複数タイプの反応
ブログも書いています、というと複数タイプの反応があります。
- 私も書いています。
- 私は書きたいけど、時間がなくて…。
- 私は思っていることを言語化するのが苦手で…。
- 私は思っていることを不特定多数に向けて出すのは、気が引けて…。
- へぇ~、そうなんですね~。(… 相づちのみ)
いずれでもご本人判断だと思いますし、各位の感じるところがあると思います^^
私もブログを書いているとは言っても、書くときは書くし書かない時もあり、毎日、書くことにこだわってはいません(^^)
仕事上の関わりがあれば後述で触れるような必要性も鑑みて、書くこと(アウトプット)をオススメすることもありますが、そうでもなければ、わざわざ、あおることもありません。
それはそうとしまして、私は暇つぶしに書いているのではありません^^
集客のため?と訊かれれば、この個人ブログは集客目的でもなく、たまに集客系のクライアントさまへのフォローのために書いているときもありますが、大半はただ書きたいから書いているだけです。
まぁ、観ていただけた人に、私という人間は、こういう人間だということが多少なりとも伝わればいいかな~とは思いますが、一番は自分の思考の整理や消化のために書いています。
つまり「忙しいから書いている(表現している)」ということです^^
忙しい現場ほど、ぶっ散らかすのでは混乱を招いてミスを呼んでしまいますので、忙しく動くと同時に片付けながら進めるのがポイントでもありますね^^
ここからブログを書くなんて話から外れて、だんだんと思考を広げていきます^^
その視点としては(繰り返しますが、ブログを書くなんてことに限らず)「重要事項を優先するとは?」ということを思って、以下を記してみました。
「忙しいから」
「忙しい」と書いて「心を亡くす」と読むのは、忙しい時ほど私は思うときが結構あります。
そうなってしまっては、いずれ、空回りを発生させることにもなってしまうかもしれません。
空回りとは、頑張れば頑張るほど…、うまく行かないことばかりで虚しく辛くなることです。
例えば、忙しいからと、いつも時間に遅れるような人は印象も良くないですし、どんなに取り扱い商品・サービスが良かったとしても、誰かに紹介して良いものか?と思ってしまいます。
応援すらしにくくなってしまうんですね^^;
ご本人は一生懸命に頑張っているのは見て取れますが、表情にも余裕がなかったりして、物は落とすし、ただ頑張れば良いというものでもないだろう、と、しんどそうと感じられてしまいますよね…。
そうなると誰かをマッチングさせようかな、と思っても、しんどいことになるんじゃないかな…と不安がよぎってしまうわけです。
(実例ではなく、たまにいるんじゃないかな…という想像です)。
そうではなく、頑張れば頑張るほどシナジー(相乗)効果が上がっていって、ココロがぬくぬくしていくから楽しめるのだと思います。
どうせ日常を過ごすのでしたら私は、そのようなゴキゲンのフロー状態は維持していたいと思います^^
社会に接続させることに自分への意味がある
ブログに限りませんが、わざわざ書いたものを公開することにも、私には意味があります。
本名で社会に接続させるからこそ、こっそり書いているものよりは、ずっと何倍も(自分を)見直そうという気持ちが自然に起こりますし、多少なりとも磨かれる実感が伴います。
その実感とは他者承認などに左右されるものではなく、自分で自分を認めると同時にシビアさも持って育てていくブラッシュアップ視点であり、楽しいものです(^^)
しかも、虚飾のない本音であればあるほど自分にとって意味がありますし、もし、ごまかして着飾っていては自分のココロにもウソを付いているようなことになるのではないか、と感じています。
広告、集客でも本音の想いに(演出ではない)光っているものがあると、それを的確に伝えるほどに反応が得られやすかったりします^^
生きていることとは、表す・表していること
私は、生きていることとは、表す・表していることだと感じています。
まず、一人で生きているわけではない以上、黙っていても、誰かに影響を与えてしまっています。
それは、自覚するしないに関わらず…。
(仮に、引きこもっていたとしても、引きこもりエネルギーが放出されています)。
目に見えないエネルギーでも、仮に位置関係が遠くであっても、影響を与えるのは心理学でも証明されていますね。
つまり、影響を与えるとは、それ自体、すでに存在自体で何かを表してしまっているということです。
それは意識的に書いているブログなんかに限らず、人により形は様々でしょう。
例えば、ビジネスとして何かの仕組みを創ることだって表現の一形態です。
接客するのだって、たとえマニュアルに沿ってしていようと、それをどう使うかはイントネーションや表情・仕草などのノンバーバル(非言語)を含めて、自己表現の1つです。
どちらにしても表してしまっているなら、真正面から意識的に表していってこそ爽やかに感じられますし、観えてくるものもチガウと言えます。
なんとなくするのと、意識的に考えてするのとではチガイますよね^^
求めてくれる人だっている
そんなふうに感じてきたからか、表すことを舐めている言い訳を立てたとしても、自らの言い訳を自分で赦すマインドは大切ですが、誰かれ構わず他者に向けるのは大人ではないと感じてしまいます。
別の記事でも書きますが、どこに優先順序(重要事項)を置いて、どのようにスケジュール管理するかの認識の持ち方にもよります。
目先のことをこなすのも大事ですが、少なくともそればかりでは私自身は虚しいと思ってしまいます。
意識的に表さないとならないなんて義務はありませんし、私も思ってすらいませんが、ただ、伝えられると喜ぶ人もいるだろうに、勿体ないなぁ~と思える、いわば“持っている”ような方もおられます。
“持っている”のに、ご本人も出したいのに、いつまでも踏みとどまっているのは、下手したら自分のカラに閉じこもっていたいようにも聴こえてしまいます。
そこに、存在価値やミッションに対して、真摯に生きようとする姿勢はあると言えるのでしょうか?
存在価値は生まれ育ちも含めて、その良し悪しがどうこうではなく、きっと天から?与えられてきたものではないでしょうか。
癒やしたり暖めるために”カラ”に閉じこもるときも必要ですが、もし仮に、そればかりですと明確に伝わることのないまま、いずれ”カラ”回りを発生させてしまうのではないでしょうか?
実際にそのような現象になっている人がおられるようにも、私には視えるのです。
表現方法は何であれ表すこととは、意識的に外に向けて生きることに通じます。
大海というほどではないかもしれませんが、思い切って大海に飛び出してみて、初めて感じ取れるものはあるでしょう。
たかがブログから、存在価値のところにまで話を膨らませてしまいましたが、ご存知のように、人生は有限です…。
どんな色彩カラーを表しますか^^?
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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