求めるから得られない、ということもある。

○ 求めたらいけないという意味ではなく…

 

「求めよ。さらば与えられん」という新約聖書からの有名な言葉もありますが、求めるから得られないということもあると感じてきました。

そもそも「求めよ。さらば与えられん」は、ひたすら神に祈れば正しい信仰を与えてくれるという意味で述べられているようですし、日本では宗教と関係なく決まり文句のように使われる風習があるというものだそうです。

本来の意味とはズレて解釈されて使われていることもありそうですが、私はキリスト教の信者ではないので宗教観から掘り下げることは避けておきます。

求めるから得られないと言うと「それでは求めたらいけないのか!」と誤解を受けそうですが、求めたら必ずしも得られるとは限らない、どこまで、ひたすらになろうとも…というのも、きっと多くの人が感じてきたことではないかと思います。

ところが反面、まるでいとも容易く欲しいものを得ているように見える人もいたりして、その人たちも求めていたから得られたわけです。

同じ求めるでも、その違いはどこにあるのだろうかと思いつつ、妬み・ひがみをしたり何かの他責にしていてもしょうがありません。

ポイントは、それに見合う自分になった時に得られるということだと思います。

見合う自分とは環境を変えることでもあり、また必ずしも環境を変えることだけでもありません。

環境とは自分の外側の要因で、それも重要ですが、外側以上に大事なのが内側の何が強くなっているかです。

環境が自分を創るというように外側の要因を得たから見合う自分になっていくというのもありますが、ふさわしい心持ちの自分になったから得られるというものです。

または、ふさわしさへの芽が出始めた時に、ご褒美と背中を押す意味で得られるということもあり、それがチャンスがやってきたという瞬間だったりします。

あまりに欲しいからと、仮に目を血眼にしてそれで得られるかと言えば、それで得られるものもあれば、離れていくものもあるのではないでしょうか。

簡単に言えば、自分勝手でワガママで視野の狭い自分では、どこまで求めても得られることはなく、一時的に得られたとしても定着はせず、求めるほどに離れていく。

なぜなら、それはエゴイスティックな執着だから…。

目を血なまこにしていたら、相手の心はまともに視えていないから…。

そうではなくて、深い思いやりや優しさなどに満ちて、視野を広く持っていて多様性も受容できる自分なら得られるし続いていくとイメージしてみたら、いかがでしょうか?

仮に、そこまでにはなれなくても、あくまでイメージです。

イメージして近づこうという気持ちを持つか、全く持たないかでも違ってきます。

欲求や欲望にフタをする必要もありませんが、それ以上に大切なものがあるのではという視野です。

もっとシンプルに言うなら、ガツガツ執着していたら、もし得られたとしても、どこか刹那的だったり瞬間最大風速で消えやすかったり…。

そもそもガツガツしていたら得られないことが多い、特に本当に欲しいものほど…ということはないでしょうか。

ここで思うのは、求めたらいけないという意味ではなく求め方によるという意味です。

求め方と書きましたが、手練手管の手法のやり方(Do)ではなく、求める在り方(Being)と言ったほうが的を射ています。

外側のコーディネートで自分が変わっていくというのもありますが、内面の意識から醸し出すもの、言葉にならない目にも視えない(非言語:ノンバーバル)のほうが多くを雄弁に語ります。

 

○ 繰り返す人たち

 

ここで私がパッと思いつくのは「婚活」なのですが、婚活に限ったことではありません。

他の事柄でも例に出せますが、ひとまず流行りの婚活を例に使います。

私も独身なので婚活をしたことがあったり、そこで何人かの人とは継続的にコミュニケーションしてきた経緯があります。他にも全く別のところで、婚活をしている人の痛切な話を知ることもありました。

「一生懸命、婚活をしているけど良い出会いがなくて…」という話って聞くことないでしょうか?

