、ここは「自己暴露」とも違います。

(詳しくは、また別の機会にします。)

 

○ 何故だろう…?

 

誤解が生じやすいのは、何故だろうと思いをすこし馳せてみました。

そのために、まずは傾聴マインド(傾聴者としての在り方)とは何か?を少しずつでもちゃんと知っていき、その本質を感じていくのが先だと思います。

無料で出ているような動画は、参考の1つにはなりますが初心者向けのものに過ぎず、あくまで呼水のようなものでしょう。

ただ有料のものは権利関係を踏まえても、さすがにシェアできません。

 

そして、無料の動画やテキストなどで「傾聴では○○をしない」というような内容があったとしても、それは「使えない」というより、本質を分かって感じていくほどに「自然と出てこなくなります」というものです。

または、あえて使わないというテクニックじみたものというよりは、その在り方であれば自然と出て来ないわけです。

先ほどの「エゴを振りかざしてはいけない」と思って、内側に留めてみるに似ていますね。

ですが、内側に留めていても有るものは有るため、「〜してはいけない」だけでは身に付きません。

それでも、まずは出さないというところから知っていき、出さないでいるときに、内観でどう感じるかを見つめていくところから始まるのだと思います。

その上で、「ここでエゴを出してしまっていたら、一体、どうなっていただろう」と知って感じていくほどに、自然と出さなくなっていくのではないでしょうか?

それよりも人としての気持ちで考えれば、到底、出す気にならないような場面でしたら、自然と出てこなくなるのではないでしょうか?

 

極端な例えで、葬式の最中にその場所で「心配ないからね〜♪ きみの思いが誰かに届く〜♪」などとは、もし仮に思い浮かんだ人がいたとしても、さすがに歌わない…

… もし、歌ってしまったら … 白い目で見られますね。

きっと、そんな歌いたいとすら思わない人ばかりが世間だと考えたいですが、歌わない人は、そこに違和感も矛盾もなく自己一致していると思います。

ではもし、心が葬式のようになっていたとしたら、そこに参列している方々に「大丈夫ですよ」とは言えないと、私は心から思います。

ただ、そこに伴にいる(プレゼンスの)姿勢は続けたとしても…

 

… 段々と本題に向けていきます。

これらの前振りが必要だった意味も、本質を読み取ろうとしている方には、きっと感じていただけるのではないかと思っています。

 

○ まず、後にも先にも…

 

もしかしたら、これも人によっては誤解されやすいところなのかもしれませんが、テクニック(Doing)よりも、まずは在り方(Being)です。

何を言うか言わないか(Doing)よりも、傾聴の本質(Being)に近づくプロセスを歩むのが重要です。

「傾聴では〜はしない」の全ては結果論であり、そこだけにフォーカスすると誤解しやすくなっていきます。

それでも、まず結果論から伝えられやすいのは、まず、逆のことをしないという「型」を知るための前振りでもあります。

もちろん、前振りを知っただけで本質が分かるわけではありません。

 

○ 「型」から

 

それでも前振りから進めないと、これまた何も伝わらず、伝わったとしても、とても哀しいことに多々の誤解をされやすいのが「傾聴」でもあります。

かつて、カール・ロジャーズ自身、世界から数々の誤解や歪曲を受け続けて、相当、落胆した時期が長期にあったと聞きます。

型すら身に付けていなければ、かたなしとも言われるように、まず、傾聴耳・傾聴口に馴染ませていくのが大事と、よく言われます。

このような意味では「傾聴は100%スポーツと同じ」とも言われます。

そして、これすらも、ほんの触りに過ぎません。

 

○ まず、ちゃんと知っていくところから

 

ここまで書いていてなんですが私個人などの考え以前に、傾聴とは何なのかを、私たちは真摯に知っていく姿勢を保ち、近づいていこうとするのが大切だと思います。

自己一致は、とても奥が深く難しさもある概念ですが、その言葉を口にする私たちは本当に知っていると言えるのでしょうか?

