クライエントさんから「私、どうしたら、いいのでしょうか?」と聞かれた時

このタイトルのことは、結構、悩むところではないかと思います。

クライエントさんは、ただ聴いて欲しいという思いもありながら、相談に来ている心境ですから「私、どうしたら、いいのでしょうか?」という質問は出やすいものと思います。

 

おそらく、他所でも同様の質問をして来て、それでは満足できない。上手くいかない…。

だから、何度もあちらこちらで話を聴いてもらったり、カウンセリングを受けてみたり…

そうして、正解探しをする旅にいるような心境で質問されて来られているケースも、よくあると言えます。

 

何かしらの答えのようなものを得られたとして、その場では納得したように気付いたように笑顔でお礼を述べていただけたとしても…です。

現実に戻って過ごしていくと、それでは満足できない。上手くいかない…。やっぱり…

 

なぜなら、外から与えられた、他人の「私ならこうする」が含まれているからですね。

「私なら」というのは、様々な条件や背景の違いが含まれています。

傾聴の目的の1つである「誰の受け売りでもない、自分自身の内側からの方向性」ではないためです。

 

○ 傾聴の目的は「自己探究」

 

傾聴は「正しい・正しくない」・「強い・弱い」・「信じる・信じない」などの正解探しをするのではなくて、ご本人の中の「自己探究」を支援するものなんだよなぁ、と思いました。

その自己探究を(助言や励ましなどで)ジャマするのは傾聴ではないし、ご本人の「知りたい」という気持ちを、じっくりじっくりと感じ取って、伴に漂い寄り添うのが基本なんだと、改めて感じました。

 

なぜ、つい、してしまいそうになるアドバイスをしないのかは、実に奥が深いですね。

してしまうことの残念さや、見えない表面化しないところで起こる、その逆効果も。

傾聴の場で、それをしてしまったら戻ってこなくなるクライエントさんも、少なくないように思います。

 

「戻ってこなくなる」というのは、1回でズバッとのパターンもあれば2〜3回リピートしてから、というのも考えられます。

ここでは「何も軽減も解消もされていないまま」・「寛解にも何らむかえていない段階で」続かなくなる感覚で記しています。

(表面上や一時的などではなく、本当の意味でカウセリング・プロセスを移動しているかどうか。)

 

せっかく勇気を持って傾聴の場にお越しいただいていながら、離れていくご本人の心理は、どのようなものだろうか……と、よくよく何度も(受容と共感で)思いを巡らすイメージ・シミュレーションも大事だと、私は思っています。

 

○ 相手の立場に立つ?

 

相手の立場に立って考えているようで、実は「それは出来ないこと」とも私は思う時がありますし、「出来ない」こととはしても「近づくことは出来る」とも思います。

それは「○○の環境や状態にいて、○○と感じて考えている、あなたならば、そう考えるよね」ということを、よくよく知っていくのが先です。

 

○ 相手の立場に本当に立つのは、カンタンではない。

 

同記事をつぶさに観て「相手の立場になって考える」って、そう簡単に出来るものではないんだ、ということが感じられるかと思います。

出来ない、とは言っていません。

 

“「思考、感情、性格、価値観的な立場」も、お相手と同じように置き換えられないと意味がない”と思います。

意味がないどころか、逆効果になりかねません。

 

つまり、「相手の立場になって」「自分だったら、どう考えるか」だと、結局、「相手の立場」にはなっていないからです。

これは相当、考えさせられるテーマだな、と思いましたが、教えていただけて、とても感謝の気持ちです。

 

○「私は相手の立場に」なったつもりだからアドバイス

 

複数の団体に関わっていきますと、たまに「私は、スグに相手の立場になって考えられる」と言う支援者の方がいらっしゃいます。

その内訳を聴いていると「相手の立場になって」、「自分の価値基準で考える」だったりします。

 

このことは良かれと思ってでも、自分なら出来る・出来た方策をアドバイスしたくなってしまう心理につながるとも考えられます。

「相手の立場になって」考えたから伝えたくなった、としても、その発言は、相手のためのようで「自分のため」だと思います。

 

これは本当の意味で「相手の立場」になっていません。

ここで言う本当の意味とは…

“「思考・感情・性格・価値観的な立場」も、相手と同じように置き換えられないと相手の立場になっていない”という意味です。

 

今まで傾聴後の応対ご報告もすべて受けてきましたが、アドバイスをした場合は、いずれもリピートになっていません。

高確率でリピートされていないという事実があります。

 

それまで申し込みも丁寧にされていて、何回もリピートされていても、その途端に…です。

なぜなら、アドバイスを求めて来られているわけではないから、です。

 

ただ寄り添って欲しいのに、アドバイスしてしまうことは、「そう感じているあなた(話し手)より、もっと、こうしたほうが良い(聞き手)」ということになるのではないでしょうか。

つまり、聞き手による「価値基準」と「評価」が入っており、それがミスマッチを起こしているという事実です。

 

ここで「私は、こう思ったから」という優しい善意の気持ちは浮かんでくると思います。

ですが厳しいようですが、「事実と意見は違う」ということを、私たちは大事にしたいものです。

 

ほんわか倶楽部は、痛切に傾聴を求めている方々が来られるように創ってきてあります。

それらを観て、悩んだけどかけがえのない勇気をもって申し込みされているクライエントさんに対して、主旨から外れたらリピートされなくなります。

傾聴に徹していたらリピート率は高いというのも、事実です。

 

○ クライエントさんは「知っている」と見立てる

 

同業他社サービスを巡り巡って、ほんわか倶楽部に来られるクライエントさんは、何かしら心に関する学びを重ねてきている方々の割り合いもあります。

プロではありませんが、カウンセリング思考もまったく知らないわけではなく、なかなかに「知っては」いたりすることも多くあります。

 

資格がなくても、内容を知っている方は多くおられます。

有資格者でも、資格取得してからはどんどんと忘れていき、表面しか捉えられていない場合もあります。

 

ではなぜ、クライエントさんは知っているのに、それでは功を成さずに、しんどい気持ちの中で巡り巡って探して、ほんわか倶楽部に来られるのでしょうか?