動いているのですから出会いがないわけではなくて、良い出逢いを見い出せていないからというのと、それに見合う自分になるとは、どういうことかを掘り下げてられていないから惹き寄せられていない、まず、そこを直視出来るか出来ないか、なのではないでしょうか。

このパターンでは「(安易に)出会いを求めるから、(本当の)出会いが得られない」となってきます。

逆に婚活なんてしていないけど、自分らしく生きることを真剣に追い求め続けていると、素晴らしい出逢いにたどり着いたということもあります。

それらから上手くいくケースとそうでないケースの違い、その根本に感じたのは外に求める前にすることがあるだろう、という、言ってしまえば元も子もなくなるかのようなことでした。

まぁ、そう簡単には言えなくて、そう感じてもスルーしていたりしましたが…一言で言えば、外に求める前に、まず自分をしっかり見つめ直す内観が必要ということです。

再婚活系で見かけやすい「離婚したけど自分は全く悪くない」と言うケースでは、確かに元パートナーの過失が大きかったとしても、「全く」というところにモヤモヤした違和感、何かの合理化のような気配を感じたものです。

そして、そう感じるのは私だけではないだろうな…と思わせるものがありつつ、本人は気が付いてなさそうと感じられてきました。

さらに何度も同じパターンを繰り返す当事者の方は、何度か話していると「あぁ、繰り返すだろうな」と、なぜか感じ取れてしまいます。

傍から観ていたら、なぜ繰り返すのだろうかと不思議になるようなパターンってありませんか?

なぜ、自分は離婚することになったのか…仮に元パートナーの過失が大きかったとしても、元パートナーの責任にばかりしている場合は、違う人といずれ類似したパターンを繰り返すケースも少なくないようです。

これは再婚活系に限らず、他の恋愛事情でも見受けられることではないかなと思います。

心を大樹に例えるなら、根本の土や養分、陽射しの当たり方が同じなら、新しい枝葉も実る果実も、気候による多少の違いはあれど同じようなものになっていくというところでしょうか。

ところが根っこそのものは変えられなくても土や与える養分、陽射しの当たり方は自分次第で変えることが可能で、それによって育つ枝葉も実る果実の味も色合いも変わっていきます。

繰り返す傾向の中で極端な例かもしれませんが、それぞれ別人でありながら同じような人と3回、結婚して、3回とも同じような悲劇になって離婚したというケースも聴きました。

本人談の通り元パートナーの過失責任が凄まじく大きかったとしても、そのようなパートナーを何度も引き寄せて選んだのは、何故でしょうか?(わざわざ聞かないですけど)

結婚もパワーを使いますし、離婚はそれ以上に辛いパワーを使いますが、それなのに何故、繰り返してしまうのでしょうか?(そう思えてしまいます)

そこを見つめていない人は、また同じような人やパターンを引き寄せてしまい、バツの数が増えてくるという傾向にもあるのではないだろうか…。

それ以前に他責にしていると良い人に巡り会えない、巡り合ったとしても離れていくという傾向にあります。

何かあったら、すぐこっちのせいにばかりされそうで安心できないとも感じられるでしょうし、下手したら何でもハラスメント(ハラスメント・ハラスメント:ハラハラ)のように言ってくるのではないかという懸念すら…。

そうして離れられるから、また同じようなパターン…共依存の人としかくっつくことが出来ず、同じような人はなんとなく慣れていて楽な感じもするでしょうし、そうしてズルズルと繰り返してしまうのかもしれません。

離婚経験があっても、新しいパートナーとはとても穏やかに楽しみながら幸せな日々を過ごせている人もいれば、同じような辛さの破綻を繰り返して、どこか頑なに、どこか刹那的になっている人もいるのは、何故なのでしょうか?

(念のため、それが悪いとは言っていません。本人の志向性によるものです。)

 

○ 隠された秘密がある…

 

その「なぜ」に隠された秘密があり、容易ではないから秘密になっています。

ここを直視するのは、とても大変で速攻で他責だけにしたい心境になったり、パンドラの箱を開けるかのようにヒステリーな心理になるかもしれません。

ですので、いたずらに触れるものではなく相応の心の準備…、ごまかしのない自己受容の認識へ向けていく準備が出来てから進めることでしょう。

段階や準備もなしに何でも直視すればいいということでもないでしょうし、だからといって、何でもごまかしたり認否していればいいということでもないでしょう。

どこを選ぶか、ここを進むかどうか・進めるかどうかは自分の自由でしょう。

どこを何を求めるかの自己判断により、幸せになる勇気を持つかどうかの深さや真実味などの強さが違ってくるのだろうなと私には思えます。

暗くて寒そうなトンネルの奥は、到底、観てはいけない、開けてはいけないパンドラの箱に思えるかもしれません。

蓋を開けると、絶望と悲劇、哀しみと苦しみが怒涛のように溢れ出すパンドラの箱ですが、全てを出し切った底には希望だけが残ったと言われる箱です。

もちろん、たとえ話の逸話ですが、なぜ今でも消えずに語り継がれているのか…。

最後の最後に残った希望こそが真実という、そこには普遍的な意味があるからではないでしょうか。

真実こそが、嘘偽りなく人々の心を深く、いつまでも打ち続けるからではないでしょうか。

 

