○にフォーカスすれば、○が増えて△×が減っていく。
△や×にフォーカスすれば、そこが増えて、○が減っていく。
どこに意識を向けるかで変わっていく。
嫌々、身に付けたものは、いずれ嫌悪感が伴って、喜びと感動の臨場感を感じながら身に付けたものは、いつまでも覚えていたくなる。
「恐怖と喜びと感動」
恐怖だと緊急性があり、人は急激に動き出すとしても、できれば思い出したくないものに変容していく。
わざわざ嫌だったこと、怖かったことを、前のめりで思い出そうとするのは防衛本能であるとしても、快・不快で考えれば後者なので、恐怖から離れたら、急速に霞んでいき、嫌だったこととして定着します。
喜びと感動だと、恐怖ほどのスピードはなくたって、いつまでも浸っていたくなる。
喜んで前のめりで、何度も反芻したくなって定着度が上がっていく。
客観的に観ても、どちらがサステナブルでしょうか?
ここで大事になってくるのが、効率よりも効果です。
そうは言っても
「それは分かるけど、そうは言っても△×だって解決しないといけないではないか」
「○と思っていないのに、○と言うのは違うではないか」
そうですよね! △×だって放置しておくわけにはいきません。
もちろん、「○と思っていないのに、○と言う」ことでもありません。
一切否定していないのに、ダメ出しなしで△×も本心から気持ちよく、クリアにしていける方法があります。
単に、褒め言葉を述べて、チヤホヤすることでもなく、そもそも褒め言葉は使いません。
褒め言葉は使わず、まずは、○のところを見出して、具体的に承認することから始めます。
(もちろん、これだけでもありません。)
そもそも、△×にばかりフォーカスするほどにフィルターがかかり、○が視えなくなってきて、不穏な重たい空気感にすらなってきます。
仮に表面上では笑っていたとしても、奥のほうでそんな空気感が少しでもあるとしたら、それは成長しやすい空間でしょうか?
このことは「○の良いところもあった”けど”、△×は直してね」と、上げておいて落とすなんて古典的手法を使いましょう、ということでもありません。
それでは、まるでムチとアメで、あからさまな他者コントロールでモヤッとした不快感が伴いやすいですね。
在り様(ありよう)から
まず、ダメ出ししたくなる心理は、そもそも昭和時代の遺物で刷り込まれた在り様(ありよう)であることを意識することから始めます。
指摘・指示するしか方法はないと思い込まされているのだと、学びを積み重ねていくうちに私は実感してきました。
だからといって、ただ黙って「うんうん」と相槌だけして聞くだけのことでもありません。
まず、受け止めるのは必須ですが、それだけでは進んでいきませんね。
「うんうん、そうだね。そうだね。それでね、そこはね…」と切り替えて進められたとしたら、いかが感じますか?
それ以前に、心からお相手を理解しようと受け止めていないとしたら、お相手も心から理解しようとはして来ないでしょう。
『7つの習慣』の第5の習慣『まず理解に徹し、そして理解される』です。
「人が他人を変えることは出来ません」
どれだけ「自分が正しくて、相手は間違っている」と確信してコントロールしようとも。
人は、それぞれ違った価値観を持っています。人は正論だけで動くわけではないことも知っているのではないでしょうか?
それを「ワガママだから」と、短絡的に括れるものでもありません。
禁止や制限、ミスの許されない窮屈な世界になっているからこそ、視えにくくなっているもの、見失っているものがあります。
違う人間同士の動機付けは外側からなされているようで、それは他人軸なので、本当の意味では改善されないのです。
人の本当の動機付けは自分軸からであり、内発的なもの(内発的モチベーション)であってこそ、本当の意味で落とし込まれて変容していきます。
そのためのコミュニケーションの仕方、フィードバックの仕方というものも多々あります。
待つこと・承認することもリーダーの役目です。
「分かっていないから教えてあげよう」という、上から目線は現代においては諦めましょう。
それでは、どうしていくのかは、長くなってきましたので、別の機会に触れていければと思います。
新しい時代の、新しい進め方を知って実践していく場こそ、本当に心地よく、しまいには生まれてきた意味すら実感してしまいます。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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