言語化できるようになるのは重要。だけど……

モヤモヤとして言葉にならないよりは、明確に言語化できたほうが精神衛生的にも、とってもとっても良いとは思います。

ハラスメントや同調圧力などで抑圧されたり、うまく自分の言葉が見つからなかったりすると、段々と閉塞感が募り息苦しくなっていきます。

言語化ができるようになっていくとは、心の解放へと繋がっていく重要なことですよね。

ここでは既にある程度、言語化が出来るようになってこられた方をーに向けて書いています。

言語化するためのスキルについてのガイドは、既に様々な方が出しておられますし様々な書籍もありますので、気になる方はそちらへお進みください。

 

 どのようなスキルも使い方次第なのでしょう。

能力バトルものの漫画でもそうですが、能力やスキルは使い手によって救いの神にもなれば、滅びの悪魔にもなります。

能力やスキルを身に付けるまでは純粋な思いであったキャラクターが、次第にその力に溺れて悪魔化していくこともあります。

それは大抵、主人公ではない脇役として描かれますが、私たちは、自らの人生の主人公でありたいと思います。

言語化スキルが上がってくると陥ることがあるかもしれない壁として、言語化と理論武装は紙一重で使い方によっては両刃の剣ということがあるのでははないでしょうか。

自己の尊厳や心の成長を守ることは、最重要です。

その範囲内での武装だけならまだしも、それを他者を非難する武器に転じた瞬間から、闇に魅いられてしまうことは注意したいものです。

 

 「攻撃は最大の防御」に隠れた墓穴

「攻撃は最大の防御」

これはスポーツの世界なら良いでしょうが、現実にまで作用させてしまうと「目には目を、歯には歯を」というような荒涼とした世界観になってしまう恐れがあります。

現実では「闇は闇で追い払うことは出来ない。光だけがそれを可能にする」というマーティン・ルーサー・キング氏の言葉を大切に思いたいです。

ことわざで「人を呪わば穴二つ」という言葉もあります。

人を呪ったりすれば相手だけではなく、自分の墓穴も必要になって穴が二つという意味ですね。

いがみ合って罵り合うのではなく、願わくば心の乾杯を大切に考えたいですね。

 

 ミイラ取りがミイラにならないように

 

言語化、言葉を逆手に取って使うことは、横暴であり難癖のようになってしまう悪手です。

「非難」と「批判」の違いも踏まえず他者攻撃に化けてしまうようなコミュニケーションは、泥沼化しやすいように私には感じられます。

もし、どうしても闇に囚われて自己保身と他者攻撃ばかりの利己的になってしまいそうなら、自らフェードアウトするという傷を深めない方向もあるでしょう。

どうにもフェードアウト出来ないならば、離れずに相互の尊重の上で打開していくため、何らかの気づきと学び、そしてトライが必要ですね。

「非難」と「批判」を、同じ意味のように混在して使われている場合もよく見かけます。

少なくとも「批判」とは、自分自身の内省を踏まえながら建設的な姿勢を守り、相手の主訴を充分に捉えられていることが前提と考えられます。

「非難」と「批判」の違いについては、こちらの白空(はくう)ブログの記事で記されています。

 

簡単ではない

 

上記『批判的思考というものについて』を見てお察しいただけるかと思いますが、「非難」ではなく本来の「批判」をしようと考えたら、決して容易に出来ることではないと感じられるでしょう。

それほど、人を理解して尊重して共に最適解を見い出していくことは、簡単ではないことなのかもしれません。

だからといって、もし、相手がどのように厄介であったとしても、その主訴をねじ曲げたり、部分のみ切り取って拡大解釈して結論ありきの「非難」をしていたとしても、それが何になるでしょうか?

それらは、ただの暴論、ヤジと変わらず、心理的にも現象的にもマイナスを生み出してしまいます。

残念ながら、単なる人格否定のための攻撃にすらなってしまうケースだって珍しくないでしょう。

怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

“Beware that, when fighting monsters, you yourself do not become a monster… for when you gaze long into the abyss. The abyss gazes also into you.”

上記の言葉はご存知の方もおられると思いますが、ドイツの哲学者・フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)が、著書・『善悪の彼岸』で記された言葉です。

よくよく噛み締めたい言葉だと、私は思います。

人を理解して尊重して共に最適解を見い出していくことは、困難を乗り越えてでも成し得るだけの価値が十分にあると、私は感じています。

 

 ” 最適解を求めるため ” のもの

 

話を戻しますが、「批判的な思考」とは” 最適解を求めるため ” のものであり、あら探しをして否定的にする「非難とは異なる」ものです。

前提として相手の主訴を捉えることだけでも好意的な姿勢での理解が必要となり、負の感情や短絡的な思考、マインドでは出来ません。

人は、” 理解してから理解される(まず理解に徹し、そして理解される) ” とはロングセラー『7つの習慣』に書かれている第五の習慣です。

理解せずに、自らに都合よく相手を押し潰して暴利をむさぼったところで、それは不毛な砂漠でザラッとした砂利をかじるようなものです。

その上で得た泡沫の勝利など、一時的な砂上の楼閣で本心の奥からは心地よくもないでしょう。

理解したからといって、必ずしも同意・賛同しないといけないということでもありませんが、真っ直ぐに真摯な態度と心で理解しなければ始まりません。

  • 何が始まらないのか?

