同感に頼って聴くことの落とし穴

 

「同感」や「同調」で聴いているのは、「傾聴ではない」のはご存知の方は多いかと思いますが、なぜ「傾聴ではない」のでしょうか?

 

例えば、「私なんて、生きていても仕方ないの?」という事例があったとします。

(詳しくは、こちら)

このようなケースの場合、自分の人生とは違っているところが、とても多く同感だけで聴けるような範囲ではなくなってきます。

だからこそ、まずはここでは「同感に頼って聴くことの落とし穴」に触れていきます。

 

  • 傾聴で言う「同感と共感の違い」はもちろん
  • 「同感」で聴くと、「共感」で聴くとの違いは?

 

なぜ、「同感や同調などで聴いていると深まらない」のでしょうか?

例えば、同感で聴いていると、話し手のほうとしては…

 

  • 「この人が同感してもらえる範囲でしか、私は話せない」
  • 「せっかく、肯定的に接してくれているのに崩せない…」
  • 「とても優しくて良識のありそうな聞き手さんに、こんな人間なんだ…と思われたくない…」

 

過去記事の『「正しい自分」しか話せなくなる … 危うさ』も思い出すでしょうか?

このようなことは一般的な会話ではよくあることかもしれませんが、傾聴の場でまでしてしまうと幅が狭まりますね。

たとえ共通するところがあったとしても、違う人間同士でどこまで「同感できる幅」があるでしょうか?

同感で聴くのは「わかるまさにそれ」的に、実にラクで簡単ですよね。

では、同感で聴いていて「ん?ちょっと違って来た…それは、おかしいのでは…?」となった場合、どうしますか?

 

 

言葉には出さなくても、表情や口調・目の色、間(ま)で違和感を醸し出して、態度だけはうなずいたり相槌をしたとしても、それで受容になるでしょうか?

または、何かフォローするような「あなたは間違っていないですよ」的なジャッジメントを出したり、それを「傾聴」だと述べられるでしょうか?

「あなたは間違っていない」と言われたら、その反面でまだ話していなかった「間違っている自分」は隠したくならないでしょうか?

そうすると、もし問題があったのだとしても、それは内在されたままとなり放置されたり抑えつけられて、本当のところではスッキリもしなければ、自己受容も進みません。

進むとしたら、限られた側面だけを認める自己承認欲求が満たされていくだけではないのでしょうか。

 

同感に頼って聴いていたら、「傾聴でいう共感」(傾聴の3つの基本態度条件)で聴く姿勢から外れやすく、慣れていないと共感と同感を同時にさりげなく行き来するのは難しいと思います。

(共感がクライエントさんの主観的な考え方や感じ方であっても、あたかもその人であるかのように感じたり、考えようとする姿勢」だとしたら、自分の主観と違っていても、そのままを"心から"聴けるかどうかです。)

 

そうして頼りにしていた「同感」からズレた時に、そのつもりではなくても違和感を醸し出すのは、場面によっては相手の中に何かのモヤッと感を残したり、下手すると傷つけてしまうケースもあります。

ですので、私たち傾聴者は、傾聴の場面の「共感」とは何だろうかと、しっかりと学ぶ必要があり、また、じっくりと何度も感じる必要があります。

同感で聴いている以上、その奥に違う核心があったとしても、決して、そこに辿り着くことも出てくることもなくなってしまいます。

 

例えば、辛い思いをして来ている人ほど…

「あなたは私の味方かのように言ってくれているけど、そう言っていた人が何人も手のひらを返して来たのを、私は知っている」と…

もし、このように痛感して来ていた場合、いかがでしょうか?

ですが、ご本人は内心で思ってて口にはしていないわけです。

 

これは(同感されないだろう… 味方してくれているのに、こんな感情は反発されるだろう… 隠さないと…)と思えて、怖くて言えないですよね。

このように隠れた核心にも触れられていない段階で、同感で聴いたり励ますのは、傾聴ですらないということが伝わるでしょうか?

 

少なくとも…

「あなたは私の味方かのように言ってくれているけど、そう言っていた人が何人も手のひらを返して来たのを、私は知っている」

このような気持ち・感情・体験・心象風景などを、ありありと自己開示できる信頼関係(ラポール)があるかどうか、です。

 

上記の例では、傾聴の基本態度条件の一つ「無条件の積極的関心・無条件の肯定的配慮」(受容)からも外れた、「条件付きの寄り添い」をしているに過ぎません。

傾聴の寄り添いにおいて「同感できる場合のみ寄り添う」という、聴き手の胸三寸どうにでもなってしまう条件はありませんね。

 

「無条件の積極的関心・無条件の肯定的配慮」(受容)は、テキストで学ぶのも大事ですが、頭で考えているだけで近づけるものではないと思います。

(もし、お薦めのテキストを知りたい方は、(PR)『ロジャーズの中核三条件 受容:無条件の積極的関心:カウンセリングの本質を考える 2』などがあります。)

 

テキスト内容を知るのも大事ですが、それだけで実践できるわけではなく何度も体験する実感が大事であり、現場を踏まえた実践的なトレーニングを重ねるプロセスも、また欠かせないものとなっています。

私は、自分の主観や価値観、観念など限られた範囲だけではなく、本当に傾聴を通じて支えたい・広めたいと願い、どうにか少しずつでも本質に近づきたくて取り組みを続けています。

 

言葉ではなかなか分からないこととも思いますので、よければ味わいに来ていただきましたら嬉しいです。

もし、私が傾聴している時のライブを味わってみたいという方がいらっしゃいましたら、こちらをご覧になっていただきましたら幸甚です。(話し手役の方は無料です。)

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