○ 自分の意思で選んだという事実

 

私も友人から、このことをほのめかされた時は、内心で煮えたくるものを感じたものです。

「わからなかった」・「騙された」・「運がわるかった」と、そこで停止ではなく、そこを深く観るのは肩が震えるほど涙が出るプロセスかもしれません。

とても厳しい事実ですが…道を歩いていて、たまたま出遭った偶発的な「交通事故のようなもの」ではなくて、自分の意思で選んだ相手であり歩もうとした道です。

仮に、いくら「交通事故だった」と意見を言おうとも、自分が選んだのは事実であり、事実と意見は違うということも少なくないわけです。

私もそこを見つめるのは体感として骨身がきしんだり、何日もまともに寝られず、水分以外、食事も出来なくなったりなどの辛い経験が何度もあります。

一方的に理不尽・不条理と叫ぶだけなら、そのほうが楽だったかもしれませんが、何度か繰り返してしまったがゆえに、さすがに突き付けられたように思います。

苦しすぎて、しまいには普段は聞こえることのない幻聴すら聞こえた時期もありました。

自分でも「えっ…ここまで来てしまったか…」と、暗く重すぎる気持ちで思ったものです。

原因があって結果があるので、二度と同じ目に遭いたくないなら、そこから心も解放させたいのなら、どこかで直視するしかないという酷な道です。

誰に薦めるつもりもない酷ロードですが、そこを抜ければ開ける道があり、同じ繰り返しにはならないネオ自分が掴めていく光があります。

暗いトンネルは怖いですが、トンネルを抜ければ必ず開ける道があり、その先の自分が惹き寄せる新しい流れになって、初めて違う流れになっているという実感があります。

トンネルを抜けられる人や、抜けられる支えや機会に恵まれている人は、もしかしたら限られているのかもしれません。

限られていると思ったのは、ここに書いたようなことも、3世帯に1世帯が離婚するという離婚率の高さが変わっていない要因の1つなのかなとも思えたからです。

再婚しても離婚していたら、統計上は離婚率に加算されます。

 

○ 自分を赦しながら進む

 

「わからなかった」・「騙された」・「運がわるかった」のは、何故でしょうか?

そんなこと考えても分かるわけないと思うかもしれません。

ところが、それはたまたまではなく、必ず視えなかった要因があります。

「運」は、自分の在り方にも大きく左右されるとも言います。在り方は自分の中にあるものです。

ここで「じゃ、私が悪いの?!」と自分を責めるのが目的ではありませんので、心の条件反射に呑まれないように観察しながら、ぐっと堪えつつ進めるプロセスです。

どんなに自己嫌悪を感じようとも、そんな自分ともセルフトーク(セルフ傾聴)する心構えが求められるところです。

他責思考から自責思考にフォーカスを移すプロセスでは、自分を苛めないで赦す安全性の確保が不可欠で、ここは絶対に忘れては闇落ちする危うさもあります。

自分であれ他人であれ責めるのは簡単かもしれなくて、赦すことのほうが何倍も難しかったりしますが、せめて自分ぐらいは自分を赦さないと、誰が一番の味方をしてくれるのでしょうか。

これが出来ない、どうしてもしたくないといううちは、まだ準備が整っていませんのでむやみに直面化しないほうが安全です。

ここで間違いそうなのが、つい他者承認をアテにしていたら、いつまでも他者承認によってしまうかもしれません。

他者承認も大切ですが、それは他人の気持ち次第のものですから不確かであり、自分の人生を他人任せにしているということです。

それよりも自分のことは、自分で認める…自分の人生は、自分の心は自分で責任を取る、そのための自己承認のほうが早くて確実です。

だからといって、それは自分のエゴを野放しにしようという不条理ではなくて、エゴのある自分も受容しつつ赦すから、自己承認欲求もコントロールして観ていけるようになるという意味です。