私は「はい」などとは、本心から言えません。

自己一致だけに限らず、傾聴全てにおいてです。

仮に、口にして何かを述べる場面でも、私はこの気持ちを何度も噛み締めるようにして認めて認めて、その上でも口にする必要のある場面でしたら、半分開き直って話しているだけです。

おそらく一生、自信があるとは言えず、そこに自分のエゴを親切心で気がつかないうちに、または認識不足で混ぜてしまわないよう自己対話を続けながら、一生、追い求めていくものなのだと、それをしようと心底、本気で私は思っています。

 

間違って「おせっかい」と思われるような勘違いも、私はしたくありません。

もし、自分の中で傾聴への疑問や反感が出てきたら、「まだまだ、分かっていないところがあるのだろう」と思って、学びを深めるほうにシフトします。

(ちなみに今の私は「傾聴への反感」は、本当に何も出てこないようになりました。)

 

とあるS先生も、私に述べてましたが、「傾聴しながら、ある程度はあったとしても、"完全に自己一致"するなんてことは、初心者の方にはありません。」という言葉も印象的に感じました。

なぜなら、自己一致の意味も分かり切っていないからでもあり、私もまた分かり切っていません。

「ワカル」よりも「自己一致」そのものが、まだまだ知れてもいないからです。

「知る」の先に「ワカル」があり、「ワカル」の先に「デキル」がありますね。

そのため初心者の段階であるほど、自己不一致も感じながら進めていくのも必要なときがあります。

 

ですので、ここで何が自己一致が何かの本格的な結論は私には出せませんが、少なくともお金と時間をかけて学び続けてはいるところです。

その上で、その範囲内でしたら、明らかにズレているものは感じ取れます。

基本には基本の意味があるのを知るだけでも、傾聴や来談者中心療法においては、実はかなり奥深くて、知れば知るほど、自分は知っていないのだと私は感じます。

「あぁ、きっと、このような感じが「無知の知」なのかなぁ」とも、自分としては思ったりします。

まず、自分が知らないということを心から知るのが大事なんだなぁと、私は感じて、その感じも大切に大切にしたいと思っています。

 

○ きっかけは「型」からであっても…

 

傾聴の場において、私たち、ほんわか倶楽部では「安心してください」や「大丈夫ですよ」などは使わないようにしています。

最初は「使わないようにする」ところから、「自然と使わなくなって」来ています。

「使わない」というよりも、自己一致して自然と「出てこなくなってきた」というほうに近づいてきているところです。

それは最初は、前述にも出した参考例として『プロ心理カウンセラーは絶対に言わない無駄な一言』などの動画を参考の1つにさせていただくところから始めまたとしても、今となっては私は自己一致して、その無駄な一言は出てきません。

自分自身としての理由も、かなり具体的・明確にありますため"後述します"。

 

○ 自己一致して、自然と「出て来ない」ようになってきた

 

まず、「安心してください」等々は、自分軸であり、聴き手中心の言葉ではないでしょうか?

私は心から、そう思いますが、最初からその感覚に気が付けていたわけではありませんでした。

ですので使っていた時期もありましたが、現場で使っていくほどに違和感が出てきたり、なぜかうまく行かなくなったり…

冒頭でも記したように、話し手の方に安心していただきたいのは私もですが、ほんわか倶楽部に来られるクライエントさんは…

 

○ 決して、大げさでもなく、極端な例でもなく…

 

現実として…

実に敏感でセンシティブで…というだけではなく…

一部だけピックアップするのならば…

 

八方塞がりの抑圧を受け続ける現実・根強い対人恐怖・または人間不信・自分自身への無価値観・全身を包み込むかのような自己否定感・存在していることすら罪悪感・自責の念・自己嫌悪・虚無感・閉塞感…

何度もくり返し来た失望を超えた絶望、脳を蝕むかのような強烈な孤独感などなどが、まるで当然のように降ってくる日々…

数々のハラスメントを長い年数受け続けて、身内や近しい人から拒絶もされたり、無視され続けたり…

ずっと否定や抑圧・利用され続けたり…という機能不全の現実…

 

理不尽で不条理で、差別的な毎日から、誰にも何も理解されずねじ曲げられて評価・分析・ジャッジメントされて、まるで逃げ場所も見い出せないかのような…

虐待を受け続けて命に関わるような場面もあったのに、「そんな事実はない あんたの思い込みだ あんたは狂っている」と、逆ギレされて責任転嫁されて開き直られたり…

「親がいたから、この世に存在できるんでしょ」・「もう大人なんだから、いつまでも、そんなことを言っていないで、親を赦(ゆる)して感謝しないと…」などと言われて、惨めで情けない気持ちになったり…

 

