厳しさと 排他的は 似て非なるもの

『読んでいただける方への「敬意」を持つには』というテーマで、全5回に分けて投稿しております。

本記事は、その第2回目です。(前回の記事は、こちら

 

読み手さんを意識するとは

 

読み手さんを意識することの1つに、読み手さんが理解するスピードに合わせて書くという姿勢もあります。

あまりにも一人勝手に言いたいことだけを、自分の解釈スピードでマシンガントークで書いているだけでは、受け手さんは、書き手が何を言いたいのかすら分からなくなってきます。

ノッている時は、つい走ってしまいがちになりますので、ノッている時ほど後での見直しが大切なんだなぁと思います。

自分自身では分かりきっていると思っていることでも、読み手さんにとっては、そうではないかもしれません。

対象とする読み手さんが何が観えていて、何が観えていないかを考えて踏まえながら噛み砕くことも大事です。

また読み手さんが分かりきっているようなことを噛み砕きすぎても、くどくなってしまうので心地よいであろうスピード感もあると、より読み進めやすくなってきます。

ここに書き手としては客観的な視点が求められることと併せて、読み手さんを敬意を持ってイメージしているかどうかがにじみ出てきます。

これらは個々の主観的な感覚や好みなどに左右されることが大きく、どこまで行っても完璧なんてないと思います。

読んでインプット・書いてアウトプットの継続と積み重ねで磨き続けて生きたいと望みます。

 

ブログ記事・公開前後の見直し

 

前回の記事の中盤より「” 熟成と見直し改訂 ” は大事で、「熟成→ 忘却→ 発見」のようなサイクル」ということについて触れました。

見直す前に公開するか、見直した後に公開するかについても記事の良し悪しを左右しますね。

見直してばかりいると時間ばかりかかってしまって、いつまでも公開できませんし、全く見直さないわけにも行きません。

よほどの場数をこなしていてロジックもしっかりしているのでしたら、ほとんど見直さなくても行けるのかもしれませんが、私は何度も見直すようにしないと気が済まないタチです。

それでも、あまり見直してばかりいると、さすがにキリがなく、完璧ではなくても行動することのほうが大事だろうという想いのほうが頭をもたげてきます。

ということで、私はこの個人ブログでは書きながら何度か見直して、基本的には完全を求めずに程々の段階で公開しています。

毎日公開することを目標にはしていませんので、特に焦ることもなく書ける時に書いているブログです。

もし焦ってしまったら、つい敬意も適当になってしまう懸念もありますが、マイペースな分、心は込めやすいかなと思っています。

公開してからのほうが緊張感もあり、公開後の熟成・見直しの濃さも違っているような気もしています。

ただし、よほど執筆の迷路にハマってしまったようなカオスな?原稿は、公開せず下書き保存にしています。

「このテーマは、まだ書ける段階ではなかったんだ。もう少し自分を磨いてからだな」と思ったりしています。

(自社サイトやサービスサイトは、じっくり何度も検証後に公開しています)。

 

甘いことや、キレイゴトばかりを言いたくない、とはしても

 

私も、この視点は大事だと感じていますが、ここで厳しさと排他的は似て非なるものというところから、少し見詰めてみたいと思います。

厳しさなら、その奥にある強さや優しさが感じられるでしょうし、排他的なら、その奥にある優生思想的な冷たさが感じ取られるでしょう。

 厳しさのつもりが、書き言葉としては冷たく感じられるものになっていませんか?

 

今の時代、わざわざ排他的な扱いを受けてまで居たくないという意識のほうが、一般的には根強くなっているのではないでしょうか。

私は40代後半で「昭和」に生まれて教育・風習を受けてきた一人ですが、昭和の時代は、もっともっと優生思想的な風潮が根強かったと言えます。

私もそれらの風当たりに直面してきた人間ですが、そうとはしても昭和ならではの純朴さも良かったものです。

それらの過去を ” 遺物 ” というような言い方もしたくはありません。

過去があり今に繋がっていて、もうすぐ「平成」も終わり、皆さまご存知のように来月の5月から「令和」となりますね。

温故知新迎合というより進化していきたいと考えます。

個の重視の時代になってきている今は迷走も感じられることもありつつも、基本的には良い方向かなと思えますし、マネジメントについても学びを重ねたいところです。

これは仕組みも要(かなめ)でありながら仕組みだけのことではなく、まつわるコミュニケーション表現にも進化が求められているところが大きいと思います。

コミュニケーション表現は口頭だけではなく、メールやSNSなどで文章も使うこともあるでしょう。

その中に、軽視か敬意か、どちらが含まれて滲み出ていますか?

自らの表現を進化させて磨くためには、相手(読み手)への敬意が欠かせません。

それがまた、自ら(書き手)への敬意として返ってこようと来まいと、自らを成長させるために一役も二役も買っているのなら、充分に価値があるでしょう。

 

前回の記事は、下記リンク先をご覧ください。

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