大切な場面などで、「つい、緊張してしまう」ということについて考えてみました。
私自身、何かと緊張しがちなタイプです。笑える黒歴史もあります^^;
傍から見ていて、結構、信じられないぐらいの緊張屋さんです^^;
もう何かにつけ「緊張」が売るほどあり、バーゲンセールです。
大切な場面でも、それが場数をこなした慣れていることでしたら、緊張もそれほどではないかもしれませんが、何でもかんでも慣れていることばかりとも限りません。
緊張をほぐす手法は、腹式呼吸などなど様々なものがあるのはご存知と思いますし、少し検索すれば、たくさん出てきますね。
詳しい方も多いでしょうから、わざわざ、ここでは触れません。
ここでは、そのようなことでは追いつかない場合を想定して書いてみました。
さらに、パッと浮かびそうなこととしては、「緊張していても、いいんだ。上手く出来なくても、いいんだ」と、自らを許してしまうことですよね。
他にも、こちらの過去記事で書きましたが、「自分はできる」という未来形の言葉ではなく、「自分は、すでに出来るようになったんだ」と、過去形の言葉で自分に言い聞かすという方法もありますね。
「自分はできる」には、内心で「出来ないかもしれない」という恐れが秘められている場合も少なくなく、恐れを抑えつけてしまうのは、かえって恐れを増大させます。
それよりも、恐れすら過去のこととして「出来るようになったんだ」と決めてしまうというものですね。
これらも、とても良いと思いますが、それでも緊張が続くことは、よくあるかも?しれません。
自らにすぐにリラックスが浸透するかどうか、が、現場では大事です。
自らを許すということは習慣化していないと、いきなりスグは難しかったりするのではないか、とも思うのです。
大切な場面で目の前の事柄への集中が求められる状況で、いきなりココロの習慣をどうこうと考えても、どうだろうか、という意味です。
人は習慣のドレイとも言われますが、習慣化させていないことは、とっさの場合になかなか出来ないのではないでしょうか?
頭で考えて、どうこうしようとして、それでリラックス出来るのなら良いのですが、無理な場合、どうしていますでしょうか?
もっとも強いもの
いきなりですが、自らの内にある、”もっとも”強いものは何でしょうか?
テクニックですか? ノウハウですか? 知識ですか?
これらは普遍的でもなく、上には上がいるものではないでしょうか。
“もっとも”と考えた場合、それは人それぞれの大切な存在への想いではないでしょうか?
そのような存在があれば、この想いは決して消えるようなものではないはずです。
仮に緊張してしまう場面であっても、何かしら大切な存在や、その想いのためにしているという目的があり、その想いさえ”強く意識”して見失わなければ、緊張に呑まれることは、だいぶん減っていくように私は感じます。
目の前の事柄に集中して気を配りつつも、その奥深くにある想いが自らを支えてくれるのではないでしょうか。
このことを特に強く感じた最近のことで言えば、下記のような場面がありました。
自分だけの力ではなくて、大切な存在に(その場にいなくても)支えてもらっていると言えます。
「人は自分のためだけになら頑張りきれない」という言葉がありますが、大切な存在のためになら、思ってもいなかった底力が湧き出てくることがあります。
小手先でどうこうしようとするより、根っこの想いを強く意識する・・・。
大切な存在への想いを思い返すだけならば、それほど時間がかからず、スグに出来たりしないでしょうか?
そして、何より強いもののはずではないでしょうか?
「すること」の調整
逆に、強く想うもののため以外のことだと、どうでしょうか。
自ら、したくもないことを、あまりに無理にでもしないとならないことばかりが続くのであれば、想いも力も発揮しにくいですし、プレッシャーやストレスのほうが上回りがちになってしまうと考えられます。
自分のココロにあまりに合わないことをするストレスは、多少ならば経験の幅を広げることにもなり、見識を深めることになるとも言えるでしょう。
ですが、自らに合わない取り組み、無理が多くなりすぎると、しまいにはまるで自分を潰していくばかりで、どんどん弱々しくなっていく拷問?のように、私は感じてしまいます。
そのようなことは私は出来る限り避けたほうが良いと考えますし、そのような何処かできしみそうな、どこかに地雷が潜んでいそうな関わりを求めたくもありません。
もし、頑張ることが自分を潰していくのでしたら、「頑張ることを止める」が適してきます。
自らがもっとも力を入れたい、自らの方向性にフィットする活動にウェイトを置けるよう、何としても調整していくのが、結果として自分だけではなく関係者との関わりにおいても大事なことと言えます。
ここぞという場面でも力が発揮できるかどうかは、想いの強さに大きく左右されるなら、その想いが繋がる行動でなければ苦しくなる一方で、心身にとって不健全ではないでしょうか?
不健全なものごとは、それが一見、上手く行っているように見えたとしても、何かのちょっとしたキッカケで予想外の爆発をする地雷を抱えているようなもので、自分や周囲にとってもリスキーなのではないでしょうか?
年始ということもあり、今年の抱負や「すること」を決めた方も多いでしょうが、「しないこと」を決めるのが大事とも言われますね。
ベクトルは、どっち?
ベクトル、つまり、矢印←↓↑→の方向ですね。心の眼がどこに向かっているか、です。
自分のためか? 自分以外の大切な存在のためか? です。
自分のためだけよりも自他、自分の大切な存在に向けてのほうが強いですし、得られるものが多く、回り回って自分に返ってくるものもチガウ、ということが大切と思います。
自分以外の存在のため、と言いつつ、結局は自分のためなわけです。
それが自らの喜び、そこにウソがない状態が大切だと思います。
逆に言えば、もし・・・「全てが自分以外の存在のため」というような、まるで自己犠牲のように感じて行なっていることであれば、その対象がどれだけ大切な存在であったとしても、どこかに嘘やぎまん、他者依存、抑圧など、何かしらがあるのではないでしょうか。
仮に、どんなに言葉で言い繕っても、言葉以上に醸し出るものを人は感じます。
逆に言えば、目先のテクニックやスキル等を超えた想いの強さも感じられるものである、というメリットがあります。
緊張に呑まれそうな時、ふと、思うことがあります。
「大切な場面で、必要以上に緊張がほぐせないでいる時は、自分を良く見せなければならない」とか、何かしらの「~しなければならない」が、つい、自分のためだけという心情になっているときではないだろうか?
何も責め立てられているわけでもないのに、過度に緊張してしまう・・・。
それが出やすいのは私のメンタルの症状からのものでもありますが、だからといって、力が発揮できずに萎縮してしまったり、ガタガタになるのは本意ではありません。
そうは言っても、緊張しやすいのは、心のクセからでもあります。
そのような緊張屋の私が、キンチョール?から解放されるための要素が、他の誰でもない、何より大切な存在への想いを強く思い返すことです。
そして、これはきっと、私だけではなく普遍的なものではないかな、と思えたりします。
逆もまた真なり、自己保身に走れば自己保身すら出来ず、というところでしょうか。

ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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