    最適解を求めるためのコミュニケーションが始まりません。
  • なぜ、真摯な態度と心が必要なのか?

    敵対心で聴いていたら、話を捻じ曲げたり部分を切り取って揚げ足を取ったりなど「非難」になってしまうでしょう。

人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故か。

自分が話す二倍は、相手の話を聴かなければならないからだ。

これはユダヤの格言ですね。

私はこの言葉を見ると、ゾウさんのような大きな耳のイメージを思い出します。

 

自分自身の心のモニタリング

 

建設的な姿勢を守るには、相手の尊厳を尊重する心の姿勢で、好意的な理解と継続が欠かせません。

相手を尊重するとは、よく相手を観てのことですが、同時に自分自身の心のモニタリングも必要です。

自らを内省することなく心を整えることもなく、相手を的確に観ることは出来ないということです。

的確に観れないまま好意的な姿勢ですと、心理的に巻き込まれて視野狭窄(しやきょうさく)な盲信のようになってしまうかもしれません。

それはどこか共依存的であり、最適解を求める方向からは外れていきます。

「共感」していると思いつつ、その実は甘え合った「共依存」になっていませんか?

「批判」の意味を理解することで、「批判」はそうネガティブなものではないということが分かります。

「非難」ではなく「批判」できる精神は、最適解を求めるために大事なのです。

 

まず、真っ直ぐに理解してから、その上で、どのような建設的な未来をイメージするかは知見も必要ですし、良心に根付いていないと出来ないことです。

知見を振りかざす前に、心の在り方がどうなっているかが何よりも大事な根幹と私は思います。

ましてや、抑圧のための攻撃・排除の姿勢などでは破壊や破滅のベクトルで、建設的にするための土台など、何一つ築けません。

心の整え方は探っていけば実に様々な情報がありますので、自分に合った方法を、ぜひ、継続していただきたいと思います。

 

 心の視力

 

大前提として相互の理解や尊重だけでも甘くないと思いますが、それで建設的なイメージが出来てさえいれば、それで万事OKの魔法の杖などではなく、そこから、さらに先があります。

イメージだけではなく具体的な方策や方法論があって、現実的なフレームが創られていきますので知見を要します。

一つの知見が必ずしも相手に通じる最適解とは限りませんので、複数の知見を持つように努めて、一つに固執しない臨機応変な柔軟さも大事です。

柔軟にするためには、まずは多面的に見通して俯瞰(ふかん)する力と見立てる力、つまり心の視力が求められます。

心の視力を曇らせずに知見を適格に有効活用することで、最適解を求めて打開に進んでいただきたいと願います。

その歩みが少しずつでも噛み合っていくと、これほど楽しいことはないと次第に感じられるようになります。

 

声にならない声に真実があるかも?しれない

 

現実世間では先生と呼ばれるような人でも、複合的な知見をもって俯瞰(ふかん)する視点の人は圧倒的に少ないのではないでしょうか?

環境にもよるでしょうが、まだまだ普及しているとは言い難いでしょう。

そのため、特定の思考ジャンルに凝り固まった視点からの考え方を、正論を振りかざすかのようにゴリ押ししてくるケースも少なからず見受けられます。

権威や権力があれば、声が大きければ、多弁であれば、立場があれば、マジョリティ(多数派)であれば、例え、偏っていても通してしまえるという集団的な意識のほうが根強いように思われます。

それがマイノリティ(少数派)だったり、敏感だったりする人たち(私もそうです)にとっては、多々の生き辛さ、ざらつき感を生んでしまっている背景の一つと言えないでしょうか。

暴走列車のように行き過ぎてしまえば、とても怖い悲劇とも思うのです。

声にならない声に積極的な関心を持って、2つの耳を傾けていただきたいと願います。

 

「批判」の土台となる主訴を読み取るとは行間を読む力でもあり、声にならない声を聴く力でもあります。

このこと自体が甘くなく傾聴の技術もさることながら、決して技術だけで出来るものでもなく、根幹の在り方がどのようになっているかによって、例え、同等の技術を持っていたとしても雲泥の差が出ます。

実に奥が深く幅も広く、私もまだまだ学びきれていませんが、とても意義を感じています。

 

以下の記事は詩的に書いてみたもので、500文字未満です。

ポジティブもネガティブも ちゃんと観る

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