「あの時は、そうしたかったんだもんね。どこか間違っているかもと薄々、なんとなくだけど感じていたとしても、それでも、そうしたかったんだもんね」と、自分で自分に寄り添って赦す感覚です。

それで今は、気が付けていけていることがあるのですから…。

 

○ 陰陽でワンセット

 

誰しも完璧な人間などいないように陰陽の陽だけの人間もいないと考えるなら、陰があって当然で陰陽はワンセットと言えるわけです。

いつも明るく見える人でも落ち込むことはありますし、テンションが高く見える人でも24時間365日、ひっきりなしにハイテンションで満面の笑みというわけでもないでしょう。

陰があるのは万人のことなので、本来、そこを責められる人はいないし、受容してこそのものなのです。

極論のように思えるかもしれませんが、このこともまた普遍的なことではないでしょうか。

光もあれば闇があるでもいいです。

普遍的だからと言っても、それが必ずしも現実の社会に反映(受容・承認)されているわけでもないので、「現実はそうではないから」と認否するものでもありません。

素直な心で感じればパッと目に見えるもの・耳に聞こえる現実の事象だけが全てではなく、私たちに必要な酸素も肉眼では視えませんし、聞こえていない周波数の音だってたくさんあるわけです。

現在でも「難病」が多くあるように、何でも科学的、またはロジカルに解明できているわけでもないわけです。

 

 

上記の陰陽図を観ても分かるように、陰の中にも陽の点があり、陽の中にも陰の点があります。

その陰を見つめるからこそ、その中に陽が見い出せるという意味があります。

物事には常に相反した2つの側面があることを両価性と言いますが、その一種…愛憎一致と見れば分かりやすいかと思います。愛しているからこそ憎いということもあると思います。

これは片方の側面からだけ観ていては決して視えて来なくて、理屈ではなくて何かが視えてきた時に、それを思考や行動に落とし込み続けられた時に、そこから次第に解放されて自由になるのだと思います。

その落とし込むのが前述のように、時にとんでもなくハードに大変だったりすることもありますが…。

「もう気にしてないよ」という言葉を言いつつも裏腹に囚われている人と、本当に囚われていない人との違いがあって、本当に囚われから自由になった時に、そこに新しく風が入ってきて乗ることが出来ます。

心から囚われない自由な状態になって、そこで初めて求める気持ちや行動が功を奏します。

囚われから自由になるためには、前述したようなことに限らず何かしら対峙するプロセスがあって為されることで、それは単純な善悪思考や規範に則ったモラル思考だけでは割り切れないのではないでしょうか。

誰しも善の心もあれば悪の心もあるように、善悪や勧善懲悪の二者択一だけでは割り切れないものがあります。

「私は悪いことは何一つしたことがない」という大人がいるのか私には分かりませんが、もし仮にいたとしても、もし厳密に言ってしまうなら…他者を非難して責める時点で、どんな他者であれ、それは悪いことではないでしょうか?

善悪など人によって、社会やコミュニティによって、時代によって移り変わるところも多く、ましてや何が正義かも国によって違います。

決して、善悪の視点や道徳観・倫理観を軽視するわけではありませんが、人の心をそれらだけで割り切ってしまったら心は抑圧されて、それが強まり過ぎると分裂していきます。

これは決して、陰を膨らまそうとか悪を伸ばそうとかという意味ではなくて、善悪を併せ持った私たちは陰陽が統合されていった時に、本当の自分らしさが得られていくのだと思うからです。

子どもでも「いい子ちゃん」にばかり育てようとすると歪んでいくというのは、今の時代、珍しい見方ではないと思いますが、だからといって、わざわざ悪いことをさせようという意味でもありませんね。

大人の都合(エゴ)にばかり合わせた「都合のいい子ちゃん」に育てようとすると、どうなってしまうか、ということです。

 

私が書くと小難しい表現になってしまいますが、いたずらに難しくしたいわけではありません。

物事には両方からの側面があり、それに見合った自分になった時に違う道が開けて、そこで初めて本当に欲しかったものが得られていくということを言葉にしてみたいという試みでした。

シンプルがいいと言いながら、もし、それだけで何でも割り切ってしまうのならば乱暴で粗野な短絡的、安易となってしまいます。

価値あるシンプルさというのは考え抜いて、洗練に洗練を重ねて研ぎ澄まされてなるものだと思います。

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