「陰」の目覚め
甘〜いじゃがいもの「インカの目覚め」じゃないですよ^^
随分と対処してきたつもりでも消化し切れていない「陰」は、何かのキッカケが重なると目を覚ましてぶり返すことがあります。
その度合いやぶり返し方は人それぞれだとしても、多くの当事者の方々に見られやすいケースとも言えます。
それは思いもがけずに、つい反射的に世間や人と比べてしまったことが刺さっていたりなど、人によって様々なトリガーとなる外的要因があるでしょう。
どのようなキッカケであれ、それがトリガーとなってしまうのは内的要因に非合理な思い込みがあるからと見立てられます。
だとしても、瞬間的に落とし穴にハマった時点の当事者の多くは、きっと、そのことに全く気が付けないか、気が付けるまで苦しみと時間がかかることも少なくない。
ジャッジは不要どころか…
見えていない、あると思わずに見落としていたから落とし穴です。
このことへの良い悪いの判断やジャッジは、ここでは不要どころか逆効果でしかありません。
小難しい表現になりますが、一部にだけもてはやされる不条理な優生主義と排他性からの偏った利得、その一端となる他、何の未来があるでしょうか。
「利得」とは金銭だけではなくて「心の利得」というものもあり、優生思想や、そこからの排他性などは慢心・おごりがもたらすものに他なりません。
落とし穴の中は酸素が薄く、呼吸もしづらく、視野もぼやけてしまうかもしれません。
度合いはそれぞれ違いはあるとしてもクライエントさんの多くは、何かしら、その状態を抱えて来られているように思えます。
それは、どれだけ乗り越えて来たか、乗り越え方を学び得て来たか、そこからの認知の仕方にも寄るかもしれません。
ですが、もし自らが見えていなかった落とし穴に落ちたとして、それがジャッジされて何の意味があると思えるでしょうか。
酸素が薄く、呼吸もしづらく、視野もぼやけてしまう落とし穴に自分自身が落ちたとして、同じことが思えるでしょうか?
「自分は大丈夫、なぜなら○○で○○だから」
他人事を見ていたら、そう思えるかもしれませんが、それは「正常性バイアス」と呼ばれる思い込みの一種ではないでしょうか…。
見えていない・自覚できないから落とし穴なのであって、人によって何がドボンになるかは差異があり、見えているもの・見えていないものは人によって様々でしょう。
でも、それを乗り越えられるのは、どうしたって本人の中からであり、本人ではない人間が「教えてあげる」というのは、その状態の当事者からすると、おこがましく押し付けがましい、その感覚が感じ取れるかどうかも大きな分かれ目になります。
教えるのではなく、本人の中から気がついて導き出せるように何をどう与えるかであって、そのために何を学び続けていくかです。
もし、呼吸困難やチアノーゼになったとして、どのような苦しさや辛さなのかを実感しているのは、その時点では本人以外いないですし、代わってあげることも出来ません。
そして、もし代わってあげられたとしても、そうなると支えるというより、巻き込まれてしまっているカサンドラ状態に入っていっているわけで、それでは視野が狭くなりやすく支えることは難しくなってしまいます。
そのためにロープをつたって… 一緒に落とし穴の中に降りて、その空気を感じながら…
2つあるうちの酸素マスクの1つをを渡して、急場の吸入をしつつ…
一人では這い上がれなくなっている、その肩を抱えながら一緒に昇って、上がってからマスクを外して一緒に「はぁーー」と思いっきり呼吸しよう。
それをしようと出来るかどうかかが問われるかもしれません。
ジャッジなんてしている場合ではないと言いますか、何の意味もないですよね。
とても難しいことに思えるかもしれませんが、それだけ奥深い価値があると思います。
陽を大切に思うならばこそ、隠も大切に
未消化の落とし穴にハマったその時に自らの陰に目を逸らすと、長引いてしまったり繰り返しになりやすいものです。
下手すると、一生こじれていっても不思議ではありません。
陽を大切にしたいならば、尚のこと、ワンセットである隠は無視できません。陰陽一致とも言われます。
内にある何らかの陰を抑圧してはアンバランスとなり、抑えるほどバランスを取ろうとリバウンドが強くなる。
だからといって、あまりに無理して直面化させようとするのも、痛みや呼吸困難が激しくなり過ぎて戻って来れなくなったら危ういと言えます。
まず、その段階で優先されるのが、例えばインナーチャイルドに向けられるワークでされるような深い癒しのプロセスだと、最近、改めて実感しました。
本当の受容・承認の奥深い大事さ
かつて、私は何度も複数のパターンでして来た癒しと回復のプロセスなので、必要なところを時間をかければ思い出して、早々に戻ることも出来ます。
そうは言っても昔は全くそうではなく、何年も長い間、囚われ振り回されて来た…全くの不自由だったと言えます。
そう振り返ると、今こうして在るだけでも、決して完璧でもなければ高得点でもないけれど、低得点でもない。
かなりのスピードが上がっていて、与え続けてくれた方々には、今更ながら頭が下がります。
ここで思ったのはセルフであれ他者からのケアであれ、本当に心の奥の奥から受容・承認されることの深い大事さであり、カウンセリング系のワークやセッションは数多く様々なものがあれど…この大事さは全てに通ずる根っこなのではないか、ということです。
この根っこに繋がる学びと練習と実践を身を持って続けていなければ、本当に人生そのものを左右しかねないことも、人によってはあるかもしれません。
誰しもが「愛と所属・尊厳・自由・承認・受容・自己実現・安全・生存」(←順不同)などへの基本的欲求を、本能的に持ち合わせています。
それぞれに求める度合いや優先順序は、人によって差異があるとしても、これらは普遍的なことと言えるでしょう。
- そのために深い癒しへの機会を、自他に提供し続けること
- そのための学びと成長と、現実的な強さを併せ持てるようにチャレンジし続けること
このことをデフォルトにする取り組みにこそ、綺麗事やご都合主義などではないリアリティと臨場感、奥底からのグツグツとしたワクワクを私は感じ取れます☺️
また、それが深い意味での還元であるかのようにすら思えます。
ここに書いた視点はピアサポーター的で、他者のためであり、自分のためです。だから「自他」と書きました。
同時に当事者の側面もあるからこそ感じ取れるもの、これだけは誰から学ぼうとも当事者以外からは感じ取れないものではないでしょうか。
つまり、これは自分が当事者のところは当事者視点から言えても、自分が当事者でないところは、その感覚を伴に感じようとする心からの尊重による共感力が求められます。
その両方が大切で、もし、当事者視点ばかりを振りかざしてしまうとしたら、それは疾病利得を求めようとしている偏った姿となり、もし、そのままズルズルと行ってしまうと、過剰防衛で逆差別してしまう落とし穴も待ち構えているわけです。
そんなことも彷彿と思い返しつつ、陰陽、どちらも味わいながら中庸に進めたらと、憧れのような気持ちで思うことがよくあります。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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