「一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」

『読んでいただける方への「敬意」を持つには』というテーマで、全5回に分けて記していきます。

本記事は、その第4回目です。

前回までの記事は、下記リンク先をご覧ください。

 

「一隅(いちぐう)を照らす、此れ則(すなわ)ち国宝なり」

 

好きな言葉は様々ありますが、私はこの言葉 ↑ ↑ も好きで、よく脳裏に浮かびます。

この言葉の由来や意味については、すでに明確に書かれている方がおられますので、以下の外部ブログ記事などをご覧いただければ幸いです。

 

 

猪突猛進に上位ばかり追いかけていくのも楽しいものですし、私も停滞よりは上昇が好きな気質もあります。

起業家の気質というところでしょうか。

ただし、自分たちばかりが上がることに気を取られてしまっている人たち、その姿にはカラカラと、どこか寒いものも感じる時もあります。

ここでは再現しませんが上から目線がアリアリで、判別性の強い切り捨て的な言動などを目にした時は、モヤッとするのは私だけでしょうか。

それらが「表現の自由」とは言っても、違和感を拭いえない感じを受けることがあります。

 

対象の絞り込みは大切、ですが……

 

万人に通じる商品・サービス・仕組みでもなければ、対象者は絞られて当然です。

私は、そこに違和感を感じるのではありません。

対象を適切に絞り込むこと(ターゲットの絞り込み・ペルソナ設計)は、提供側にとっても受け手にとっても、時間や資源を有効に活用するためにも大事なことです。

ただ、その絞り込みをする際の接し方を傍から眺めていると、丁寧に言っているようで慇懃無礼(いんぎんぶれい)が透けて見えてしまうケースも見受けられます。

驕った「見下し」感は、言葉の裏に感じ取られてしまう醸し出るものです。

なぜ、見下せるのか分かりませんが、傍から見て理解に苦しむからモヤっとするのだと思います。

同じことを述べるにしても、もっと違う言い方があっただろうと思えてしまうわけですが、その背景は提供側の「敬意への心がけ」の違いなのだろうと、見た瞬間に感じます。

どんなに表現を駆使して正当化しようと声を張り上げようとも、瞬間的に感じ取られてしまうものは感じ取られてしまいます。

作為的なものは、本人が思う以上に嗅ぎ取られると知ったほうが良いでしょう。

人は言葉で理解しているようで、感情(エモーショナル)や感性で把握して理解しているというのは、どんなに頭が良いと視える人でも共通する構造です。

 

 一期一会と 自己満足と 俯瞰(ふかん)

 

優生さん
対象者は決まっている
優生さん
絞り込むのだから、冷たくてもいいだろう
優生さん
上得意客が何を差し置いても一番!!
優生さん
一見さんは、あっちに行ってね~
バイバイキ~ン(笑)

 

ビジネスにおいてターゲットの絞り込みが重要なのは原則として変わりませんが、上記の一例イメージは、ぞんざいに感じられないでしょうか。

人の姿を見て我が振り直せとして、私自身も内省の参考になります。

言い方1つの違いで進んでこられる人も増える可能性を考えると、余計にそう思います。

現実的に行なうのは言うは易し行うは難しで甘くはありません。

なかなかに大変なことでもあり気苦労も増えますが、私は最大限、” 一期一会 ” であることを踏まえたいと考えています。

( ” 一期一会 ” は、何回もコミュニケーションした相手であっても、その都度、” 一期一会 ” です)。

言葉1つで10倍以上、反応率が変わったという測定結果も弊社にはあります。

反応率というのは、単なる数字ではなく、人の心の動きに連動した現象であり、言葉1つで10倍以上も状況が変わることがあることを示しています。

「うちは、こうだから」と頑固一徹なのも素敵ですが、かたくなになり過ぎない俯瞰(ふかん)した視点を、私は可能な限り心を砕いて大事にしたいものです。

「もっとも強い者が生き残るのではなく、 もっとも賢い者が生き延びるのでもない。 唯一、生き残るのは、変化できる者である」という名言もあります。

 

表現を公開するとは「影響を与える」ということ

 

詳細は省きますがスパッと割り切っていられたら、もっと楽に生きられたかもしれないとも思うことも多々ありました。

私の特性からして、それは自分としては避けられなかったことなのだと、今は分かります。

試験官のように、またはリストラ担当者のように動くことが、時に必要な時もありますものの、とても辛く感じますので、せめて、その際の表現ぐらいは少ない言葉でも心を砕きます。

 

「表現の自由だから見下す表現をしても良い」とはなりません。

「表現の自由」の前に尊重される「基本的人権」を一隅に追いやってしまっていないか、私自身の自戒を込めて気をつけたいものです。

どこかで「基本的人権」を踏みにじってまで、「表現の自由」を謳歌するのは越権行為と言えるでしょう。

その行き過ぎた極端な悪例がヘイトスピーチなのでしょうし、「私は差別なんてしない」と思っていても、もしかしたら自覚なしにしてしまっていることもあるかもしれません。

もし、そこまで考えていたら書けなくなると思えたとしても、(完璧ではなくとも)公開する以上、多少なりとも何かの影響を与えることは間違いありません。

「言葉」はプラス効果にもなれば、書き手がそうとは思っていなくてもマイナスのナイフのように刺さってしまうこともあります。

同じ刺さるにしても、打開や前進に向けて少しでも心地よく刺さるものが出せたとしたら、それこそ幸甚の限りです。

 

前回までの記事は、下記リンク先をご覧ください。

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間違っていなかったんだ

ズレていなかったんだ

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