「私は、□□に思ったからガー」
今回は『「主観」ばかりのケースに感じられるキケン性』として思ってみます。
仮に、個々人の主観ばかりを前面に立てて、モノゴトを論じようとするケースがあったとします。
「私は、□□に思ったからガー」のケースですね。
ところが事実や”方針は□□ではなく、○○だったとします。
そこで「~のように質問して、切り替えさせて、~のように持っていけば良い」などの誘導テクニックがあるとしても、今回の記事では、そのような手練手管には触れずに書きます。
それは「やり方(Do)」としては有効かもしれませんし、私もたくさん学んで使ってきた時期もありますが、根本的なのは、まず「在り方(Being)」だと思うからです。
もし、「やり方(Do)」ばかりに終止したとしたら、その場では功を奏したとしても、その場を離れてからの持続性は低く、繰り返しにもなりかねないかもしれません。
エビデンスのある方針で
上記で用いたキーワード「方針」とは、なんとなくレベルなどで創られたものではなく、社会背景や事実を広く深く観た上で、エビデンスや普遍性を意識して創られたものとします。
個人の強く深い想いこそ実に重要ですが、そういった「内観」だけではないということです。
「広く」と書きましたが、この際のエビデンス(根拠)とは、決して狭い範囲のものではなく、客観的な広い視野から得てきたものであることが条件となります。
「エビデンス」の解釈については、インターネット検索することで知見は得られやすい言葉でしょうが、誤解されて使われている場合も多いようです。
誤解をしないように解釈する参考の1つとして、2019年5月にFacebookでシェア投稿した際に見た漫画も分かりやすいかと思います。
表現の自由は、他者攻撃の免罪符ではない
「私は、□□に思ったからガー」については強く多弁に言ってくるケースもあれば、多弁ではないけれど意固地な場合など様々で、それらは「表現の自由」であり、誰も抑圧して良いものではありません。
ですが、いずれの場合でも独善的であったり排他的であればあるほど、下手したら、まるで舵のない船のように、個々人の主観で…何でもアリになってしまうのではないでしょうか。
このような個人の主観ばかりが、まるで正論かのように振りかざされることが、往々にしてあり得るのではないでしょうか?
言いたいことを言い合うのも良いですが、もし、そればかりですと…
例えば、声が大きかったり多弁であったり、口がうまかったり対人折衝に長けていたり、または、「弱さ」を振りかざして武器と成すような人の声が通りやすくなってしまいます。
いわば「正論」は人の数ほどあるような気もしますし、「正義」だって、何が「正義」なのかは、人や集団(国家を含む)によって変わりますよね。
そうして、ある人の言う「正義」から嫌われるターゲットは、理不尽な目にあっても仕方ないとするような、断罪かの流れまで行ってしまうと…。
それは、もはや「ハラスメント」、「暴力」の源流なのではないでしょうか?
「表現の自由」は、他者尊重の「基本的人権」を踏みにじって良いという免罪符にはなりません。
もっと強烈な不条理が「戦争」であり「テロ行為」などという、かけがえのないものを踏みにじりまくる…取り返しの付かない破壊の惨劇と言えるでしょう。
独善ではないかどうか?
