他責にしては伸びない理由

他責にしていては伸びない、自分が変われば現実も変わるとは、巷でもよく言われていることかと思いますが、他責にしていては伸びない理由を徒然に綴ってみます。

まず、それは”関係性”に寄りませんね。

関係性とは様々なものが想定できると思います。

例えば、上司・部下、カウンセラーやコーチ、コンサルタントとクライエント、親と子、兄弟・姉妹、提携や協業関係…etcと色々とありますが、そのいずれでおいても言える大事なことだと思います。

まず、他責思考自体が、いかなるものであっても違和感や気持ち悪さを感じさせる、それで関係性を進めていくための動きが停滞したりパフォーマンスが落ちますね。

あからさまに他責めいたことを言う人は少なく、まるで業界やクライエントさん達のためになるコンテンツが多々伴って述べられていることもあり、そのような表現はパッと見はなかなか他責に視えなかったりします。

ところが妙に気持ち悪い何かが漂っている、どこか差別的で丸め込もうとしているような匂いを感じる…。

批判のようで批判になっていなくて、非難になっているように思える…。

その元は心理学で言うと、「自己呈示」というものになるのでしょう。

「自己呈示」については検索すれば、どのようなものか概略は分かるかと思いますので、ここでは説明は割愛します。

自己呈示も様々なものがありますし、それ自体が必ずしも良くないと一概に言えるものでもありません。

時には社会で生きていくために自己呈示も多少は必要だったりしますが、それは程度加減だとも思います。

何でもかんでも自己合理化したり正当化したり、自己の優位性を主張するために…だと不協和音となってきますね。

無意識や心の癖でしているものほど当然のように出てきて、絡み合うので分かりにくく巧みに思えたりします。

まず、他責思考が、なぜ気持ち悪さを感じさせるか…。

この人とは、うまくやって行きたいのに、なぜ私は、そう感じてしまうのだろうかと考えてみました。

自らの認知のズレや歪みかもしれないとも思い、数ヶ月に渡って何度もチェックしてみたり一人ノートに書き出してみたりして、時間を置いて客観的に見直してみたりします。

そこで、おそらく本人も気が付いていないかもしれないであろうことも視えてきたりします。

視えてきた1つが、そのケースでは他者理解より自己理解を求める姿勢が、どこか相手の根っこにあるからであり、他責思考で何かを述べることで、他者への寄り添いも配慮も軽視しているからであろうと思えるから…気持ち悪く私は感じているのだ…ということでした。

誰しも自分が一番かわいいものだとはしても、どこかに他者軽視がありつつ、その排他性めいたもので自分に有利に引き込もうとしても分かる人には分かってしまいます。

私に対して軽視したり排他的にしているのではなくても、どこかの誰かに対してそうしているのを見てしまうと気持ち悪いのです。

そういう人は、何かの時にすぐに反転するのではないか、反転を表に出さなくても内心で反転するのではないか、と思えてしまったら…。

そうして関係性を伸ばそうとしても、片方に対してはスレトスになりやすくなっています。

明らかにメンタルブレーキがかかっていると自覚された頃には、別の道を探るか、そこまでではないなら時期(変化のタイミング)を観るかという視点も出てくるわけです。

関係性だけでなく、そのような視野狭窄では何より自身の伸びに自ら制限をかけているようなもので、やはり広がりや伸びには制限が出ると考えられます。

SNSでの宣伝や自己アピールを頻繁にしたり、派手にしたりしている人に見受けやすいかと思われますが、その中で実際に広がりを見せない傾向が続く人には、どこか他責思考のマインドが感じられやすかったりします。

マウンティングしつつ同調圧力を流すから伸びない・広がらない、伸びる人・広がる人はキレイごとではなく、他者の尊厳を唯一無二と観ようとする視点を忘れない。

本人はおそらく気が付いていないから、マウンティングに視えない隠れたマウンティングを続けられるのかな…とも推察されますし、意識していてしているところもあるだろうから混在なのかもしれないですね。

 

自己矛盾に気が付かず、矛盾したまま、自己都合のほうに誘導して当然とするケース、そこには驕りと根底に横たわる優生思想的な在り方では、他者尊重は軽くなってしまうだろうと思われます。

そうすると自ずと社会性の中で偏りは強まっていって、視野狭窄の気配も強まっていくのでしょう。

どれだけ言葉で「尊重」的なことを述べていようと、姿勢から醸し出されるものが他者軽視を感じさせるなら、そこには違和感が伴うものです。

違和感は何かのサインなので、それを感じて知っていくと段々と透けて視えてくるということになります。

もし、そこに呑まれると、人によってはとんでもない過剰ストレスになり、現実や周囲への影響を考えると良くないと思える場合は、その違和感や感性からの判断を重視したほうが、精神衛生上、健全と言えるでしょう。

違和感を感じる感性を養うには、ほんものに接しよう、近づこうとする姿勢を持ち続けることで、フィットするのを探し続け、かつ妄信しない視野を持つことです。

何がほんものかなど一概には言えず、それは必ずしも、御大層なものでなければならないとは限りません。

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