もちろん、知らないこともあるでしょうし、私たちが知っていることもあるでしょう。

 

ですが、それを、傾聴を求めてこられているクライエントさんに伝える意味があるのかどうか、です。

受け入れられる段階なのかどうか、高熱を出してうなっているような状態なのに、外に出ようみたいな乱暴なことを、少しでも思っていないか?

ココロの状態は、深く深く接していかないと観えてきませんし、深く接しているつもりでもフィルターがかかって観えていないことだってあります。

つまり、クライエントさんの状態を、冷静につぶさに見立てているかどうか?です。

 

見立てとは思い込みからするものではなく、知見と客観的な根拠を要します。

その上で、即座に俯瞰できるトレーニングの積み重ねがあって、初めて出来るようになりだすものです。

 

○ 「わかっている! でも出来ない」に寄り添う

 

私の好きな歌の1つに、橘いずみさんの『永遠のパズル』という歌があります。

ここでは「他人の気持ちなど、簡単に理解できない」・「自分に置き換えて考えるなんて意味がない」というフレーズがあります。

 

「わかっている! よくわかっている。でも出来ない!」という奥を、よくよく感じ取ろうとするのが傾聴でもある、と思います。

一緒に暗い海を漂うということかもしれませんし、そこに呑み込まれないステップを育て続けていてこそ傾聴者が続けられるとも言えます。

 

ここを熟考する必要があると思いますし、リピート率が低いケースでは、どこかで自分の価値観を傾聴中に知らず知らず、何かを押し付けてしまっている場合もあります。

それは直接的な言葉ではなくても応答のニュアンスに密かに含まれていたりして、クライエントさんには思う以上にそこを感じ取られます。

聴き手が、どこかで「そんなことも出来ないのか…分からないのか」と思う心理が、ほんの少しでも働いていないかどうか?です。

これは評価して裁いてしまっているということになりますが、このことを振り返って熟考していける機会を与えられているとも思います。

 

○ 敏感、敏感、とても敏感

 

ほんわか倶楽部に来られるクライエントさんは、とてもとても敏感になっているケースが多く見受けられます。

それは元々、超繊細のタイプの場合もありますし、超繊細ではなかったのに敏感にならざるを得ない状況に追い込まれて、そうなっているケースもあります。

 

どちらの場合でも、ほんの少しのニュアンスでも察知されやすいと思っていたほうが、最大公約数で的を射ていきます。

「口にしなければ分からない」というレベルの話ではありません。

このことは自分自身を知っていく、貴重な機会とも私は感じています。

 

○「相手の立場になって」いるつもり

 

「相手の立場になって」いるつもりで、「自分の思考」で考えてしまうから、というのもあると自戒を込めて記しています。

「自分の思考」で考えてしまう、一見、そんなの当たり前にしてしまうよね、とも思えます。

 

ですが、自分にとっての常識が、誰にとっても常識とは限らないとも言いますよね。

当たり前ではない心理状態のお話を聴くことが多い以上、先入観や囚われなどのバイアスには細心の注意を払いたいと私は考えます。

 

他人の旅路の内訳にあるものを、そうスグに理解できるというのは慢心に他なりません。

慢心には注意しながら進めていくことで、少しずつ少しずつ視力が上がっていくとも、私は感じます。

慢心は常にある、という前提で考える意識です。

 

○ 心理バイアスが全くない人はいない

 

ここで言う「バイアス」とは、先入観や偏見・固定観念などのことを言います。

「私は先入観はない」ということは誰もないと思いますし、それ自体が身勝手な思い込みです。

 

「先入観は少ない」と思っていたとしても、それは「自分のものさし」で観た場合ではないでしょうか?

または「身近な人にも言われたから」という、狭義の解釈ではないでしょうか?

 

それが、環境のまったく違う、バラバラで見知らぬ不特定多数にも言えるという根拠にはなりえないということです。

もし、そう思ったとしたら、これらも思い込みに過ぎず、「事実と意見は違う」・「無知の知」を肝要に、私は想いを馳せます。

 

かつてライターとして、最初の恩師(ジャーナリスト)に教わったことで…

(戦後ジャーナリストの第一人者、超大御所の(故)大宅壮一氏の私塾が、その弟子たちにより発展して学校となったうちのルポライター専攻科でした)

(当時、私は校内での関わりに限らず、校外での恩師の活動に許可を得て付いて回りました)

 

  • 「完全な客観性などない」(それはギマン)
  • 「人である以上、必ずどこかに主観が入る」
  • 「自分に先入観がある前提で、取材をする」
  • 「取材をしながら、先入観がズレていたことを知って軌道修正していく」

…ということが思い出されます。

 

慢心には注意しながら進めていくことで、少しずつ少しずつ解像度が上がっていくとも感じます。

慢心は常にある、という前提で考える意識を大事に思います。

 

あるものにフタをするのではなく、あるものはあるとして、それを踏まえていったほうが注意深くなれます。

最初は小さな一歩、ほんの少しの違いでしかなかったとしても、時が経って積み重なるほどに大きな違いとなっていく……。

それは誰と比べるでもなく、今の自分と比べて、何年か後の自分自身のこととして楽しみなことでもあります^^

 

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