目に視えないが乗っている意識

『読んでいただける方への「敬意」を持つには』というテーマで、全5回に分けて記していきます。

本記事は、その第3回目です。

前回までの記事は、下記リンク先をご覧ください。

 

目に視えないが乗っている意識

 

言葉でどれだけ立派そうなことを書いていたとしても、その裏側にある意識が伝わるのは避けられないようです。

それは書き手が思う以上に、敏感な読み手の方には何倍にも感じ取られていると言われます。

述べている側は一生懸命なあまり観えなくなりがちなことも、しばしばあると考えたほうがカラ回りを減らせるということですね。

例えば、伝わるようにズバッと表すことを意識したつもりが、単に冷たいだけになっていたりすると、笑っていても目は怒っているみたいで怖くも感じられます。

表面上は丁寧でも、その実は相手を見下げているような慇懃無礼(いんぎんぶれい)になっていないか、画面の向こうを観ないで尊大にならぬように……。

出された表現には、それらを紡ぎ出すときの奥の感情が乗っています。

 どのような感情で書いていますか?

書きながら感情の検証ができることも、書き手のメリットと言えますね。

 

 「怒り」か「叱責」か

 

「怒り」の感情で記しているか、「叱責」の気持ちで記しているかでも違うでしょう。

ご存知のように「怒る」のと「叱責する」のとは意味が別ですよね。

(なんか「叱責」というのも、エラそうで違和感がありますが……)。

「怒り」は自らの未整理な鬱憤(うっぷん)が含まれていたり感情的なものをぶつけていて、エゴイスティックな臭いを醸し出します。

感じ方は十人十色でしょうが、私は焼けたゴムの臭いのように感じます。

「叱責」には、相手への思いやりや優しさがあるもので、大きく言えば「慈愛」が込められているというところでしょうか。

私は「叱責」には、例え、それが痛くても胸にストンと入りやすいイメージがあります。

 

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている

 

公開した表現の受け取られ方は、読み手の受け皿によって左右されることは往々にしてありますね。

そうだとはしても……

から太郎
読み手がアカンねん

よほどの誤読や歪曲でもなければ、書き手としては、このようには思いたくないものです。

どうしても、斜め上の捉え方ばかりしてしまう敬意のかけらもないかのような人も世間にはいて、時にガックリさせられることもあるかもしれません。

それを怒りたくなるのも仕方ないかもしれませんが、怒りを表すということは相手と同レベルになるということで、自らに負けているということを忘れたくないものです。

敬意のない相手に対して怒りを表すとは、自らも敬意を放棄したことになり、相手への自らの敬意の押し付けにもなるという、浅ましい姿になりかねません。

そこまでするのは、その必要性や客観的な価値がある場合に限定するのが良いと、私は思います。

思いますが、よほどの注意をしなければ、単なる人格否定のための攻撃にすらなってしまうケースだって珍しくないでしょう。

ここで留意したいのは、自らの偏狭なエゴイスティックを社会正義のように勘違いしてはいけないということもあります。

以下は、過去記事で書きましたが再掲します。

怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

“Beware that, when fighting monsters, you yourself do not become a monster… for when you gaze long into the abyss. The abyss gazes also into you.”

上記の言葉はご存知の方もおられると思いますが、ドイツの哲学者・フリードリヒ・ニーチェが、著書・『善悪の彼岸』で記された言葉です。

よくよく噛み締めたい言葉だと、私は思います。

 

怒りは抑えつけなくも良いが、表面化させる前に内観する

 

グレーに近い怒りのエネルギーに乗っかるよりも、自らの表現力を磨いていくことに注力したほうが実りある得策ではないでしょうか。

そもそも完璧な文章など存在し得ない以上、言葉遣いの微妙な違い、ニュアンスの違いだけで誤読を招いてしまうこともあります。

沸々とした鬱憤(うっぷん)や怒りの最中には難しい状態であったりもしますが、時間をかけてでも、よくよく内観が肝だと思います。

怒りは抑えつけても消えるものではありませんので、ただ、じっと内側で見つめ続ける(内観する)ことで、いずれ和らいで消えていきます。

無理に抑えつけようとすると、かえって化膿したり膨らんでしまう性質がありますので、自らの内側で受け止めることが大切です。

その怒りの強弱や認知の仕方により、そよぐ凪にするのにかかる労力や時間は様々でしょう。

そのために誰にも見せない自分だけの秘密のノートに、思うまま書き綴るのも良策であり、そこから気付きや発見も見い出せる確率もあります。

怒りの処理の仕方についてご関心のある方は、アンガーマネジメントについて学んでいかれるのも意味があります。

ここでは、以下も過去記事で書いたものですが再掲します。

「攻撃は最大の防御」

これはスポーツの世界なら良いでしょうが、現実にまで作用させてしまうと「目には目を、歯には歯を」というような荒涼とした世界観になってしまう恐れがあります。

現実では「闇は闇で追い払うことは出来ない。光だけがそれを可能にする」というマーティン・ルーサー・キング氏の言葉を大切に思いたいです。

ことわざで「人を呪わば穴二つ」という言葉もあります。

人を呪ったりすれば相手だけではなく、自分の墓穴も必要になって穴が二つという意味ですね。

 

 書き手として配慮と見直しを続けていくことで、少しずつでも磨かれていきます。

 

話し言葉と、書き言葉

 

対面での話し言葉ではスムーズに通じていたとしても、書き言葉にした途端、誤解されたりするということはよく聞きます。

話し言葉なら、すんなり伝わっていたようなことでも、そのまま文章にすると相互認識がズレて誤読させてしまったり……。

話し言葉では表情やしぐさ、声の抑揚や間、その場の空気感(コンテクスト)も共有できて、コンテンツだけの場合と情報量が違いますしね^^

この辺りのことは、以下の過去記事・後半『相手に伝わるのは、言葉以外の要素が9割以上』の項目で具体的に触れています。

日々の中で、小さな感動でも実感していますか?

 

コンテンツだけの場合は、口頭で話す時より何倍も気を配ることが求められると考えられます。

執筆する際に話し言葉を用いると、自然な感じになって柔らかさも出しやすくなってきます。

伝わる度合いも意識して、書き言葉・話し言葉を使い分ける程度加減も書き手のカラーに合わせて必要ですね。

私は書き言葉にウェイトを置いた書き方が多く、読んでいただける方によっては堅いと思われやすいようです。

そのためか私自身が書いた文章の印象と、会話しているときに相手が受ける印象が随分と違うと言われることがあります。

「堅いかと思っていたのに、とても話しやすい」と言われることは、有り難く感謝です^^

 

前回までの記事は、下記リンク先をご覧ください。

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