それらの悲劇の発端は「主観」や「正義」ばかりを、あまりにも重んじすぎてしまうマインドのキケン性のようにも感じられます。
例え、「事実」を元にしていたとしても、それがエビデンスと言えるものであるかどうか?、または、そこに普遍性があるかどうか?です。
「もっとも個人的なことは、もっとも普遍的なことである」という心理学者のC・ロジャーズの言葉があり、私も、とても好きな言葉です。
ですが、このことは、とことん突き詰められた場合に限るとも思います。
まさか、認知の歪みを認識せずに振りかざしていて言えることではありません。
仮に「被害者」だったとしても、被害者意識ばかりを振りかざしていると、被害者の立場からの加害者になる、被害者と加害者は容易に入れ替わるということも注意したいところです。
つまり、独善ではないかどうか?とも言えますが、仮に独善であったとしても、それを”思うまで”はその人の自由でしょう。
しかし、それを何らかの他者非難や攻撃に転じた瞬間から「正義」を振りかざしていると考えられてしまうリスキーなことと言えます。
もし、どうしてもどうしても使わざるを得ないと感じたとしても、少なくとも、諸刃の剣のようなリスキーさが付いて回ることは意識していたいと思います。
「自分は自分の知っていることしか知らないし」、「人間は観たいものしか観ようとしない」ということを忘れずにいたいものです。
「事実」と「意見」はチガウということだってあります。
見失いやすいかも知れませんが、この自覚を持たないことは怖いことのように私は感じます。
ふっと、このように感じられたときに、私は自分の内から「私は大丈夫。だって…」という声が出てくるときこそ、より気をつけたほうが良いとも思えてしまいます。
もう、そう思い始めた時点で…慢心が始まっているのかも知れません。
たまたま、この日本で生まれて、問題はあったとしても平凡と言える程度の家庭で育てられて、日本で生きている自分。
とても苦しかったり辛かったりした時期があったとしても、そのような時期に激しく人を恨んでしまったことはないか?と訊かれたら、山ほどある自分です。
いつもキレイな生き方だけをしてこれたか?と言われたら、そうだ!とは言えませんし、ある程度の年齢を重ねてきていても、そうだ!と言えてしまう人は、何だか信じられません。
「ココロ」の為せる技だから…
それに私は、いざとなったら、きっと自分が一番、可愛くて、自分を一番に守りたいと思ってしまうのではないか?とも…。
いや、私は我が子・我が家族や、または恋人を、わが身を犠牲にしてでも守ると確信している人でも…。
酷な言い方かもしれませんが、我が子や家族、または恋人のような存在は、いわば自分のココロを構成している、人間としての自分の強い内的要素とも言えます。
「自分とは別の存在」、肉体などの存在自体は「他人」ではあっても、ココロの内側まで「全く自分とは別の存在」という、繋がりない「他人」ではないわけですね。
当然ながら、それぞれの個性や独自性などの人格性はあるとしても、自分自身を構成している、重要で不可欠な切り取れない存在であることも言うまでもないことです。
小難しい言い方になってしまいましたが、ここで言いたいのは、いざという場合、身内以外の「赤の他人」に、どのように接しられるか?ということです。
または、いざという場合などの極論でなくても、日常から身内以外の「他人」に、どのように接しられるか?ということです。
身内や志向性の合う仲間には優しく寛容に出来るという人は多いでしょうが、例えば、自分にはなかなか理解し得ないと感じられるマイノリティーに対しては?
仮に、一部のマイノリティーについては理解できたとしても、マイノリティーには多様なタイプがあります。
○○を理解できたからといっても、そのまま△△を理解できるとは限らないと、私は感じています。
辛い思いをしてきたからといって、他者の辛さが全部ワカルかと言えば、チガウ人間同士である以上、それは別の話で、すべてを理解するなんて…神業が出来るのか?とすら思えてしまいます。
「分かります」という言葉を、どこかで聴く度にモヤッとしてしまいます。
もしくは、仮に「赦せない」と思ってしまう人がいたとして、「赦せない」に留まらず、どのように思えるか?という課題です。
たとえ「赦せない」と思ってしまう人にだって、それはその人のマインドの「ダイバーシティ(多様性)」が為せる技とも言えるわけです。
出来れば論外と言いたいところですが、ひどすぎるケースになると、エビデンスをでっち上げる事例すらあります。
ここまで来てしまうケースは、言葉に仕切れないぐらい理不尽で哀し過ぎることです。
すべては人の「ココロ」の為せる技であり、その現象ですので、私は人の「ココロ」というものを、ゆっくり少しずつ消化しながら、ひらひら昇華していけるように生きていきたいと思うところです。
ネイティブ・アメリカンの有名な言葉からー
「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい」
少しでも、このように生きたいね^^
~ 親愛なる娘へ
きみが生まれてきてくれた時のこと、思い出さない日は本当にないよ。
涙が出て止まらなかった、あの時…。
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