「私は、いつまでも感謝すらできない、ダメな人間なんですか?」

「もし、そのまま生きていたとしたら、私は赦(ゆる)されないのですか?」

「(ひねくれて言っているのではなく、本心から)… そんな私は存在していては、いけないのですか?」

「みんなが私から離れていきます。私も自ら離れていきます。」

「「何を話ししても大丈夫」と真剣に言ってくれたから、勇気を持って話したら離れていく…。そんなことばかりです…。」

「「また話を聴かせてね」と優しく言ってくれたから、数日後に連絡したらブロックされていることが分かって、あぁ、やっぱり…と思って驚きもしませんでした。」

「他の人同士は仲が良かったりするのに、私の前でだけは口だけの人が多いんだと痛感してきて、私はそんな人間なんだとつくづく感じています。」

「私はみんなから見て、ずっと対岸にいるようです。」

 

「ずっとずっと、寝ても覚めても暗い海の底にいるかのような… 外は天気も良くて明るくて明るいのに…」

「電車、信号、自転車や車、散歩させてもらっている犬、大人に手を引かれながら歩いている子どもたち、平然と行き交う人々… なぜか、私は見ているだけで、ドバッと涙が溢れ出てしまいます…。」

「他人も信じられなくて怖いし、そんな自分も信じられなくて、情けなくて弱いなと痛感してしまっています。」

 

「それでも本当に? こんな私でも「大丈夫」と… 心から安心させていただけるのですか?」

「一体、一体、私の何が大丈夫なのか、どんなに何年も何十年も考え続けても、私には皆目わからなくなっています…」

「きっと、誰に話しても、こんな私のことは理解どころか、一切、受け止めてももらえないと、変な話かもしれませんが、心からそう感じてしまっています。」

「それでも… 私はあなたを、最後の砦のように信じたい気持ちです。」

「でも、どうしても不安になってしまうのが、もしかしたら、そう言うことで、あなた自身が「安心」したいなどという、決してそんな動機からではないんですよね?」

「こんなふうに疑い深くなってしまっている私なんて、嫌ですよね…すみませんでした…ごめんなさい…」

「やっぱり、ご迷惑になってしまいそうな気がするので止めておきます…失礼しました…」

 

なんとかして死にたいなどの自殺願望、またはずっと付いて回る希死念慮を感じて、食欲不振、寝る時間があっても睡眠不足、胃や肩や頭のズーンした重さ、嘔吐、めまい、身体や意識がフラフラ、後頭部に常にダークグレーの光化学スモッグがかかっているかのような心境、身体の震え・動悸・息苦しいなどの状態…

…などになっている方もいらっしゃいます。

 

そのうちのごく一部が、こちらの記事に書いた内容です。

「私なんて、生きていても仕方ないの?」

 

もちろん、このような状態の方ばかりが全てとは限りませんが、このような割合が多いため記しております。

この記事に記したような意味で本当に大丈夫な方は、ほんわか倶楽部にはわざわざ来られません。

表面上の単語をなぞるのではなくて、少しでも、そのリアルを想像してみるだけでも、とんでもない現実が浮かんで来ないでしょうか?

そして、傾聴者の立場では、そのような状態から脱するための寝床を用意できるわけでも、シェルターや生活支援が出来るわけではないのです。

(また、シェルターなども、あまりにも、ずさんで精神的にもキツイ環境だったともお聴きしたケースもありました。)

 

ここで言いたいのは、傾聴者でもカウンセラーでも、現実的には安心できる家を用意してあげられるわけでもなく、仮にケースワーカー等へのリファー(紹介)は出来たとしても、実質的な意味では何も背負ってあげられない…

つまり、実質的な責任は取れない、役に立たないかもしれない立場だということです。

そもそも「役に立とうとする」からズレていきやすくなります。

集中して本気の傾聴はするけれど、「何にも役に立てないかもしれない」のが前提というのも、まっすぐで良い気が私はします。

役に立ったかどうかも結果論に過ぎず、お一人お一人違うケースの中で、どこまで再現性・確実性があると言い切れるでしょうか?

ですので、励ましは、どこまで効果があるのか、私ははなはだ疑問を感じてしまうのです。

 

○ 言葉のナイフを振りかざしたいでしょうか?

 

これらの上で来られる方々は「安心してください」や「大丈夫ですよ」という一見、優しい言葉がナイフのように突き刺さってしまう方の割合が多くあります。

知らなかったで済まない場合もありますため、記しております。

仮にそう言われても表情では笑っていたりして、誰も見ていないところで身体まで壊してうずくまっている…

そんな自分を、本心では「私はピエロ」という、長い詩を書いていた方もいらっしゃいます。

このような状態でないように見えても隠していただけで、かなり心を許してくれるようになってきてから、実は精神薬で症状を抑えてて…というケースも…

(精神薬は、じわじわと症状を悪化させて戻れなくする医原病を招く、最たるものの1つと言われています。)

 

○ なぜ、「言葉のナイフ」になってしまうのか?

