自己承認は、自分の都合の悪いところに蓋をして都合良く解釈する承認です。
自己受容は、都合の悪いところもそのまま見つめて許し受け止める在り方です。
自覚できるほどに客観視し、その場で度合いを使い分け、だんだんと切り替えやすくなってきますね。
支援者マインドが薄まり、当事者マインドに偏るほどに、相手への配慮が薄くなり、生き辛くなってくることも感じます💧
だからこそ、自分自身の傾聴が深められるように関わる、のが大事と思います。
バランス感覚が、本当に大事なところですね
承認欲求に流れたり埋没してしまいやすいケースに、共通して見られやすい1つとして、下記それぞれの混濁が見受けられる場合があります。
共感と同感、素直と従順、謙虚と抑圧、正直と乱暴、調和と同調、配慮と自己犠牲などは、本来はそれぞれ全く違いますが、もしかしたら学校教育でも、そこまで、しっかり教わることは少ないのではないでしょうか?
それぞれの簡易的な意味や違いは、こちらの記事『言葉の混同が生む生きづらさ』で記しました。
しっかり教わったり考えてこなかったからか捉え方によっては誤認も見受けられて、別々のものが混同されてしまうケースもあります。
そうして違いがよく分からない認知のまま、混濁していると、それも生き辛くなりストレスが溜まり、視野狭窄になりやすくなる要因の1つとも言えます。
例えば、固定観念や偏見などの主観に囚われるほどに、視えるものも視えなくなってしまいます。
私などは内側に被害者意識も根強くあるため、特に意識したいところです。
虐待や差別を受けて育ったから、他者の満足のための食物にされないように敏感というのは、心身を守るために欠かせないものと感じます。
同時に全ての人が食物連鎖を仕掛けてくるわけではないため、全てをそのフィルターで見てしまうと、大変な痛みを双方に与えてしまうことになります
強いアダルト・チルドレンの血肉になってしまっているため、そうでない方とは違う空気感があるのだろう。
それによって食い物にされやすい面もあれば、それによってとても信用して大切にしてくれる人もいる。
それならば、大切に思ってくれる人を、大切にしていける自分であろう。
少なくとも、「被害者と加害者は、簡単に入れ替わる」ような人生ゲームには、ハマらないようにしよう。
その際は、それぞれを丁寧に具体的に学んで認知して、違いを深く自分事として考えていく継続が、自己受容への一助となると考えられます。
例えば、前述のように並べてみた、共感と同感、素直と従順、謙虚と抑圧、正直と乱暴、調和と迎合、配慮と自己犠牲など、他にも人間関係の中で誤認してしまいやすいものは、多々あるのではないかなぁと推測します。
これらの言葉の違いを知ろうとさえ思えば、知ること自体は難しくありません。
それぞれの意味や違いぐらいなら調べれば、いくらでも出て来ますので、まずは自発的に知っていこうとする姿勢も、自己に向かっていく1つですね。
コンテンツレベルで言葉の意味を知るのは難しくないとしても、その上で自らに腹落ちさせていくのは全く別のプロセスで、コアへ向かう自己対峙が生じます。
意味を混同していた中には、不条理な信念や思い込み・防衛機制・自己呈示などなど、様々含まれているケースも少なくないようです。
これらの内訳も、多岐に分かれます。
例えば、「ちゃんと言うことを聴いてあげたのに、ずっと繰り返してるし、私はただ聴くだけなんて不毛なことはしたくない」と思ったとします。
傾聴だけして、何になるの?と思う方に多い傾向ですが、これには評価やジャッジだけでなく、「従順や抑圧」も含まれて、そのリバウンドが見て取れるのではないでしょうか?
当事者だけでは負担が大きく、大変なプロセスになるとも予想される際には、専門的な伴走支援が有期間的に必要な場合があります。
その際に支援者は、「依存→自立→相互支援」の概念も前もって学んだ上で、向かう目的の1つとして意識します。

ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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