相互尊重の上で「生きやすさ」を目指す

傾聴における「共感」

 

今回の記事は、傾聴者のはしくれとして記してみます。

一般的に「この曲に共感する」という表現がありますが、傾聴でいう「共感」とは異なります。

「この曲に共感するひゃっほー」というのは、実際には「同感」を表しています。

傾聴における「共感と同感」については、過去の記事でも触れました。

傾聴における「共感」と「同感」の違いは、いまや多くの場面で語られるようになってきましたが、理解しているつもりでも、つい混同してしまうことがないでしょうか?

この混同が続くと傾聴からズレていったり、相手との関係に誤解や摩擦が生じる可能性があるため、正しい理解を深めることが重要ですね。

今後、具体的に体感できるワークショップも企画したいと考えています。

 

共感を用いた傾聴にむけて

 

ある傾聴の先生が…

「心あたたかい本気の他人事」

と言い続けていたのを思い出します。

私自身、傾聴の活動を続ける中で、「傾聴における寄り添い」とは「相手の荷を背負う」ことではないと実感しています。

 

共感と適切な距離感

 

他人を背負おうとしても、さまざまな理由で実現できず、むしろ適切な距離感が求められます。

もし相手を背負おうとすると、以下のような事態に陥る可能性があります。

  • 共倒れのリスク

    • 例:介護疲れで心身を壊してしまう家族
    • 例:クライアントの苦しみを抱え込み、バーンアウトするカウンセラー
  • 相互エゴの増長

    • 例:「あなたのためを思ってやっているのに!」という押し付け
    • 例:「これだけ尽くしているのに、なぜ分かってくれないの?」という不満

特に家族やパートナー間では、「相手を背負うことで期待が膨らみすぎる」・「依存しすぎる」ことが原因で、関係が悪化するケースが多く見られます。

「なんで!?○○してくれないの?」 「なんで!?わかってくれないの?」

こうした不満が生まれるのも、無理に相手を背負おうとした結果かもしれません。

傾聴における「共感」は適切な距離感を保ちながら、相手の気持ちに寄り添う姿勢を指します。

 

 

相互尊重の上で「生きやすさ」を目指す

 

第三者として関わる傾聴者は、単に共倒れを防ぐだけでなく、フラットな視点から「生きやすさ」へのリフレーミングを促す役割があります。

「生きやすさ」を目指すためには、まず自分自身の価値観や境遇を認識し、それに基づいた行動を取ることが重要です。

しかし、自己中心的な視点だけで、果たして本当に「生きやすい」社会がつくれるのでしょうか?

自分の視点だけで物事を捉えると、他者との違いを無視したり、無意識に排除してしまうこともあります。

私たちが本当に目指すべき「生きやすさ」とは、相手の価値観や生き方も尊重することが含まれているのではないでしょうか?

 

ここで、第三者として関わる傾聴者の役割が、とても重要になってきます。

傾聴者は、単に相手の話を聞くだけではなく、フラットな視点から新たな気づきを提供する存在です。相手が抱える悩みや問題に対して、第三者が冷静に、かつ共感をもって意見を交換することができれば、より多角的に物事を捉えられるのではないでしょうか?

しかし、第三者が関与することで、どこまで「中立」を保つことができるのか?

または、その立場が問題解決にどれだけ影響を与えるのかという点は、慎重に考える必要があるのではないでしょうか?

また、こうしたリフレーミングが個々人の「生きやすさ」にどのように貢献するのか、またその過程で生まれる摩擦や葛藤にどう向き合うべきなのか。

私たちが目指すべき社会において、どういった態度や行動が本当に「共生」を促進し、誰もが生きやすいと感じられるのか?

この問いに対しても、引き続き向き合っていく必要があると考えられます。

 

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