 

そのような方々に、もし「安心してください」・「大丈夫ですよ」と述べたとしたら、落胆されたり不信に思われる可能性が高くても不思議ではないのではないでしょうか?

ご本人は、自分が存在しているだけで安心できず、大丈夫ではありません。

自分の存在自体を許しているのが、辛くて苦しくして、栄養の吸収すら下がってて、頑張って食べ続けたとしても、なぜか痩せる状態です。

その根強い辛い気持ちを否定することになったとしても… 述べられるでしょうか?

励ます・支える・支援したい気持ちが、どのような流れで裏腹となってしまうのか?に思いを馳せるとしたら、自らの優しい気持ちからの思い込みだけで通せるものではないのではないでしょうか。

 

もちろん、「そんなつもりは、さらさらなかった」方が大半かもしれませんが、そんなつもりがなければ、ご本人は平気になっていただけるのでしょうか?

 

隠していたとしても、実は根強い根強い人間不信…

または、対人恐怖の状態で「大丈夫」と言われても、何が大丈夫なのでしょうか?

その言葉自体が突き刺さるとしても…?

そのように言われること自体が、「あぁ、また、私は誰にでも、そんなふうに言われてしまうような人間なんだ…」と、誰にも言わずに落胆されたとしても…?

「もし、そんなことをされたら立ち直れない」と言っていた人もいて、私がそのようなことをしないのを信じているから来ていただけて、内側を話してくれています。

それなのに、もし、そのようなことをするとしたら、私はそれを「傾聴」とは思えません。

これらを感じていくほどに…

 

○ 私は自然と言わない以前に、思いもしない

 

くり返しになりますが、本心では上記のように感じる可能性が、ほんわか倶楽部の傾聴を求めてきていただける方々には、かなり高くあります。

「あぁ、またか…この人も…」と内心で思い、たとえ、表面的には話してくれたとしても、本当のコアとなる主訴はまず絶対に言わないでおこう、と思われてしまうような可能性です。

そこに「私たちは(傾聴者だから)大丈夫です。安心してください」とは、私は到底、言う気持ちになれません。

 

一見、表面だけをみていたら、決まりのように言わないようにしているように他者には見えたとしても、心から自己一致して言えません。

「うつ」病と呼ばれる症状が出ている方々に向けて、かつて「頑張ってと言ってはいけない」と述べられるようになって、久しいと思います。

それ以前は、その意味すら軽視されていた、場合によっては嘲笑すらされていたのに、段々と無視できなくなってくると、すこしずつ少しずつ、その意味や本質について語られ始めるようになってきた時代もあったと思います。

 

もし、前述の内容を熟読の上、思いを巡らして少しでもじっくりと感じていただけるとしたら、励ましや、または慰めは気休めのエゴや言葉のナイフになる危険性があると、薄々でも感じられて来ないでしょうか?

また、それでも言いたくなったとして、それがまさしく自己一致しているのだとしたら、傾聴マインドとは何か別の自己一致なのだと思います。

しかし、「自己一致」の語源は「来談者中心療法」にありますため、語源からもズレた使い方ということになります。

 

○ 日常会話と、本来の傾聴はチガウ

 

普段の日常会話と、本来の傾聴が真摯に必要とされる場面は違います。

これも学びを続けていけば、なんとなくではなく明確に知ることが出来るものです。

「あたかも話し手のように共感して」というだけでも、もの凄く奥が深く、また大半の方は誤解されているように思えます。

そもそも、基本態度条件は自己一致がもっとも大事とはしても、一致だけではなく、受容・共感もありますね。

少なくても、これらが三位一体となっているのが基本態度条件であり、どれか1つだけで分割して成り立っているわけではありません。

さらに基本以外の条件もあるため、基本に近づいていかなければ、本来の傾聴には近づいていかないことになってしまいます。

 

○ だからこそ…

 

まずは基本に忠実に知っていこうと、私は学び続けている途中です。

基本を感じ続けて、本当に自他共に(先生レベルの方々からも)「プロ」と認められるまで、私は分かっていない段階での自分の考えより、もの凄く奥深い基本を知っていくほうに努めます。

その姿勢は、例えば、以下に書いた「守・破・離」の意識もあります。

「守・破・離」というプロセスの重要性

よければ、熟読していただきましたら幸いです🍀

 

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