誰かに消費されて、吸い取られませんように…

記憶がなだれ込む

辛い過去を思い出してしまうと ……

一気に、なだれ込んで来る時がある。

 

そんなときは、全身が硬直するというか、ゾワゾワしてしまう。

なだれ込むままにしていると ……

また、壊れてしまうほど、強烈に痛い。

 

壊れないように、思考をコントロールしながら、

少しずつ、調整できるようになっただけでも、まだ違う。

 

仮に、このような状態からのお話を傾聴させていただくことになったとして、どのように接しますか?

もし、いきなり、こう言われたとしても、この時点では具体的なことは分かりませんね。

 

分からなくても、寄り添う。

 

話の流れやニュアンスにもよりますが、ここで、どんなふうに壊れたか、ストレートな質問をして答えを求めようとするとしたら、相手にストレスを与えるばかりになることが少なくありません。

もし、聴く側の興味本位などで話の流れを誘導して、根掘り葉掘りのように訊き出そうなどとした場合は、まったくの逆効果になるでしょう。

極端な例で言えば、知る権利ばかりを振りかざす配慮の品性もないマスゴミの取材のような、歪んだ正義感が、どれだけ相手の心を無惨に抉っているかと思えば、その痛々しさは想像しやすくなるでしょうか。

 

辛い状態にあるのを、なんとか吐き出してしまおうとしているときには、話の流れを、言葉が出そうになって紡ごうとしている流れを、誘導して無理に訊き出そうと変えられることは…… 強い負荷になり得ます。

これは論外の過干渉と言わざるを得ず、具体的なことは、なかなか言えない事情や心境を潰してしまっていることへの配慮が欠けているということではないでしょうか。

蝶のサナギは、とても柔らかく、その状態で外部から触られてしまうと、二度とは元に戻らない危うさがありますが、私はこのことを思い出します。

誘導には様々なテクニックがありますが、諸刃の剣になりかねない手法です。

 

「分析」・「答え」以前に

 

不明確なところがあるからといって、聴く側の都合?を優先して、すぐに分析しようとしたり、答えを出そうとする以前に、そこも含めて傾聴の姿勢で、心で寄り添うのが吉ではないかと思うのです。

不明確でもエエじゃないか、だって、にんげんだもの、でしょうか。

何でも具体的に、明確に話さないとならないというのは、話したければ話しても良いでしょうが、職場や何かの義務で話すような場でもないところで無理に求められると、息苦しくプレッシャーになります。

 

そもそも、本人が求めてもいないうちから、多少、話を聴いたぐらいで他者に分析されたり、答えを示そうなどとしたり、励まそうなどとすることが「救い」になるとは限りません。

「救い」になるどころか得てしてズレが発生したり、的外れになる場合も多く、その正しいだろうというような思い込みは幻想でしかないことも少なくありません。

第一、この「救い」という言葉が……、人が人の救いになろうとするなど、おこがましさやエゴを感じてしまい、私はとっても違和感があります。

もし、「あなたを救ってあげます」と思われたり言われたとしたら、とても気持ち悪くて、私は速攻でフェードアウトするでしょう。

間違ってもいないが正しくもない理屈の押し付け、思い込み、エゴ、幻想、しまいには恩着せがましさで尊厳を軽視していませんか?

下手すると、偏見や差別で傷に塩を塗られることを、平然と善意の顔でしてこられた日には、私などには、なかなかダメージとなりかねません。

 

「話すこととは、離すこと」

 

ほんわか倶楽部で傾聴をしていると「話すこととは、離すこと」(手放すこと)という言葉を思うときが、よくあります。

話す側の人が何かしらの事情で追い込まれていたり、心が脅かされていたり、呪縛にかかっていたりすると、話していても支離滅裂な話し方になってしまうことも、不思議ではありません。

パニック的な状態が、日常的になってしまうことだってあります。

それでも、こちらとしては全身全霊の集中力で、心を寄せるように積極的な関心を持って主訴をつかもうとするのが、傾聴の基本マインドだと思います。

 

そもそも「傾聴」にすらなっていないという傾聴もどきの人が、世間では案外とおられるようですが、傾聴になっているかどうかは、自己評価以上に相手の反応でわかります。

初見からでも、安心して信頼して話してもらえているかどうか。

沈黙もあったり、少ない言葉であっても、逆にマシンガントークであっても、どちらだとしても、本心からさらけ出す場所になれているかどうか?

表面的な形ではなく、心からの実感としてです。

例え、話している側が明るくなった、笑顔になったとしても、それが表面的ならごまかしや嘘が紛れ込んでいることになります。

 

抑えつけないことの大事

 

毒のある言葉や話でも、良い悪いなどの規範で制限して溜め込んでしまうことは、肥大化させてしまうことに繋がります。

制限することは必ずしも得策ではなく、ここで吐き出すことが大事となってきます。

そのためにAi(バーチャル、機械)などよりも、血の通った生身の人間が受け止め続けることにも意味があります。

血の通った存在から受け止められた実感が続くと、解放への一歩に繋がっていく可能性が上がります。

毒を後押しするのでもない、抑えつけて化膿させて肥大化させるのでもない、それ以上、害のないように晴らしていくこと、これも大切です。

 

状況や背景によっては、とっても月日や年数がかかることもあります。

それでも安易な空想の答えめいたものを押し付けられるより、本人の中から見い出してきた、本人による答えが、リアルでは有効となってきます。

『傾聴の目的』として記した、こちらの記事が参考になりましたら幸いです)。

自らの内から見い出してきたものが、最も力あるアクションへの土台となっていきます。

聴く側の自己満足よりも、相手自身の効果、それが本来、求められるものではないでしょうか。

 

なんちゃってに、モヤモヤ

 

こんな基本の基本の在り方すらないがしろにしている、なんちゃってカウンセラー、またはカウンセラーもどきが、意外と多いことにもモヤモヤ感を感じます。

この現状を揶揄して、「自分の価値観を述べたいだけなら、カウンセラーではなく、アーティスト」と言っていたカウンセラーの言葉が、言い得て妙だと思ったことがあります。

カウンセラーぶってるアーティストなら、その独特な内容は人によっては面白いかもしれませんが、でもね、カウンセラーとアーティスト、業界は違うのです。

つまり、立ち位置が違うのです。

立ち位置が違うということは、求められているものが違うということです。

ぶってるだけなら、おかしいことになって弊害もハンパなく、アーティストなら、アーティストと自称するのがベターでしょう。

例えるなら、ミカンが欲しいと思っている相手に、りんごを高額で押し付けるような被害を発生させないためにも。

 

そんなアーティストもどきの、なんちゃってカウンセラー、またはカウンセラーもどきに、何卒、あなたの大切な心や時間、さらにはお金を吸い取られないように願います。

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